07・満足と煽り
大阪府大阪市白群区。
1月2日のまもなく午後10時半になろうとする時刻、インクルシオ大阪支部の正門前に一台のタクシーが停車した。
自動ドアが開いた瞬間、私服姿の高校生4人──インクルシオ東京本部の南班に所属する新人対策官の雨瀬眞白、鷹村哲、塩田渉、最上七葉が中から飛び出す。
4人は全速力で走って建物の裏手に回り、守衛室の警備員に対策官証を提示して、バタバタと内部に入った。
エレベーターに乗って5階に到着すると、警備員から内線で連絡を受けた大阪支部の支部長の小鳥大徳が、「お前たち!! 無事やったんか!!」と支部長室のドアを開いて大声をあげた。
小鳥はすぐに関係者たちに一報を入れ、3階のオフィスに居た「串かつ班」に所属する増元完司、同班の鈴守小夏が「お前らぁ!!」「みんな!!」と叫んで支部長室に駆け込み、2階の会議室で追跡班と最終的な打ち合わせをしていた、東京本部の南班に所属する特別対策官の童子将也が、大きく息を上げて開け放したドアに現れた。
「……ど、童子さん!!!!」
「……お前ら……! よく、無事で……!」
執務机の前のソファセットに座った高校生たちが振り向き、二頭の虎の刺繍が入ったスカジャンを着た童子が、肩で息をしながら安堵の声を漏らす。
「せ、せやけど、これは一体どういうことや!? もしかして、自分ら、自力で『マルム』の拠点から脱出してきたんか!?」
焦茶色のライダーズジャケットを羽織った増元が、顔に擦り傷や青あざを作り、衣服を埃で汚した高校生たちに訊ねた。
反人間組織『マルム』に拉致され、拠点の一室に監禁されていた高校生4人は、揃って怪訝な顔を浮かべる。
「……いいえ。俺らは、急に“ミナミ”に連れて行かれて、戎橋の上で解放されました。スマホは『マルム』に没収されていましたが、幸い財布はあったので、タクシーに飛び乗ってここまで来ました」
鷹村が顔を上げて答え、鈴守が首を捻った。
「え? 解放って、まだ指定時刻の11時にはなってへんで? 将也さんもここにおるし」
「いや。正直、俺らも頭がこんがらがってるよ。だって、“クリコ”の看板が見える場所で解放された時は、てっきり童子さんとの交換が成立したと思い込んでたから……」
「ええ。そうなのよ。タクシーの車内で時計を見たら、10時過ぎだったから、おかしいとは思ったんだけど……」
「僕らが知らないところで、予定が早まるような何かがあったのかと……」
塩田、最上、雨瀬がそれぞれ戸惑ったように言う。
高校生たちの様子を側で見ていた童子が、ふと目を見開いた。
「……進之介さんは、どこにおるんですか? 暫く、姿を見ていませんが」
童子が発した鋭い声に、増元が「ん? そう言えば、今もここに来てへんな」とドアの方を見やる。
その時、執務机の上の電話が鳴り、小鳥が受話器を持ち上げた。
「小鳥や。……何で、ここの直通の電話番号がわかった?」
小鳥が俄に表情を険しくし、人差し指でスピーカーのボタンを押す。
電話をかけてきた相手──『マルム』のNo.2であり、“関西最凶”の異名を持つ世良傑が、くつくつと愉快そうに笑った。
『ああ。それはな、お前の部下の疋田進之介に訊いたからや。それより、約束通り、新人対策官4人は返したで。当初の予定とは違うが、俺としては、疋田が童子の身代わりなると申し出てきて大満足や。これで、思う存分、奴を嬲り殺せる』
「──!!!!!」
世良の言葉に、その場の全員が驚愕する。
『……ほな、疋田の死体の発見を楽しみにしとけや』
世良はそう告げて通話を切り、固く凍りつくような残酷な静寂だけが、夜の支部長室に残った。
午後11時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の7階にある執務室で、本部長の那智明は、執務机の上に力なくスマホを置いた。
「……まさか、こんなことになるとは。「童子班」の新人4人が無事に解放されたのはよかったが、交換で『マルム』に行くはずだった童子の身代わりに、疋田が……」
小鳥からの報告を受けた那智が、端正な顔を歪ませる。
執務机の前に立つ南班チーフの大貫武士が、重苦しい表情で下を向いた。
「……最初、『マルム』が拉致した新人4人との交換に童子を指名したと聞いた時、俺は本部長としての決断を下すことを躊躇した。……だが、それは、新人4人と童子の“価値”を天秤にかけたからじゃない。どちらも、誰一人として、失いたくなかったからだ。おそらく、疋田は自分が犠牲になることで、インクルシオ側のダメージを小さくしようと考えたんだろう。……何を馬鹿なことを。どんな状況であっても、疋田の命が失われていいはずがないのに……!」
那智は掠れた声を絞り出し、執務机を拳で叩いた。
大貫は深い絶望に抗うように、キッと視線を上げて口を開いた。
「……那智本部長。小鳥支部長の話によると、疋田はまだ『マルム』に拘束されている状態のようです。世良は疋田を嬲り殺すと言ったそうですが、その前に、童子や、うちの新人4人や、大阪支部の仲間たちが、必ず『マルム』の拠点を突き止めて阻止します。そう信じて、我々は吉報を待ちましょう……!」
目を真っ赤にし、唇を震わせて、大貫が言う。
那智は大貫を見返し、「ああ……! そうだな……!」と、自身を奮い立たせるようにしっかりとうなずいた。
同刻。大阪府大阪市み空区。
蝶標本販売会社『パピリオM.A』が事務所を構える雑居ビルの3階で、大阪支部の「串かつ班」に所属する特別対策官の疋田進之介は、口腔内に溜まった血を吐き出した。
「……なんやねん。さっきから、居酒屋で飲み残したビールみたいに生ぬるいやり方やな。グラウカの超パワーは、どこに行ったんや?」
窓のない部屋の中央で、胴体と後ろに回した両手を、パイプ椅子にロープで縛り付けられた疋田が煽る。
これまでに数回、疋田の顔面を拳で殴打した『マルム』の世良は、金縁メガネをかけ直して言った。
「アホ。本気を出してすぐに殺してしもたら、勿体ないやろ。お前への積年の恨みを晴らす為には、なるべくじっくりと時間をかけへんとな」
「はは。そんなに、俺が5年前に言うたことが効いたんか。お前は“関西最凶”と恐れられてきた男やったが、あん時の交戦では俺にコテンパンにやられたもんな。自分より強い人間がおると知って、それまで“一般の弱い人間”を殺すことで保っていた、クソみたいなプライドが崩壊したか?」
「……!!!」
疋田が不敵に笑うと同時に、世良が筋肉質な腕を横に薙ぎ払う。
疋田はパイプ椅子ごと床に叩きつけられるように倒れ、切れた側頭部の皮膚から血が流れた。
「……ええから、早よ殺せや」
「……そう急かさんでも、夜が明けるまでには殺したるわ。『マルム』の新リーダーの世良傑が、大阪支部の特別対策官の疋田進之介を、ボロボロのグチャグチャにしてな」
そう言うと、世良はドアを開けて出ていく。
鼻に散ったそばかすを血で染めた疋田は、横転した体勢で一つ息を吐いた。
(……これでええ。将也は、インクルシオにとっても、あの新人4人にとっても、必要な存在や。『マルム』なんかに、殺させるわけにはいかへん)
床の冷たい感触が頬に伝わる。
疋田はがらんとした空間で、ゆっくりと双眸を閉じた。




