10・諦めない未来と引っ掛かり
東京都青梅市。
まもなく午後1時半になろうとする時刻、インクルシオ立川支部に所属する対策官の兼田理志と、同じく立川支部の上尾瞬は、『空と森と人・ネイチャーパーク』の休憩施設のロッジに入った。
平家建てのロッジのメインルームには、潜入捜査の為の変装を施した東京本部の対策官7人──南班に所属する特別対策官の童子将也、同班の雨瀬眞白、鷹村哲、塩田渉、最上七葉、東班に所属する特別対策官の芦花詩織、同班の湯本広大がおり、室内に並ぶ6人掛けのテーブルの一角に、NPO法人『アウロラ』の代表の樫本信二の姿があった。
「童子。芦花。事件の事後処理は、大方の目処がついたぞ。最終的な報告では、オリエンテーリング大会に参加した一般人の負傷者が48人、死亡者が3人、『アウロラ』のスタッフの拘束が9人、死亡者が5人、そして、首謀者である二戸楓が死亡だ」
「わかりました。兼田さん、情報共有をありがとうございます」
薄手のダウンジャケットの胸元に“フラワー”のネームプレートを付けた芦花が礼を言い、灰色のブルゾンを着た童子が「ありがとうございます」と続く。
「えっと。補足ですが、一般人の負傷者数は、『アウロラ』のスタッフにナイフで襲われて怪我をした以外に、逃げる際に自分で転倒した等も含みます。それと、これは個人的な感想ですが、あの二戸楓が起こした事件だと考えれば、死亡者数の方はかなり少なく済んだかと……」
黒のツナギ服を纏い、腰にブレードとサバイバルナイフを装備した上尾が言うと、上尾の先輩であり従兄弟でもある兼田が「瞬。犠牲になった人の数に、多いも少ないもない。不謹慎な発言はするな」と厳しく嗜めた。
上尾が「さ……兼田さん。すみません」と慌てて謝罪し、童子がテーブルにつく高校生の対策官たちを見やって言った。
「……今回のこの結果は、雨瀬が果敢に戦って二戸を一ヶ所に留め、鷹村、塩田、最上、藤丸が森の各所で迅速にスタッフの凶行を止めたおかげです。また、芦花さんと湯本も、ロッジで樫本さんたちを守った。3人の犠牲者が出てしもたことは悔やまれますが、最善は尽くしたと言えます」
童子の言葉に、塩田が「へへ」とはにかみ、鷹村が「眞白が頑張った」と褒め、最上が「ええ。雨瀬が一番の功労者よ」と同意し、芦花と湯本がうなずく。
雨瀬は戸惑うように視線を落として、「……僕は少し足止めをしただけです。二戸を倒したのは、童子さんです」と小さく主張した。
「……樫本さん。お顔の色が優れませんね。こういう事態が起こってしまって無理もありませんが、大丈夫ですか?」
「……あ、ああ。お気遣いをどうも。気分は最悪ですが、体調は平気ですよ」
芦花が心配げに声をかけ、デニム生地のハンチング帽を被った樫本が返事をする。
樫本はテーブルの上で両手の指を組み合わせ、ふと言葉を漏らした。
「……人間とグラウカの共存を標榜する団体である『アウロラ』が、内部で働くグラウカのスタッフ全員に裏切られていた。こんな間抜けで滑稽な話はないですよね。それに気付かずにいた僕は、とんだ大馬鹿者だ。……でもね。それでも、僕は人間とグラウカが共に笑顔で暮らす未来を諦めたくないんですよ。どれだけ裏切られたって、僕のこの信念は、ほんの少しも曲がりっこないですから……」
樫本が声を震わせて言い、双眸から涙を流す。
「……そ、そうですよ! 樫本さん! 『アウロラ』の交流イベントは本当に楽しかったです! 俺、また必ず参加しますから、これからも続けて下さい!」
塩田がもらい泣きをして声をあげ、他の高校生たちが「俺も」「私も」「僕もです」と次々に言って目を潤ませた。
「樫本さん。我々インクルシオが望む未来も、人間とグラウカの平和的共存です。互いにやり方や立場は違いますが、同じ『道』を歩む者同士、しんどい時こそ顔を上げて踏ん張りましょう」
童子が穏やかな口調で言い、室内の対策官たちが優しい笑みを浮かべる。
樫本は「ええ……! ええ……! ありがとうございます……!」と感極まって返し、温かな涙をいつまでも流し続けた。
森の中に建つロッジからやや離れた場所で、東京本部の東班に所属する藤丸遼は、努めてぶっきら棒な態度で言った。
「……話って、何だよ? 俺は忙しいんだけど……」
「……“フジ”君。インクルシオのお仕事があるのに、呼び出してごめんね。でも、どうしてもお礼が言いたかったの。さっきは危ないところを助けてくれて、どうもありがとう」
藤丸の眼前に立つセミロングの黒髪の少女──“チサキ”のネームプレートを付けたグラウカの千咲恵がにこりと微笑む。
藤丸はその濁りのない笑顔を見やり、僅かに目を見開いた。
「……“チサキ”。俺のことが憎くないのか?」
「……“フジ”君は、私のお父さんを殺したのがインクルシオ対策官だから、自分が憎まれても仕方がないと思っているのね。だけど、“フジ”君の過去と、私の過去は違う。私は、父親の件でインクルシオの人たちを憎んだりはしないわ」
「……!」
千咲がはっきりと告げ、藤丸は言葉を失った。
二人の間に風が吹き抜け、足元に落ちた枯れ葉が小さく舞う。
「話はそれだけ。怪我をしていない人は広場で事情聴取を受けているから、私もあっちに行くね。……『アウロラ』の交流イベントで“フジ”君と出会って楽しかった。いい思い出をありがとうね」
そう言って、千咲が踵を返すと、藤丸が「“チサキ”」と低い声で呼び止めた。
「……そのまま、背中を向けて聞いてくれ。俺は、母親と弟を殺した反人間組織のグラウカが憎い。その激しい憎悪が全てのグラウカに向いてしまうのを、自分ではどうしようもできない。……だけど、『アウロラ』の潜入捜査を通じて交流したお前や、同じインクルシオにいるもう一人のグラウカの存在が、俺の中の“消せない憎悪の灯火”に少なからず影響を及ぼしている。それが、俺にとっていいことか悪いことかはわからない。……でも……」
「“フジ”君。何が正解かはすぐにわからなくてもいいんだよ。だから、とりあえず、未来に向かって進んでみようよ。……じゃあ、次はカツラを付けない姿で『アウロラ』のイベントに来てね! 会えるのを楽しみにしてるよ!」
千咲が前を向いて元気よく言い、広場に通じる遊歩道を走り出す。
藤丸は「いや、俺はああいうイベントは苦手……」と言いかけたが、短髪の頭をガシガシと掻き、「……時間があったらな」と遠ざかる姿に独りごちた。
ロッジを出た「童子班」の5人は、立川支部の車両が並ぶ『空と森と人・ネイチャーパーク』の駐車場に立っていた。
「ねー! 童子さーん! 兼田さんたちが、ジープで東京本部まで送ってくれるってー!」
「昼メシがまだなんで、どこかに寄って食べようかって言ってくれてます」
「確か、この近くにテレビや雑誌によく出る天丼のお店がなかった? 兼田さんたちに訊いた方がわかるかしら?」
「僕、この服じゃ、お店に入れない……」
塩田、鷹村、最上、雨瀬が賑やかに走り寄り、立川支部の別の対策官と話していた童子が「そうか。本部に戻ったら、拘束したスタッフ9人の取り調べがある。今のうちに腹ごなしをしておこか」と振り向いて返した。
「雨瀬は、これを着ておけばええで」
童子は灰色のブルゾンを脱いで差し出し、雨瀬が「す、すみません。ありがとうございます」と礼を言って受け取る。
雨瀬はあちこちが切り裂かれた上着を脱ぎ、乾いた血痕が残るシャツを、童子のブルゾンを羽織って隠した。
童子は雨瀬の着替えを見つめて、内心で思考する。
(……俺が二戸を発見した時、奴と対峙する雨瀬は身体中に傷を負っていた。そのいくつかは、遠目からでも深手であることがわかったが、雨瀬の側に駆け付けた時には、全てが綺麗に消えとった。……今まで、雨瀬はこんなに傷の治りが速かったか? それとも、蒸気と出血の量で深手やと推測した傷は、実は大したことがなかったんか?)
童子は小さな引っ掛かりを胸に抱いたまま、ブルゾンのジッパーを首元まで上げた雨瀬に「……ほな、行こか。あいつら3人は、すでに兼田さんたちのジープに走ってったで」と笑いかけた。
雨瀬が「はい」と素直な笑みを返し、童子は痩せた肩を軽く押す。
冬の爽やかな日差しが照らす中、二人は横に並んで、「早く、早くー!」と手を振る仲間たちの方に足を踏み出した。
<STORY:23 END>




