03・気まずい二人
午後1時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の7階の執務室で、濃紺のスーツを着た本部長の那智明は、執務机の前のソファセットに腰掛けた。
那智の向かいには、インクルシオ名古屋支部に所属する特別対策官の速水至恩と、同じく名古屋支部の綱倉佑士が並んで座っている。
速水はライトブラウンのレザージャケットに細身のコットンパンツ、綱倉はモスグリーンのブルゾンにジーンズを履いた私服姿であった。
那智は来客用のカップに淹れたホットコーヒーを、二人に差し出して言った。
「そうか。二人共、休暇でこっちに遊びに来たのか」
「ええ。先月に行われた強化合宿の指導係とサポート役を務めたということで、特別休暇を4日間いただきまして。ゆっくりと東京旅行でもしようかと」
綱倉が笑みを浮かべて返し、「いただきます」とカップに手を伸ばす。
那智は自分のカップを持ち上げ、湯気の立つコーヒーを一口飲んだ。
「栃木での強化合宿は、ご苦労だったな。期間中に反人間組織『デウス』の拠点を見つけ、少人数で踏み込んだと聞いた時は驚いたが、無事に壊滅することができてよかった」
「まぁ、あの程度の奴ら、俺の敵じゃないですから」
速水がコーヒーを啜って言い、綱倉が「こ、こら。至恩」と嗜める。
綱倉はすました顔の速水をひと睨みした後、頭を掻いて言った。
「……あの時は、予想外に相手の人数が多くて苦戦しました。しかし、偶然に栃木に来ていた童子特別対策官が現場に駆け付けてくれて……。それまでの戦況が一変して、本当に助かりました」
「ああ。童子は、指導担当につく高校生4人の陣中見舞いに行ったらしいな。ところが、4人が宿泊先の旅館に不在で、急遽スマホのGPSを追ったとか。いくら速水がいたとは言え、やはり数の差は大きい。童子の加勢は、幸いだったな」
綱倉の言葉に、那智が微笑んで返す。
『デウス』壊滅後の速水と童子の一悶着は知られていないようで、綱倉は「ええ」と相槌を打ちつつ、内心でほっと息を吐いた。
那智は手にしたコーヒーカップをソーサーに戻し、優しい眼差しで言った。
「何にしろ、休暇で心身共にリフレッシュすることは大事だ。今日から4日間、普段の任務のことは忘れて、東京で心ゆくまで羽を伸ばしてくれ」
速水と綱倉もカップを置き、「はい。ありがとうございます」と揃って礼を言うと、ソファから立ち上がって執務室を辞した。
「……ゲッ」
エレベーターの扉が1階で開くと同時に、速水は低い声を漏らした。
綱倉が視線を上げると、広いエントランスの一角に見知った人物たち──インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の5人が立っていた。
「……あれ!? 綱倉さんと、速水特別対策官!?」
黒のツナギ服を着た塩田渉が、二人の姿に気付いて声をあげる。
綱倉は途端に不機嫌になった速水の袖を引っ張って、5人の側に歩み寄った。
「やぁ。4人共、久しぶりだな。童子特別対策官も、お元気そうで何よりです。先だっての強化合宿では、色々とお世話になりました」
「いえ。こちらこそ。……それより、今日はどないしたんですか?」
両腿に2本のサバイバルナイフを装備した特別対策官の童子将也が、ラフな格好の速水と綱倉を見やって訊く。
綱倉が特別休暇で東京旅行に来たことを説明すると、高校生たちは「いいなぁ〜!」と羨ましがった。
「お前たちは今から任務のようだが、もう学校は終わったのか?」
「はい。今日はたまたま4限目までだったんです。だから、いつもより早めに巡回に出ようと……」
綱倉の質問に鷹村哲が答え、雨瀬眞白、最上七葉がうなずく。
しかし、高校生たちは先ほどから仏頂面の速水を見て、すぐに身を縮こめた。
「……あ! そうだ! もし、少し時間をもらえるなら、東京本部の中を案内してくれないか? 俺、実は初めて来たんだ」
「……あ。え、ええ。わかりました。童子さん、いいですか?」
綱倉の突然のリクエストに、高校生4人が反応する。
童子が「ええで」と了承すると、「童子班」の高校生たちと綱倉は、そそくさと連れ立ってその場から去った。
エントランスに残された童子は、ちらりと前方を窺い見る。
速水はその整った顔面を、これ以上はないほどに盛大に歪めていた。
インクルシオ東京本部の1階にある『カフェスペース・憩』は、内部の職員や対策官だけでなく、外部の来客も多く利用するカフェである。
程よく混んだ店内で、童子と速水は窓際のテーブルに向かい合って座っていた。
周囲に漂う和やかな雰囲気とは裏腹に、二人を包む空気はどんよりと重い。
童子はホットコーヒーを一口飲み、静かに切り出した。
「……こないだは、殴ってしもてすまんかった」
「…………」
速水は無言で、アイスのチョコレートドリンクをずずっと啜る。
「あの時……『デウス』の拠点での交戦で、速水君がうちの新人4人を故意に危険にさらしたんは、どないな理由があろうとも許せへん行為やと思てる。せやけど、怒りに任せて思い切り殴ったんは、俺が未熟やった。ほんまにすまんかった」
「…………」
童子の謝罪に、速水はドリンクグラスをテーブルに置き、一つため息を吐いた。
「……あれは、敢えて一発食らったんです。俺は、どんな状況でも童子さんの教え子たちを救い出せる自信がありましたが、特別対策官が取るべき行動としては間違っていた。……それは納得していますから、殴ったことは別にいいですよ。それよりも、俺も童子さんに言いたいことがあります」
そう言って、速水は童子をまっすぐに見据える。
童子は顔を上げて、勝ち気に光る双眸を見返した。
「……殴られる前、童子さんは俺に、『鳴神冬真の後を継ぐ男』と周囲に称賛されて、それで満足してしまったのかと訊きましたよね。そこで止まったら、元インクルシオNo.1の特別対策官を越えることはできないと。……そりゃあ、以前の俺は、鍛錬はサボりがちでしたし、任務よりも遊びを優先したことも多々あります。だけどね、過去に一度だって、“誰かと同じくらいの強さでいい”と思ったことはない。俺はいつだって、元No.1の鳴神さんも、そして現No.1の貴方も、越えるつもりでいますよ」
人々の雑多な話し声が聞こえる店内で、速水が挑むように童子を睨む。
童子はやや表情を和らげて、「……そうか」と一言返した。
「ええ。そうですよ。ま、今は休暇中ですから、しっかりと遊びますけどね。名古屋に戻ったら、また任務と鍛錬に真面目に取り組む日々です。綱倉さんがうるさいんで」
速水は童子から視線を外して軽い口調で言うと、チョコレートドリンクの残りを飲む。
童子はホットコーヒーのカップを持って、ふと言った。
「……そういや、ここ最近、東京では『ケレブルム』と『キルクルス』による殺人事件が立て続けに発生しとる。二人の休暇中に何事もなければええが、くれぐれも気を付けてくれ」
「あー。それ、ニュースで見ましたよ。サディスト揃いの“暴殺”集団と、鳴神さんがいる反人間組織ですよね。『ケレブルム』の方は、東海エリアでも何十件もの殺人事件を起こしています。俺は東京旅行を楽しみたいんで、余計な面倒事には巻き込まれたくありません。だから、そっちで捜査を頑張って、早く連中を捕まえて下さい」
速水の率直な要望に、童子は「わかった」とうなずく。
すると、『カフェスペース・憩』の入り口のドアから、5人の対策官が心配げに顔を覗かせているのが見えた。
「……ほな、そろそろ行くか」
「……そうですね」
童子と速水は、それぞれ椅子を引いて立ち上がる。
同期である二人の特別対策官は、いつの間にか仄かに軽くなった空気と共に、仲間たちの元へと足を進めた。




