03・真実
東京都聴区。
反人間組織『コルニクス』の拠点である古い製粉工場で、リーダーの烏野瑛士は淡いグレーの髪色をした少女の右手を持ち上げた。
時刻は午前0時を少し回ったところだった。
(あの子は、哲が見せた写真の……! インクルシオが捜している少女だ!)
製粉工場の事務棟の事務室には10人ほどの構成員がおり、その中の一人である吉窪由人は、ノースリーブのワンピースを着た少女──阿諏訪灰根を凝視した。
烏野はスーツの内ポケットから小型ナイフを取り出し、その切っ先を灰根の手のひらに押し付ける。
灰根は手のひらの上で鈍く光る刃物を、遠い眼差しでじっと見つめた。
「何も言わないな。怖がりも抵抗もしない」
「そうなんですよ。烏野さん。こいつ、なんか無口というか、ずっとこんな感じで……」
灰根を連れてきたスキンヘッドの構成員が頭を掻いて言う。
烏野は「そうか」と一言返すと、ナイフの刃を真横に滑らせた。
小さな手のひらの皮膚が切れ、少し遅れて血が滲む。
これは、『コルニクス』が人身売買の目的で誘拐してきた“商品”を、人間かグラウカか判別する作業である。
全てのグラウカには厚生省から『グラウカ登録証』が発行されるが、幼い児童の場合は親が管理している等の理由で、登録証を携帯していないことがある。
そこで、『コルニクス』では、新しい“商品”を調達する毎にこのような確認作業を行なっていた。
「あ。なんだ。この子、グラウカじゃん」
灰根の手のひらから白い蒸気が上がり、烏野の“右腕”である糸賀塁が口をへの字に曲げた。
『コルニクス』は“商品”がグラウカだと判明した場合、即座に“廃棄処分”をする。
廃棄処分とは、口封じの為の殺害であった。
「まぁ、人間の子供みたくド変態のジジイに売られるよりは、今殺された方がマシだからな」
そう言うと、糸賀はジーンズの尻ポケットから折り畳みナイフを取り出した。
パチンと軽い音を立ててナイフの刃が飛び出る。
(あ、あの子が、殺される……!)
灰根と糸賀に注目する構成員たちの後方で、吉窪が握った拳に力を入れた。
小学校時代の旧友が探している少女の危機に、吉窪の頰に汗が流れ落ちる。
糸賀は灰根の髪を掴んで上向かせ、手にしたナイフを眉間にあてた。
──その時。
濃紺のスーツを着た烏野が「待て」と制止した。
「……その子は殺さなくていい。他の“商品”と共に、“出荷待ち”の倉庫に入れろ」
「ん? どういうことだ? 烏野さん」
いつもとは違う指示に、短髪を燻んだ赤色に染めた糸賀が振り返る。
烏野は切れ長の目を向けて言った。
「最近、一部の顧客から、人間ではなくグラウカを買いたいという要望が出てきている」
「グラウカを? そりゃまたどうして?」
「人間と比べて、グラウカは“保つ”からだ」
「あぁー……。なるほどー……」
「グラウカは、そういった顧客に高く売れる。今まではうちの“商品”は人間だけだったが、今後はグラウカも取り扱う。……由人。この子を倉庫に連れて行け」
「……はっ、はい!」
烏野に指名され、吉窪はビクリと肩を震わせて返事をする。
吉窪は他の構成員の間を縫って前に出ると、裸足で佇む灰根の手を掴んだ。
何の反応も示さない少女の瞳は変わらず凪いでいる。
だが、その小さな手は、汗で湿った吉窪の手をそっと握り返した。
午後9時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の隣に建つインクルシオ寮の食堂で、南班に所属する「童子班」の面々は遅い夕食をとっていた。
食堂で一緒になった北班に所属する特別対策官の時任直輝と、同じく北班の市来匡も同じテーブルについている。
「……これだけ捜しても見つからないってことは、かなりマズいな」
背中と腰に4本のブレードを装備した時任が、親子丼をかき込んで低く言う。
時任のトレーには、親子丼、海鮮焼きそば、ジャンバラヤが乗っていた。
「マズいって、『コルニクス』ですか?」
黒のツナギ服を着た鷹村哲が訊き、下校後からこの時間まで灰根の捜索に出ていた高校生たちが顔を上げた。
「そうだ。阿諏訪灰根は、『コルニクス』に連れ去られたかもしれない」
「……嫌なことだけど、想定はしておかないとね」
時任が答え、市来が麻婆豆腐をレンゲで掬って言う。
最上七葉と雨瀬眞白が重々しい表情を浮かべ、塩田渉がカツカレーを食べていたスプーンを皿の横に置いた。
塩田は隣に座る特別対策官の童子将也に顔を向ける。
「童子さん。ゆうべ『コルニクス』について勉強したんで、おさらいしていいですか?」
童子は鶏肉の竜田揚げを食べていた箸を止め、「ええで」とうなずいた。
塩田はカツカレーの皿に目を落とす。
「……ええと。『コルニクス』のリーダーは烏野瑛士。32歳。黒髪で、カチッとしたスーツを着ていることが多い。組織のNo.2は、烏野の“右腕”の糸賀塁。23歳。糸賀はこれまでにインクルシオ対策官8人と交戦し、全員を殺害。『コルニクス』の構成員は30人ほどで、拠点は不明」
そこまで言うと、塩田は手元のウーロン茶を一口飲んだ。
テーブルにコップを置き、「それで」と言葉を続ける。
「……『コルニクス』が狙うのは主に児童で、“外回り”と呼ばれる構成員が誘拐を実行。誘拐された児童は、闇市場で人身売買にかけられる。顧客との取り引きが成立すれば児童は売られる。今までに、誘拐された児童が『コルニクス』および顧客の元から逃亡できた例は……無し」
塩田は最後の語尾を小さくして、うつむいた。
その場の全員が表情を硬くして黙る。
童子は、「そうやな。それで合うとるで」と静かな声で言った。
時任が視線を上げて口を開く。
「もし、阿諏訪灰根が『コルニクス』に誘拐されているとしたら、時間の猶予は顧客との取り引きが成立するまでだ。『コルニクス』に拘束されているうちは生かされるだろうが、顧客の手に渡った後は命の保証はない。つまり、俺たちには殆ど時間がない」
最上が「……厳しいわね……」と眉根を寄せて呟く。
雨瀬が癖のついた白髪を揺らして、「あの」と声を出した。
「僕らの任務は夜9時までですが、できれば、この後も灰根さんの捜索に参加させて欲しいです」
「俺もそうしたいです。……童子さん、ダメですか?」
雨瀬の意見に、鷹村がすかさず同意する。
高校生の新人対策官たちはインクルシオの内部規定により、摘発・突入などの特別な場合を除き、任務時間は午後9時までとなっていた。
塩田と最上も、窺うように童子を見る。
童子は黙ったまま、黒のツナギ服の尻ポケットからスマホを取り出した。
スマホの画面をタップして耳にあて、高校生たちを見やって言う。
「大貫チーフに許可を取る。メシを食うたら、すぐに出るで」
同刻。
インクルシオ東京本部の2階の小会議室で、各班のチーフたちは情報を持ち寄っていた。
室内のホワイトボードには、東京23区の地図が貼られている。
スマホの通話を切った南班チーフの大貫武士が、席に戻った。
インクルシオのジャンパーを着た北班チーフの芥澤丈一が、大貫に声をかける。
「電話は童子か? なんだって?」
「うちの高校生4人の、任務時間延長の要請だ」
「あー。そういう話か」
「確かに、今は一人でも多くの人員が必要だな。俺も、藤丸と湯本に連絡しよう」
大貫の話を聞いた東班チーフの望月剛志が、長机に置いたスマホを手に取る。
中央班チーフの津之江学がしんみりとした口調で言った。
「……対策官たちは、阿諏訪総長の『娘』が行方不明だということで、懸命に捜索していますね」
「ハッ。『娘』じゃあねぇのにな」
津之江の言葉に、芥澤が毒づくように笑う。
スマホを持った望月が浅く息をついた。
「仕方ないよ。対策官たちには、そうとしか言えない」
そう言って、望月は小会議室の壁に掛かった時計を見上げた。
「しかし、警察が大規模な捜索網を敷いているのにまだ見つからないか。考えたくはないが、『コルニクス』に攫われた可能性が高くなってきたな」
西班チーフの路木怜司が、指に挟んだボールペンをくるりと回した。
「もし、『コルニクス』に阿諏訪灰根を売られたら、国家機密の消失ですね」
路木の一言に、チーフたちは険しい表情を浮かべる。
芥澤が頭をがりがりと掻いて、呻るように言った。
「人身売買のクソ組織が馬鹿なことをする前に、何としても見つけ出すぞ。──グラウカの“特異体”を」
同刻。
インクルシオ総長の阿諏訪征一郎は、月白区にある邸宅の書斎にいた。
マホガニーデスクの抽斗を開けて、一枚の写真を取り出す。
50年以上前に撮られた古い写真は、笑顔で寄り添う双子の男女が写っていた。
阿諏訪は、色褪せた写真の中にいるグレーの髪色の少女を見つめる。
「……姉さん……」
深く皺を刻んだ口元から漏れた一言は、夜の静寂に消えていった。