08・未来を語る
午後1時半。
反人間組織『ニル』の拠点の中にある饐えた匂いの部屋で、インクルシオ東京本部の南班チーフである大貫武士は、仰向けの状態で床に横たわっていた。
一時間ほど前に、『ニル』のNo.2の辰己顕にナイフで腹部を刺された大貫は、構成員に引き摺られてチーフたちが監禁されている部屋に戻ってきた。
大貫の怪我を見たチーフ4人はすぐさま動き、北班チーフの芥澤丈一と東班チーフの望月剛志が、脱いだワイシャツを歯で切り裂いて即席の包帯を作った。
中央班チーフの津之江学と西班チーフの路木怜司は、全員分のスーツの上着を床に敷き、その上に大貫を運んで寝かせた。
応急処置を施した大貫の額に滲んだ汗を、津之江が懸命にハンカチで拭う。
大貫は熱のこもった息を吐いて、気丈に口を開いた。
「……みんな、ありがとう……。おそらくだが……傷はそこまでは深くないはずだ……。素人判断するなって、芥澤に怒られそうだがな……」
「全くだ。刺された本人だからって、そんなことがわかるかよ。クソみてぇな気休めを言ってねぇで、いいから安静に寝てろ」
ネイビーのTシャツ姿の芥澤が顔を顰めて毒づき、ボーダー柄のTシャツ姿の望月が「とても安静にできる環境じゃないけどな」と小さく笑う。
大貫は電球がぶら下がった天井を見上げて、ぽつりと呟いた。
「……辰己が言っていた『クストス』の噂話は、本当だろうか……?」
「………………」
大貫から辰己が語った“要求の理由”を聞いたチーフ4人が黙り込む。
「『インクルシオ』と『アルカ』は、50年前にグラウカの“特異体”に対して非道な人体実験を行っていました。もしかしたら、そこに『クストス』も噛んでいて、現在でも施設内で何かしらの“秘密の行為”が行われているのかもしれませんね」
路木が無表情で推察し、望月が「いや、まさか……。そんな怖いことを言うなよ」と顔を青ざめた。
「辰己の話は、もちろん『クストス』側は否定するだろう。だが、俺らはただの噂話だと一蹴せずに留意しておくべきだ。……もっとも、“この先”があればだがな」
芥澤が錆びた鉄製のドアを睨み、津之江が強張った顔でうなずく。
「ええ。無田釈放の交渉のリミットは、今日の22時でしたっけ。正直に言うと、こうして実際に大貫チーフが刺されたのを見て、体が震えています。やはり死ぬのは怖い。だけど……」
津之江はハンカチを強く握り締め、まっすぐな眼差しで言った。
「これまでに殉職した対策官たちも、みんな同じ思いだったはずです。己の正義を貫いた結果が“死”であるならば、怖くとも決して後悔はありません」
午後2時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の南班に所属する特別対策官の童子将也は、3階のオフィスを出た通路沿いの休憩スペースで、自動販売機の缶コーヒーを購入した。
壁際に設置された長椅子に腰掛け、昼食代わりのコーヒーを一口飲む。
そのままワークブーツを履いた足元に視線を落とすと、ふと大貫の朗らかな笑顔が脳裏に浮かんだ。
(……8ヶ月前に初めて会うた時も、今と変わらん優しい笑顔やった)
童子は両手でコーヒーのスチール缶を包み、大貫が大阪にやってきた日──今年の3月初旬の出来事を思い出した。
「いやぁ。焼き肉でよかったかな? 俺がガイドブックで探した店より、地元民の童子の方が旨い店を知っているんだろうが、そこは許してくれ」
大阪府大阪市白群区にあるインクルシオ大阪支部に大貫が顔を出したのは、まだ風の冷たい初春だった。
大貫は大阪支部の支部長である小鳥大徳の同席の下、童子に東京本部への異動を打診した。
その理由は、当時訓練生であった“グラウカ”の雨瀬眞白をインクルシオに正式採用するにあたり、一部から上がった強固な反対の声を抑える為であった。
小鳥は大貫の話に理解を示した上で、「とは言え、こっちも将也が完全に抜けるんは厳しい。そこで、こないしたらどうでしょう?」と童子の1年間の期限付きの異動を提案した。
そして、小鳥は「後は将也の気持ち次第や。二人でゆっくり話してこい」と言って、執務室から大貫と童子を送り出した。
大貫が案内した高級焼き肉店の個室で、私服に着替えた童子が返す。
「いえ。俺は量があって安い店しか知らへんので、かえってよかったです」
「ははは。童子は今年で21歳だっけ? 若い者はそれが一番だよな」
大貫は気さくに笑い、ビールの入ったグラスを童子と合わせた。
無煙ロースターの網にトングでタン塩を並べ、穏やかな表情で話す。
「……インクルシオは、ずっと人間だけの組織だった。反人間組織のグラウカと命懸けで戦ってきたんだから、それは当然とも言える。だが、これからは“人間だけの組織”に頑なに拘らず、善良で優秀なグラウカと手を取り合って、より多くの人々と平和を守っていくべきだ。雨瀬眞白の採用は、その第一歩であり、未来への大きな道標となる。無理を言っているのは重々承知の上だが、インクルシオNo.1の特別対策官である童子が雨瀬の側につくなら、反対派は黙る。どうか、協力してくれないか」
そう言うと、大貫は焼き上がったタン塩を童子の皿に置いた。
童子は湯気の立つタン塩に箸をつける前に、あっさりと答えた。
「わかりました。東京に行きます」
「え? ……も、もう少し考えてもいいんだぞ? 小鳥支部長が言った1年間の期限付きであっても、大阪支部をそう簡単には空けられないだろう? それに、東京に来たら雨瀬の指導担当についてもらうことになる。指導担当は捜査や巡回以外にも細かい仕事が多いし、採用予定の新人は雨瀬だけでなく他にも3人いるから、まとめるのが大変だろうし……」
異動の話を持ってきた大貫がしどろもどろに言うと、童子は屈託なく笑った。
「ええんです。もう決めました。俺も大貫チーフと同じく、未来を作っていくことが大事やと思うんで」
童子はタン塩を口に入れ、「旨いです」と更に笑みを深める。
大貫は一拍の間を置いて、「……そ、そうか。ええと、じゃあ、次はカルビを焼こうか。ビールも追加がいるな」と嬉しそうに動き始めた。
(──………………)
童子は手中のコーヒーをじっと見つめ、落としていた視線を上げると、勢いよく長椅子から立ち上がった。
その足は、一直線にエレベーターホールに向かった。
「童子さん! 待って下さい!」
7階でエレベーターを降りて通路を進む童子の背中に、大きな声がかかった。
童子が振り向くと、南班に所属する「童子班」の高校生4人が、非常階段の扉を開けて駆け寄ってくる。
「……お前ら。そんなところから出てきて、どないした?」
やや驚いた表情で訊ねた童子に、鷹村哲が肩で息をついて答えた。
「童子さんがコーヒーを買ってくるって言ってオフィスを出たまま、なかなか戻ってこないから、気になって探したんです。そしたら、エレベーターに乗る姿が見えたんで、到着階を予想して追い掛けてきました」
鷹村の言葉に、童子は思わず目を丸くする。
鷹村の隣に立つ雨瀬が、童子を見上げて言った。
「『ニル』への回答のリミットが迫ったこの状況なら、童子さんはきっと阿諏訪総長や那智本部長の執務室がある7階に向かったと思いました。……何故なら、僕らも同じことを考えていたからです」
「!」
童子がぴくりと反応すると、塩田渉、最上七葉が真剣な顔でうなずいた。
その時、長い通路に複数の足音が響いた。
「……お。やっぱり、お前らも来ていたのか」
「あまり時間がないわ。早速、那智本部長に直談判しましょう」
「とにかくぅ、『クストス』から無田を出すことができればぁ、チーフたちの差し当たっての窮地は免れられるからぁ」
「何よりも困難なのは、『クストス』の益川の説得だ。22時のリミットまでに、何としても無田釈放を承諾させなければ……」
口々にそう言って姿を現したのは、東京本部に在籍する特別対策官4人──北班の時任直輝、東班の芦花詩織、中央班の影下一平、西班の真伏隼人だった。
通路に立った「童子班」の5人が「みなさん……」と顔を向ける。
すると、小さな到着音と共にエレベーターの扉が開き、一人の人物が降りた。
「……あ? お前ら、こんなところで揃って何やってんだ?」
「……そ、曽我部支部長!?」
スラックスのポケットに両手を入れた人物──インクルシオ立川支部の支部長である曽我部保が足を止め、9人の対策官が目を見開く。
曽我部は口端を上げて微笑み、眼前の対策官たちに言った。
「フン。ちょうどいい。お前らは武器を装備して車を用意しろ。俺が、『クストス』から無田大河を釈放する」




