01・離島と出張捜査
午前1時。
ぼんやりとした月明かりが照らす崖下に、規則的なリズムの波が打ち寄せる。
夜半の穏やかな潮騒を背中で聞きながら、吊り目の男は言った。
「す、すまねぇ! つい、出来心で……! ブツは返すから、許してくれ!」
吊り目の男はぶるぶると震え、手に持ったデイパックを前方に放り投げる。
男の前には二人の人物が立っており、そのうちの一人の男が、膝を折ってデイパックの中身を調べた。
「……ああ。こんなに。これは、出来心っていう量じゃないだろう」
「ギャ、ギャンブルで作った借金があって……! ま、魔が差したんだ……!」
地面に屈み込んだ男は、デイパックの中にぎゅうぎゅうに詰められたビニール袋の一つを摘み上げ、呆れたようにため息を吐く。
吊り目の男は身振り手振りで釈明をしたが、もう一人の人物が双眸を歪めて遮った。
「そんな下らない理由は、こっちの知ったことじゃない。せっかく、俺らグラウカとあんたら人間が手を組んでいるってのに、こんな裏切り行為は許されねぇ。他の奴らへの示しの為にも、然るべき制裁が必要だ」
「ど、どんな償いでもする! た、頼むから、命だけは……っ!」
大柄な体躯の男が放った言葉に、吊り目の男が顔を青ざめて懇願する。
デイパックの口を閉じた男が、潮の香りの漂う大地に立ち、にこりと微笑んで告げた。
「……残念だね。その“命”でしか、償えないよ」
12月初旬。東京都月白区。
『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、外気が冷え込んだこの日の任務終了後、それぞれ入浴等を済ませ、インクルシオ寮の2階にある『211号室』に集っていた。
一週間ほど前、“暴殺”集団『ケレブルム』の壊滅に貢献した高校生たちは、非番の前日にあたる土曜日の朝、塩田渉からある遊びの提案を聞き、「それをやって何になるんだ」と文句を言いつつも乗った。
塩田が提案した遊びは“寝落ちガマン大会”で、土曜日の夜から日曜日の朝にかけて、最後まで起きていた者が勝ちというシンプルなものであった。
高校生4人の指導担当である特別対策官の童子将也も、「ええで。やるわ」とこれを了承し、自身の部屋を大会の開催場所として提供した。
かくしてラフな部屋着に身を包んだ「童子班」の面々は、エアコンと加湿器が効いた暖かな部屋で、木製のテーブルを囲んで座っている。
土曜日の午後11時にスタートした“寝落ちガマン大会”は、着々と時間が過ぎ去り、すでに日付の変わった日曜日の午前3時半になっていた。
「で、体育館に行ったら、B組のナベちゃんがこっちに来てですね。あ、ナベちゃんは、さっき話したコンちゃんの小学校時代からの親友です」
「うん」
「そんで、授業開始までにまだ時間があったんで、ナベちゃんに逆エビ固めをかけたんですよ。そしたら、ジャージのケツんところが思い切り破けちゃって。俺の」
「うん」
塩田の話に根気よく相槌を打っていた童子が、頬杖をついた姿勢をゆっくりと崩し、そのままテーブルに顔を突っ伏す。
やがて小さな寝息が聞こえ、塩田は「……よっしゃ! ついに、童子さんを落としたぞ!」と小声をあげてガッツポーズをした。
「そりゃあ、あんなどうでもいい話を延々と聞かされりゃ、誰だって眠くなるよ。それに、童子さんは任務の後、1時間半くらい個人トレーニングに行ってたしな。身体的な疲れもあったはずだ」
グレーのスウェットを着た鷹村哲が、すっかり寝入った童子を見やって言う。
鷹村は口調ははっきりとしていたが、その瞼は今にも閉じそうになっており、塩田はすかさずに厚手のブランケットを背中に掛けた。
「……そもそも、この遊び、勝っても何の得も……。ううん……」
童子に続いて鷹村があえなく陥落し、塩田はテーブルの向かいに目をやる。
ベビーピンクのニットカーディガンを羽織った最上七葉が、“カエルムちゃん”のイラストが入ったマグカップを両手で持ち、襲いくる睡魔と戦いながら言った。
「……さっき、眠気覚ましにとココアを飲んだけど……。かえって胃が満たされて、ますます眠くなったわ……。まさか、自分で自分の首を絞めるなんて……」
最上はマグカップを胸元に抱えて、かくんと頭を前に傾ける。
塩田が「最上ちゃんは、自滅したな」とニヤリとほくそ笑み、隣に座る雨瀬眞白に顔を向けた。
「雨瀬ぇ。いよいよ、残りは俺らだけだな。“寝落ちガマン大会”の優勝の椅子を賭けて、一騎討ちといこうぜぇ」
「うん。じゃあ、塩田君。これを一緒に観よう」
そう言って、雨瀬は手にしたタブレットPCを差し出す。
その画面上では、インターネットサイトの動画が再生されており、野外での焚き火の映像がクローズアップで映っていた。
ゆったりと静かに揺らぐ炎に、塩田は10秒と保たずにいびきをかき始める。
雨瀬は巧妙な作戦で勝者となったが、テーブルの周りで安らかな寝息を立てる4人を見回して、「こ、これ、どうしたらいいんだ……」と戸惑った。
結局、「布団も掛けずに寝て、風邪を引いたら大変だ」と思い、雨瀬は慌てて全員を揺り起こした。
そして、初の開催となった“寝落ちガマン大会”は、「意外と面白かった」と「童子班」の面々からの好評を得て終了した。
翌日。午後1時。
インクルシオ東京本部の1階のエレベーターホールで、南班チーフの大貫武士と、北班チーフの芥澤丈一は、エントランスに向けた足を止めた。
「よぉ。お疲れさん。これから昼メシを食いに行くんだが、まだなら一緒にどうだ? つっても、いつもの立ち食いソバだけどな」
「ああ。お前たちも、お疲れ様。俺はこれを買ったから、執務室で食べるよ」
インクルシオの黒のジャンパーを着た芥澤が声をかけ、通路の奥から歩いてきた本部長の那智明が手にした紙袋を持ち上げる。
紙袋には『カフェスペース・憩』のロゴマークが印刷されており、中にはクラブハウスサンドとホットコーヒーが入っていた。
「そうか。そういや、例の離島の件はどうなった? 何か進展はあったか?」
芥澤はスラックスのポケットに手を入れ、ふと思い出して訊ねる。
那智は苦い表情を浮かべて、潜めた声で答えた。
「いや。今朝、広島支部からの報告書が上がったが、めぼしい収穫は何もないな」
大貫が「そうですか……」と眉尻を下げ、那智は浅くため息を吐く。
──10日ほど前、愛媛県宇和島市の離島の一つである戸島に、人間の遺体が流れ着いた。
遺体は頭部をアルミ缶のように潰されており、その状態からグラウカによる犯行とみられたが、四国にはインクルシオの拠点の設置がなく、急遽一番近くの拠点であるインクルシオ広島支部が対策官を派遣した。
しかし、広島支部の対策官たちは、戸島を始めその周辺の離島や宇和島市内の捜査を広く行ったが、犯人特定の手がかりを掴むには至らなかった。
「戸島って言やぁ、一昨年にも人間の遺体が流れ着いてんだよな。そん時は、別の離島に『ミレ・ベルム』のリーダーが渡ったっていう目撃情報があった」
「……“鳥の子島”か」
芥澤の言葉に、大貫が反応し、那智が「そうだ」とうなずいた。
「……前回も今回も、鳥の子島は特に力を入れて捜査したが、何も出てこなかった。『ミレ・ベルム』がこの二件の殺しに絡んでいる可能性があるのなら、もっと捜査を続けたいのは山々だが……。いかんせん、広島支部は距離の負担が大きいからな」
そう言うと、那智は再度ため息を吐く。
芥澤が口にした『ミレ・ベルム』は、西日本を中心に多くの殺人事件を起こしてきた反人間組織で、リーダーの戦場勝二の名前と容貌以外は、拠点や構成員の詳しい数は不明となっていた。
「……おっと。長く立ち話をしてしまったな。それじゃ、上に戻るよ」
那智は気を取り直して言い、エレベーターに体を向ける。
大貫は短く逡巡した後、顔を上げて那智を呼び止めた。
「那智本部長。鳥の子島は、より綿密な捜査が必要だと思います。5日間程度でよければ、うちの班から対策官を派遣できます。……「童子班」の5人を、出張捜査に行かせましょう」




