04・花と提案
午後11時。東京都木賊区。
冴え冴えとした月明かりが照らす繁華街の路地裏で、グラウカ限定入店の『BARロサエ』は、スチール製のドアに『OPEN』のプレートを下げていた。
四方を黒塗りの壁に囲まれた2階のビップルームには、反人間組織『イマゴ』のリーダーの穂刈潤、右腕でありNo.2の乾エイジ、店のママのリリーが集っている。
瀟洒な部屋のソファセットに腰掛けた3人の前には、『イマゴ』の幹部の一人であり、パフォーマンス集団『ミラクルム』の団長でもある樺沢慶太が座っていた。
「いやぁ。俺、この店に来るのは初めてだから嬉しいよ。いつもミーティングでモニター越しに見ていたから、一度来てみたかったんだ」
ラフな私服姿の樺沢が、ピエロメイクを施していない素顔で周囲を見回す。
リリーは「ふふ。樺沢君が来てくれて嬉しいわ」とにこりと笑い、黒のレースの手袋を嵌めた手でウィスキーの水割りを渡した。
「そういやさ。『ミラクルム』を解散した後は、どうするんだ?」
短髪を燻んだシルバーブルーに染め、黒革のパンツに裾の長い上着を羽織った乾が、ロックグラスを片手に訊ねる。
樺沢はチーズと酢漬けのオリーブが乗ったクラッカーを齧って答えた。
「暫くは、団員たちと共に地下に潜るよ。俺が20歳ん時に『ミラクルム』を結成してから7年間、休みらしい休みもなかったし。それで、英気を養ったら、またショービジネスの世界に戻るかな。着ぐるみの劇団とか、オリジナルの戦隊ショーとか」
「え? そうなの? 同じ業界は、さすがにマズくないか?」
乾が目を丸くして言い、リリーが「確かにねぇ」と頬に手を当てる。
樺沢は「ははは。あくまでアイデアの一つだよ。『ミラクルム』が終わってから、またじっくりと考えるさ」と朗らかに笑い、手元のグラスを見やった。
「……だが、なるべく早く“次”を決めたいな。俺を素晴らしい『道』に導いてくれた韮江先生の為にも、できる限り間断なく人間を殺したい」
「うん。その心掛けは、とてもいいね。きっと韮江先生も喜んで下さるよ」
緩やかなウェーブのかかった黒髪に丸メガネをかけた穂刈が、ラム酒ベースのカクテルを手にして微笑む。
樺沢は視線を上げると、「……先生、元気かなぁ……」と呟き、グラウカ収監施設『クストス』に収監中の韮江光彦の顔を思い浮かべた。
ふとしんみりとした空気が部屋に漂い、リリーが明るい声をあげる。
「みんな! 元気よくいきましょう! さぁさ、これも食べてみて。かぼちゃと胡桃のキッシュ。牡蠣のアヒージョも、熱々のうちが美味しいわよ」
「おう! そうだな! では、いただきます!」
樺沢が目を輝かせてフォークを持ち、リリーが「お酒も沢山あるから、どんどんいっちゃってね」と笑った。
眩しい月明かりを拒む遮光カーテンを背に、『イマゴ』の4人は、心ゆくまで密やかな歓談を楽しんだ。
──今から、15年前。
東京都立川市にあるグラウカ支援施設「ひまわり苑」で育った穂刈と乾の二人は、小学校の授業が終わると、夕食の時間まで町内の探索に出かけた。
「あ! 潤! 見て! カタバミだ!」
「これは、ムラサキカタバミだね。小さくて可愛いなぁ」
長袖のシャツに半ズボンを履いた乾が、歩道に咲いた小花を指差す。
やや大きめのメガネをかけた穂刈が、フレームをつまんで近くにしゃがんだ。
「ひまわり苑」の職員であった韮江が説く『グラウカ至上主義』の思想に傾倒する前、十分な小遣いや流行りの遊び道具のなかった二人は、こうして道端に咲く花を見つけては愛でた。
「ほら、潤。アスファルトの割れたところから、一輪だけが咲いてる。仲間もいない、厳しい環境の中で、この花は頑張って生きてるんだね」
「うん。まるで僕たちみたいだね。……あ、違うか」
穂刈はぱっと顔を上げると、隣にしゃがむ乾に幼い瞳を向けた。
「僕にはエイジがいる。そして、エイジには僕がいる。血が繋がった家族ではないけれど、この花のように一人きりじゃない。これって、すごく幸せなことだよね」
「……!」
穂刈の何気ない一言に、乾は俄に感極まった。
腰を上げて再び歩き出した穂刈の背中を、「潤。待って」と小走りで追う。
やがて、二人は横に並び、美しい夕焼けの照らす道を進んだ。
(……あの時に見た、ムラサキカタバミに似てるな……)
午前1時を少し回った時刻、『BARロサエ』を出た穂刈と乾は、薄暗い路地を歩いて帰路についた。
樺沢は大通りからタクシーに乗り、宿泊する立川市のホテルに戻った。
「……エイジ? 黙り込んで、どうした?」
「……いや。何でも」
先を歩く穂刈が振り返り、乾は道端に向けていた視線を外す。
穂刈は「そう?」と言うと、「でさー。さっきは、久しぶりに韮江先生の話で盛り上がったね。楽しかった」と頬を紅潮させて笑った。
その幸せそうな表情に、乾は「ああ」と小さく返事をする。
(……潤の幸せは、俺の幸せだ。俺は血に塗れたこの『道』を、どこまでもこいつについていく)
夜半の冷たい風が路地を吹き抜け、乾の上着の裾を大きく翻した。
穂刈と数歩の距離を開けた乾は、まっすぐに前を見据えたまま、アスファルトに咲く一輪の花を後にした。
翌日。午後3時半。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の2階にあるロッカールームの前の通路で、南班に所属する「童子班」の高校生4人は、息を潜めて耳をそばだてた。
今から30分ほど前、昭島市の古い寺の井戸と、市営の野球グラウンドの物置から、無惨に顔面を潰された人間の遺体が発見された。
また、それぞれの遺体の傍らには、血文字で『イマゴ』と書かれていた。
木賊第一高校を下校し、この日の巡回任務の為に黒のツナギ服に着替えた高校生たちは、特別対策官の童子将也から知らされた事件の速報に戦慄する。
童子は通路に立って手にしたスマホを操作し、インクルシオ立川支部に所属する兼田理志に電話をかけた。
「童子班」の面々は窓側に体を寄せて、兼田の話を聞く。
『──現在、寺の方には12人、野球グラウンドの方には15人の対策官が行っている。俺はさっき八王子の事件の聞き込み捜査から戻ってきたところだが、これから急いで昭島に向かう。……しかし、よもやとは思っていたが、3件目、4件目の殺人事件がこんなに早く起こってしまうとはな』
通話の向こうで兼田が重苦しく言い、高校生たちが唇を固く引き結ぶ。
両腿に2本のサバイバルナイフを装備した童子が、慮った声音で言った。
「兼田さん。立て込んどる最中に話を聞かせてもろて、ありがとうございます。そっちは休む暇もない忙しさやと思いますが、人員が必要な場合はいつでも駆け付けますんで、遠慮なく言うて下さい」
『ああ。ありがとう。曽我部支部長はうちの対策官だけで十分だと言っているが、状況が厳しくなった時は頼む』
そう言って、兼田は『じゃあ、俺はもう行くな』と通話を切った。
童子がツナギ服の尻ポケットにスマホをしまい、高校生たちはそれまで詰めていた息を吐いた。
「……クソっ……。『イマゴ』め、次々と殺人事件を起こしやがって……」
「一晩のうちに、2件連続で殺人か……」
塩田渉が歯噛みをし、鷹村哲が眉根を寄せる。
「立川支部からの正式な応援要請はないけれど、何か協力できないかしら……」
最上七葉が思案するように呟き、雨瀬眞白が白髪を揺らしてうつむいた。
童子は表情を険しくした高校生たちを見やって言った。
「まずは、自分らの任務をしっかりと遂行することが大事や。ほな、気持ちを切り替えて、空五倍子区の巡回に行くで」
童子が踵を返し、鷹村、塩田、最上が「はい!」と返事をしてその後に続く。
雨瀬は足元に落としていた視線を上げると、「……童子さん!」と声を発した。
「なんや? 雨瀬?」
童子が立ち止まり、雨瀬が走り寄る。
雨瀬は童子を見上げて、「……一つの提案ですが」と口を開いた。
「乙女区の『クストス』に収監されている、韮江光彦に面会できないでしょうか? グラウカである僕が一人で行けば、韮江は『イマゴ』の事件について何か口を滑らせるかもしれません。もちろん、空振りで終わる可能性の方が高いですが……」
雨瀬は一旦言葉を区切り、「でも」と小さく付け加えた。
「立川支部の対策官のみなさんは、『イマゴ』を懸命に捜査している。僕にできることは、何でもしたいです」




