05・突入
午後5時半。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の2階の小会議室に、南班に所属する特別対策官の童子将也が入室した。
コの字型に長机が配置された室内には、すでに「童子班」の新人対策官4人が着席している。
童子はパイプ椅子を引いて座ると、“人喰い”鏑木良悟の突入に関する最新情報を共有した。
「西班が掴んだ鏑木の拠点は、水縹区の商店街にある精肉店や。この店は経営不振で今年の3月末に閉店しとる。店の経営者の所在は不明。現在、西班の7名の突入チームが現場に向かっとる。突入の予定時刻は午後6時や」
黒のツナギ服を着た鷹村哲が手を上げた。
「西班の突入チームは、誰が行ってるんですか?」
鷹村の隣に座る塩田渉がすかさず口を挟む。
「そりゃあ、何と言っても特別対策官の真伏さんだろ。あとは、腕のいい対策官じゃね?」
最上七葉が「そうね」と言い、雨瀬眞白が「うん」とうなずいた。
童子は手元のスマホに目を落として答えた。
「俺のとこに来た情報やと、真伏さんの他に5名の対策官……名前を見ると、西班の精鋭を揃えたな。それと現場オペレーターが1名や」
「……特別対策官と精鋭で突入なら、“人喰い”相手でも大丈夫かな……」
鷹村が顎に手を当てて呟く。
童子はスマホを長机に置いて言った。
「楽観視すんのはあかんけどな。まぁ、それでも、真伏さんがおるなら大丈夫やろ。あの人は強いから」
午後5時55分。東京都水縹区。
“人喰い”鏑木良悟が潜伏する精肉店から100メートルほど離れた雑居ビルの裏手に、インクルシオの黒のジープが停まっていた。
ジープの後方に集まった西班の突入チームに、真伏隼人が指示を出す。
「本部からの情報では、今日、鏑木が精肉店から出た形跡はない。つまり、確実に中にいるということだ。インクルシオの威信にかけて必ず奴を仕留めろ。いいな」
対策官たちは表情を引き締めて、「はい!」と返事をした。
頭上に広がる空に、濃い群青が広がり始める。
真伏はちらりと腕時計を見やった。
「──よし。時間だ。行ってこい」
真伏の合図を機に、5人の対策官はジープの脇を通り抜けて精肉店に向かった。
ジープの荷台でノートパソコンを操作していた女性のオペレーターが振り向く。
「真伏さんは、行かないんですか?」
真伏は短く息を吐いて笑った。
「この程度の相手なら、俺が行くまでもない。あいつらで十分だ」
精肉店に到着した対策官たちは、裏口の窓を開けて中に侵入した。
電気の点いていない薄暗い部屋で、突入チームの一人である大楠雄二が他の4人を手招いた。
「俺らが今いる場所が、精肉の作業場だ。前方に店舗。2階が住居。事前の打ち合わせ通り、タケとイツキが1階。残りは2階に進むぞ」
大楠の言葉に、対策官たちが「了解」と小声で応じる。
作業場にはステンレス製の什器、作業台、スライサー、大型冷蔵庫などが所狭しと置かれており、身動きの取りづらい場所であった。
「……寒いな」
足を進めようとした武井海斗が、ぶるりと身を震わせた。
ワークブーツを履いた足元に異様な寒気を感じる。
「あそこ。冷凍室の扉が開いてるぞ」
作業場の西側にある冷凍室を、河野一樹が指差した。
3畳ほどの広さがある冷凍室は、鉄製の扉が10センチほど開いており、その隙間から白い冷気が漏れていた。
「まるで、ドライアイスだな」
大楠は足音を立てないように冷凍室の扉に近付く。
すると、冷凍室の前に『何か』が見えた。
「──!!!」
大楠は大きく目を見開いた。
そこには、夥しい血に塗れた経営者の男性が倒れていた。
口髭をたくわえた男性は、喉を喰いちぎられて息絶えている。
(……血がまだ流れている! 経営者の男性は殺されたばかりだ!)
大楠はワークブーツを滑らせて、勢いよく振り向いた。
──その時。
作業場と店舗を隔てるコンクリートの壁が、轟音を立てて崩壊した。
壁際にあった大型の什器が倒れ、金物や作業道具が床に散乱する。
「ぐあぁぁっ……!!!」
3人の対策官が什器の下敷きとなり、悲鳴をあげた。
「お前らっ!!!」
暗がりの作業場に大量の埃が立ちのぼる。
そこに、壁に穴を開けた人物が現れた。
上背のある長髪の人物──“人喰い”鏑木良悟は、コンクリートの破片が散らばる床に片膝をつき、什器に足を挟まれた河野の前髪を掴んだ。
「イツキ!!!」
そのまま、大きな口を開け、河野の額に噛み付く。
ゴキゴキゴキと頭蓋の砕ける音が鳴り、河野の全身が激しく痙攣した。
「──“人喰い”ぃぃぃっ!!!!!」
大楠は黒革製の鞘からブレードを引き抜いた。
大楠の右耳に装着した通信機器からオペレーターの応答要請の声が聞こえる。
だが、それに構っている余裕は微塵もなかった。
午後6時半。東京都月白区。
インクルシオ東京本部に凶報が入った。
“人喰い”鏑木良悟の拠点に突入した西班の対策官5名の死亡に、2階の小会議室で結果を待っていた「童子班」の全員が言葉を失った。
「……マジかよ……」
塩田が呆然とした表情で呟く。
「……対策官が5名も犠牲になった上に“人喰い”に逃げられたなんて、信じられない結果だわ」
最上が唇を震わせて言った。
「──………………」
雨瀬と鷹村は、緊急連絡が着信したスマホを無言で見つめている。
童子は黙ったまま腕を組み、机上の一点を睨んで思考を巡らした。
(……鏑木は待ち伏せしとった。奴はわざと防犯カメラに映って、対策官を精肉店に誘い込んだんや。そもそも、あの精肉店は拠点でも何でもない。これまでの鏑木の慎重な行動を考えればわかることやったのに、功を焦って奴の計略に嵌められてしもた。これは、完全にこちら側の落ち度や)
童子の組んだ腕に自然と力が入る。
(……それでも、真伏さんが他の対策官と一緒に突入しとったら、こんな結果にはならんかった。鏑木の奇襲があったにせよ、犠牲者の数は減らせたはずや。何故、あの人は自ら先陣を切って突入せんかったんや……?)
応えの返らない疑問に、童子はきつく唇を噛んだ。
重苦しい沈黙に包まれた室内は、壁に掛かった時計の針の音だけがいつまでも響いていた。
同刻。
西班チーフの路木怜司は、本部長の那智明からの内線に応対していた。
「ええ。はい。はい。そうですね」
路木は相槌を打ちながら、執務室の窓に目を向ける。
ブラインドの隙間から覗く空は、濃い藍色に染まっていた。
路木は一つため息を吐くと、感情のこもらない声で言った。
「あれの悪い癖が出ました。手駒が減りましたが、仕方ないですね」
午後9時。東京都水縹区。
自宅のあるマンションに戻った鏑木は、シャワーを浴び、リビングのソファに身を沈めてテレビをつけた。
ニュース番組では、『インクルシオ対策官突入失敗か? 5人が殺害される』と大々的に報道されている。
鏑木はテレビの画面を眺めて独りごちた。
「……もしかしたら、“あの二人”が来るかもしれないって期待したんだけどな。管轄が違ったか。なかなか上手くはいかないな」
鏑木はリモコンを持ち上げてテレビを消すと、テーブルに置いたスマホに手を伸ばした。
スマホの待ち受け画面には、空五倍子区の児童公園が写っている。
鏑木は画面の中に佇む二人の対策官を愛おしく見つめた。
「さて。次の手を考えるか。どうやったら、君たちに会えるかな」
そう言うと、鏑木は口元に溢れた涎を手で拭った。