02・NPO法人『アウロラ』
午後2時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の7階にある執務室で、チャコールグレーのスーツにストライプ柄のネクタイを締めた本部長の那智明は、ICレコーダーを前に通りのいい声を出した。
「我々インクルシオは、反人間組織のグラウカと命懸けで戦う日々を送っているからこそ、誰よりも強く人間とグラウカの平和的共存を望んでいます。互いの存在を認め合い、手を取り合って、未来への道を共に歩んでいくことを、私自身も願ってやみません」
執務室のソファセットに腰掛けた那智が、ゆったりと両手の指を組む。
那智の向かいには、会報誌に掲載する記事のインタビューで訪れた、NPO法人『アウロラ』の代表の樫本信二が座っていた。
樫本は45歳の人間で、デニム生地のハンチング帽を被っている。
NPO法人『アウロラ』は、人間とグラウカの共存を推進・支援する非営利団体で、樫本が25歳の時に発足した。
主な活動内容は、お茶会、料理会、トーク会、天体観測会、キャンプ、18歳以上の合コン等の企画・運営で、人間とグラウカの楽しい交流を目的としている。
東京都許区に事務所兼イベントスペースを構えており、樫本を支えるスタッフは26人で、その内訳は人間が12人、グラウカが14人となっていた。
「──はい。これでオッケーです。いやぁ、さすがインクルシオの本部長さんとあって、人間とグラウカの共存に対する言葉に重みがありますな。これは、いいインタビュー記事になりますよ」
ICレコーダーの録音を終了した樫本が、ほくほくと顔を綻ばせる。
那智は「少しでもお役に立てたのであれば幸いです」と返し、テーブルに置いたコーヒーカップに目をやった。
「どうぞ飲んで下さい。よければ、淹れ直しましょうか?」
「いえいえ。ちょっとくらい冷めたって平気ですよ。では、遠慮なく……」
樫本は手を振って、目の前のコーヒーカップを持ち上げる。
琥珀色の液体を一口啜り、「ああ。美味しい。普段立ち入ることのないインクルシオで飲むコーヒーは、一味違いますよ」と笑った。
「一般の方がここに訪れることは、あまりないですからね。この建物内を歩いているのは、東京で起こる凶悪事件に関わる者ばかりです」
那智が小さく微笑むと、樫本はコーヒーカップを手にしたまま、急に表情を曇らせた。
「……樫本さん? どうかされましたか?」
「……い、いや。すみません。つい、思い出してしまいまして……」
「何をでしょうか? もし気に掛かることがおありなら、何でも仰って下さい」
那智が真摯な声で促し、樫本は暫し迷って口を開いた。
「……あの。今、インクルシオ対策官の方々は、先日に許区で起こった殺人事件を捜査されていますよね? 実は、あの事件で殺された女性二人は、『アウロラ』の交流イベントにちょくちょく来てくれていたんです。その二人の笑顔がもう見れないのかと思うと、とても悲しくて……」
午後3時半。
インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の高校生4人は、木賊第一高校から下校した後、黒のジャージに着替えてトレーニング棟に集った。
それまで許区の捜査に出ていた特別対策官の童子将也と合流し、広々とした多目的室で戦闘訓練に汗を流す。
今回の戦闘訓練は、キルリストの個人3位、4位に載る二戸楓との交戦を意識したもので、犯人役の童子は「一切の手加減はせぇへんで」と予め警告した。
「……ふはーっ!! ギブアップっす!! これ以上、動けねぇ……っ!!」
「……戦闘訓練が始まってから、何度死んだか。これが実戦だったらと思うと、背筋がゾッとするな……」
「……これまでの戦闘の経験で、実力はつけてきたつもりだけど……。まだまだだと思い知らされたわ……」
「……キルリストの上位者との交戦はそうそう無いと、心のどこかで思ってしまっているのかもしれない……。まずは、その甘い考えを捨てないと……」
窓の外の空が群青色に染まり始めた頃、模擬の武器を持った塩田渉、鷹村哲、最上七葉、雨瀬眞白が、板張りの床にへたり込んだ。
童子は壁際に置いたビニール袋を拾って、高校生たちの側にやってきた。
「ほら。お前ら。これを飲んで水分補給をしろ。この後は巡回任務があるから、戦闘訓練はここまでやな」
「……わ! スポーツドリンクを買っておいてくれたんスか! 童子さん、あざス〜!」
激しい戦闘訓練であちこちに擦り傷を作った塩田が礼を言い、他の3人が「ありがとうございます」と続いて、童子からペットボトルを受け取る。
童子は体育座りをした雨瀬を見やって言った。
「雨瀬。ほんの少しやけど、以前よりも戦闘中に腰が引けとるな」
「……! そ、そうですか。それは、気付きませんでした」
童子の指摘に、雨瀬はハッと目を見開いて返す。
雨瀬の隣に座る鷹村も、スポーツドリンクを飲む動きを止めた。
人前で怪我をすることを無意識に避けていた雨瀬は、「……こ、今後は気を付けます」と下を向いて言い、童子は「戦闘相手に無闇矢鱈に突っ込むんはあかんけど、慎重になり過ぎるんもあかん。常に状況を見極めて動くことが肝心やで」とアドバイスをした。
ほどなくして、トレーニング棟を後にした「童子班」の5人は、本部のエントランスを潜り、2階のロッカールームに向かった。
「あ! 影下さんだ! お疲れ様です!」
「お〜。みんなぁ。お疲れぇ〜」
通路の途中で高校生たちが声をあげ、前から歩いてきた私服姿の人物──中央班に所属する特別対策官の影下一平が挨拶を返した。
「影下さん。これからアルバイトですか?」
「うん〜。三鷹のお弁当屋さんだよぉ〜。それじゃあ、行ってくるねぇ〜」
童子がすれ違いながら訊き、影下が答える。
高校生たちが「行ってらっしゃーい!」と元気よく言うと、影下はひょいと片手を上げて、通路の向こうに消えていった。
午後8時。東京都三鷹市。
JR三鷹駅の南口から徒歩10分ほどの場所にある弁当店で、店のロゴ入りのエプロンをつけた影下は、『佐藤一平』の偽名で働いていた。
弁当を買いに来る客に気さくに話しかけ、テレビや新聞を賑わす事件の話題をさりげなく出して、反人間組織に関する情報を持っていないかを探る。
サラリーマンの客に生姜焼き弁当を手渡した影下は、出入り口の自動ドアが閉まるのを待って、後方にある厨房に振り返った。
「ねぇ、平田君〜。今日は冷えるから、お弁当と一緒に豚汁がよく売れるねぇ」
影下がアルバイト仲間に声をかけると、厨房の奥から「うん。そうだね……」と返事がする。
影下は目の下に浮かぶ隈を指先で掻いて、厨房を覗いた。
「平田君さぁ。さっきから、全然元気がないじゃん。どうしたのぉ?」
影下に『平田君』と呼ばれたアルバイト仲間は、グラウカの19歳の男性で、普段はノリのいい明るい性格をしている。
平田はステンレス製の容器に大根の桜漬けを補充して、小さな声で言った。
「……実はさ。ちょっと前に知り合って、仲良くなった女の子がいるんだけど、今日はメッセージアプリの返信がないんだ。可愛い子だから、他の男に取られちゃったのかも……」
「それは、心穏やかじゃないねぇ。ちなみに、どこで知り合った人なの?」
しょんぼりとした様子の平田に、影下はより詳しい情報を訊く。
「……『アウロラ』っていう、NPO法人のイベントだよ。人間とグラウカの交流イベントを色々とやっていて、そこに参加すれば彼女ができるかなと思って……」
「そうかぁ。きっと相手にも事情があると思うけど、早く返信が来るといいねぇ」
影下が慰め、平田が「うん……」とうなずくと、軽快な電子音と共に自動ドアが開いた。
二人は雑談を止め、「いらっしゃいませー!」と声を揃えて仕事に戻った。
──翌日。
三鷹市内の人通りの少ないガード下で、人間の女性の遺体が見つかった。
遺体の側の壁には、血文字で『カエデ』と書かれていた。
影下は情報収集も兼ねて弁当店に出勤したが、同じシフトに入っていた平田は欠勤となっており、「事件のニュースを見たショックで寝込んだ」と店長から聞かされた。




