02・顔
午後6時。東京都月白区。
反人間組織『イマゴ』による殺人事件が起こった翌日、インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、東京本部の3階にある対策官用のオフィスでデスクに向かっていた。
無心にノートパソコンを叩き、溜まった電子書類の提出を終えた塩田渉が、大きく伸びをしかけて動きを止める。
「……あ! 影下さん! お帰りなさい! お疲れ様です!」
「お〜。みんなぁ。お疲れぇ〜」
塩田が顔を向けたオフィスの入り口には、中央班に所属する特別対策官の影下一平が立っており、他の4人が「影下さん。お疲れ様です」と挨拶をした。
シルバーのウインドブレーカーに緩めのジーンズを履いた影下は、肩にデイパックを担ぎ、やや猫背の姿勢で「童子班」の面々の側に歩み寄る。
黒のツナギ服を纏った特別対策官の童子将也が、椅子を回して訊ねた。
「今日はバイトやったんですか? 確か、町田市の……」
「いやぁ。町田のバイトはもう辞めていて、今は三鷹のお弁当屋さんで働いてるんだぁ。まだ入ったばかりだから仕事を覚えなきゃだけど、今日は身が入らなくてぇ。店長には悪いけど、早退してきちゃったぁ」
影下は手近な椅子を引き寄せ、腰を下ろして答える。
童子が「菫区の事件が原因ですか」と言うと、影下は「うん。やっぱり、『イマゴ』だからねぇ。どうにも、捜査の進み具合が気になってねぇ」と目の下の隈を人差し指で掻いた。
鷹村哲がデスクに置いた緑茶のペットボトルに手を伸ばして言う。
「それ、わかります。俺らも昨日、たまたまですが、今回の事件の被害者4人が寄ったっていうゲームセンターの別店舗に行ってたんで、余計に気になるというか、妙に落ち着かない気分で……」
鷹村の言葉に、雨瀬眞白と最上七葉がうなずき、塩田が下唇を突き出してぼやいた。
「だけどさー。この事件は西班の管轄だしなー。どれだけ気になっても、俺らは西班の捜査報告書が上がるのを、大人しく待つしかないよなー」
その時、オフィスのクリーム色のドアが開き、西班に所属する特別対策官の真伏隼人が姿を現した。
「!」
「童子班」の高校生たちは反射的に背筋を伸ばし、童子が「真伏さん。菫区の捜査、お疲れ様です」とパーテーション越しに声をかける。
真伏は特に返事をすることなく、まっすぐに自分のデスクに向かった。
「あぁ〜。真伏さん〜。『イマゴ』の事件の捜査は、どんな感じですかぁ? 何か有用な情報や手がかりは、ありましたかぁ?」
影下が椅子から立ち上がって訊き、真伏は顔を顰めて立ち止まった。
「……フン。捜査を始めて一日、二日で目覚ましい成果を得られれば、苦労はしない。他班の捜査状況を詮索する暇があったら、自分たちの班の任務をしっかりとこなせ」
真伏の不機嫌な声の返答に、影下は「はいぃ〜。すみません〜。でも、何かあったら教えて下さいよぉ〜」と食い下がる。
真伏は鼻息を吐いて歩き出し、「童子班」の5人は黙ってその背中を見送った。
午後9時。東京都木賊区。
繁華街の路地裏にひっそりと佇むグラウカ限定入店の『BARロサエ』は、スチール製のドアに「OPEN」のプレートを下げていた。
2階の瀟洒なビップルームで、店のオネエのママであるリリーが、トマトと生ハムのブルスケッタとローストナッツの皿をテーブルに乗せる。
部屋に置かれた革張りのソファセットには、反人間組織『イマゴ』のリーダーである穂刈潤と、右腕の乾エイジが座っており、それぞれ酒を傾けていた。
「はい。おつまみ。もっと重たいものがよければ、パスタでも作るから言ってね」
「ありがとう。実は、もう一人ここに呼んでいるんだ。もうすぐ着くはず……」
黒髪の緩やかなウェーブヘアに丸メガネをかけた穂刈が腕時計を見やると、ビップルームのドアがノックされ、赤色のダウンコートを着た青年が入室した。
「ああ。丁度、来たね。リリー。紹介するよ。『ミラクルム』の樺沢さんに代わって新しく『イマゴ』の幹部に就いた、玉井礼央君だ」
「初めまして。玉井です。よろしくお願いします」
穂刈が笑顔で紹介した青年──リリーこと玉井理比人の実弟である玉井礼央が、被っていたフードを外して一礼をする。
リリーは礼央が小学校6年生で家出をして以来、約10年ぶりとなる再会に内心で激しく動揺したが、ブラウスの胸元に忍ばせたロケットペンダントを握り、「……あ、あら。随分と可愛い子ね。こちらこそよろしくね」と声を絞り出した。
礼央はにこりと微笑んで、ソファの空いている場所に腰掛ける。
そのどこか気弱さを感じさせる容貌や、左目の下の泣きぼくろに変わりはなく、リリーは「ほ、本当に可愛いわね」と言って、礼央の顔をまじまじと見つめた。
しかし、礼央はリリーの整形した顔に気付かず、ただ照れ臭そうに笑う。
短髪を燻んだシルバーブルーに染め、裾の長い上着を羽織った乾が、ウィスキーのロックグラスを持ち上げて言った。
「さぁ。今夜は玉井君の幹部就任祝いだ。それと、幹部としての初仕事もな」
「そうだね。昨日の菫区の殺人事件は、玉井君がやってくれたんだよね。部下に付けた5人の構成員と共に、いい働きをしてくれたよ」
カクテルグラスを手にした穂刈が褒め、ビールグラスを持った礼央が「ありがとうございます」と嬉しそうに返す。
礼央はグラスを高く掲げると、濁りのない瞳で宣言した。
「穂刈リーダー。乾さん。リリーさん。僕はこれから、『イマゴ』の幹部として恥ずかしくないよう、今まで以上に多くの人間を殺していきます。グラウカが絶対的な支配種となる“あるべき世界”を実現すべく頑張りますので、どうぞ期待していて下さい」
礼央の言葉を受け、穂刈が「乾杯!」と明るく音頭をとる。
リリーは芋焼酎の入った自分のコップを上げ、軽快な音を鳴らしたが、真っ赤なマニキュアが輝く指先は細かく震えていた。
二日後。東京都月白区。
午後10時を少し回った時刻、私服姿の「童子班」の高校生4人は、インクルシオ寮の1階の休憩スペースで寛いでいた。
童子は午後9時の任務終了後、「少し外を走ってくるわ」と個人トレーニングに出掛ける旨を告げ、「いってらっしゃい」と素直に声を揃えた高校生たちに、「……帰りにコンビニで肉まんを買うてくるから、後でみんなで食おか」と付け加えて出ていった。
ソファに腰掛けた高校生たちは、タブレットPCを操作して日報を書く。
風呂上がりで髪が湿った塩田が、「よし。“その他欄”に、いいポエムが書けたぞ」と満足げに独りごちて、タブレットPCを脇に置いた。
「……なぁ。菫区の『イマゴ』の事件さ。俺らにも何か出来ることはないかな?」
塩田は他の3人を見やって言い、鷹村が下を向いたまま「うーん」と呻る。
「仮にあったとしても、真伏さんが嫌がるだろうな。西班の管轄だからって」
「そうね。以前、童子さんが西班の突入チームに入るのを、頑なに拒否したものね……」
鷹村が指摘し、最上が浅くため息を吐いた。
塩田が「そうだよなぁ。真伏さんて、すげー気難しいからなぁ」とソファの上で胡座をかくと、雨瀬がタブレットPCから視線を上げて言った。
「……だけど、『イマゴ』はインクルシオのキルリストの最上位組織だ。もし必要であるなら、管轄の垣根を越えて捜査するべきだと思う」
「まぁ、その通りだな。とりあえず、事件現場周辺の聞き込み捜査の応援とか、俺らにも出来そうなことを考えるか」
鷹村がそう言うと、ソファに座る3人がこくりとうなずく。
すると、休憩スペースにいる一人の対策官が唐突に立ち上がった。
「……また、菫区で殺人事件だ! 10代の男女2人の遺体と、『イマゴ』の血文字が、雑居ビルの裏手で発見されたぞ!」
「──!!!」
西班に所属する対策官がスマホに届いた緊急メールを見て叫び、その場にいる各班の対策官たちが目を見開く。
グレーのスウェットの上下を着た西班の対策官は「クソっ! 急いで現場に向かわなければ……!」と休憩スペースから飛び出し、煌々とした明かりが照らす室内には、しんとした不穏な静寂が残された。




