10・満足と愚行
栃木県日光市。
鬼怒川温泉街の北西の外れに建つ廃業済みの旅館で、インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の高校生4人は、床に転がった体勢で息を飲んだ。
東エリアの強化合宿の10日目となったこの日、反人間組織『デウス』の拠点に突入した4人は、多数の構成員の出現と味方の対策官の不可解な言動に、大きな窮地に陥っていた。
その混沌とした状況の中、古びた旅館の正面玄関を蹴破って現れたのは、インクルシオ東京本部の南班に所属する特別対策官の童子将也だった。
童子はロビー全体に素早く視線を巡らして、鋭い声で指示を出した。
「──藤丸! 湯本! ここは反人間組織『デウス』の拠点や! まずは左右に分かれて、ロビー中央に固まっとる構成員を挟み込め!」
「はい!!」
インクルシオ東京本部の東班に所属する藤丸遼と湯本広大が、衣服の腰に差し込んだサバイバルナイフを抜き、童子の背後から走り出す。
童子はソファの側で目を丸くしている名古屋支部の綱倉佑士を見やって、「綱倉さんですね? 強化合宿に来とる対策官と、さいたま支部に連絡を!」と言うや否や、一番近くにいる構成員の側頭部に強烈な蹴りを入れ、そのまま猛然と前に向かってダッシュした。
「うぎゃああぁぁっ!!!」
「ぐああぁっ!!!」
ロビーにひしめく『デウス』の構成員が次々と倒れ、宙に埃が舞い上がる。
「童子班」の高校生たちが伏していた体を起こすと、正面玄関の三和土から十数人の構成員をなぎ倒してきた童子が、4人に背を向けて立った。
「……ど、童子さん……!!!!」
「お前ら、怪我はあらへんか?」
鷹村哲、雨瀬眞白、塩田渉、最上七葉が掠れた声を出し、童子は無事を確認するようにちらりと後方に目をやる。
その隙に、『デウス』のリーダーの神原十羽とNo.2の江田春紀が受付カウンターの奥のドアに消え、童子は「逃さへんで」と低く言って再び床を蹴った。
高校生4人は急いで黒の刃を握り直し、「……俺らも、戦うぞ!」と勇んで交戦の場に飛び込んでいく。
インクルシオ名古屋支部に所属する特別対策官の速水至恩は、すっかり様相の変わった戦況に、「……フン」と息を吐いて鼻白んだ。
午後10時。
緋色の絨毯が敷かれた旅館のロビーを、多くの対策官が行き来する。
全国でも有数の温泉地に潜んでいた『デウス』は、リーダーとNo.2を含む25人の構成員が死亡し、残りの16人は自ら武器を捨てて投降した。
栃木県を管轄するさいたま支部の車両が到着するまで、強化合宿の参加者たちが簡易的な事後処理を行い、拘束した構成員を見張る。
「童子班」の高校生4人は、雑草の生えた旅館の中庭に出て、童子が『デウス』の拠点に現れた経緯を聞いた。
「……昨夜、藤丸から電話があってな。お前らと速水君の間に、何らかのトラブルが起こっとることを知ったんや。そんで、お前らに詳しい事情を訊こうと思て、任務が終わってからこっちに来た。せやけど、旅館に到着してメッセージを送っても、4人共に返信があらへん。そこで、藤丸と湯本を呼んで、お前らのスマホのGPSを追ってここまで来たんや」
「……そうだったんですか……」
中庭に佇んだ私服姿の高校生たちが、小さく声を漏らす。
黒のツナギ服を纏った童子は「せや」とうなずいて、顔を横に向けた。
「……さてと。速水君。ちょうどええから、君に訊くわ。この強化合宿で、こいつら4人に辛く当たった理由は何や?」
童子の双眸が射抜くように細まり、不意にその場の空気が緊張する。
高校生たちの傍らに立った綱倉が「あ、あの。それは……」と言いかけた時、チノパンのポケットに両手を入れた速水が口を開いた。
「あー。別に、それほど辛く当たったつもりはないですけどね。でも、正直に理由を言うのであれば、それは貴方のせいですよ。童子さん」
「……どういうことや?」
速水は悪びれのない口調で言い、童子が訊き返す。
童子と向かい合った速水は、唇をぐにゃりと歪めた。
「いやぁ。俺はねぇ。実は貴方のことが大嫌いなんです。だって、俺は高1で特別対策官に任命されて、当時は『鳴神冬真の後を継ぐ男』と周囲にもて囃されていたんですよ? ところが、一年、二年と経つごとに、そういった称賛の声は徐々に減っていった。その代わりに聞こえてきたのは、俺と同じ年に特別対策官になった大阪支部の童子さんの活躍だったんです」
速水は一旦言葉を区切り、中庭の池に目をやる。
濁った水面に映る己の姿を見ながら、話の続きを口にした。
「童子さんは、いつの間にか『インクルシオNo.1の特別対策官』になっていました。それまで俺に向けられていた期待や評判は、すっかり貴方に奪われてしまった。そんな折ですよ。名古屋支部の『ノウス・オルド』の突入作戦で、別所支部長が貴方を応援に呼んだのは。あの時は、「この俺がいるのに!」って腸が煮えくり返る思いだったなぁ。……まぁ、そういうわけで、童子さんの教え子たちに少しばかり八つ当たりをしたんです」
そう言って、速水は薄く嗤う。
童子は暫く沈黙した後、硬い声音で言った。
「……速水君。君は、高1の時に『鳴神冬真の後を継ぐ男』て言われて、それで満足してしもたんか?」
「……え?」
「誰かの後を“継ぐ”ことで満足しとったら、その人を“超える”ことはできへん。君は特別対策官に任命されてから、血ヘドを吐くような鍛錬はしてきたか? 自分の能力を更に高める努力はしてきたか? もしそうやないのなら、君が特別対策官として大きく成長する機会を奪ったんは、君自身や。己の怠慢が招いた結果を、他人のせいにすんなや」
「……っ!!!」
童子の厳しい指摘に、速水が言葉を詰まらせる。
童子は静かな眼差しに深い怒りの色を混ぜて言った。
「それと、もう一つ訊くわ。さっきの交戦で、『デウス』の構成員に囲まれとったこいつらをすぐに助けへんかったんは、何故や?」
速水はチノパンのポケットから両手を出し、前のめりになって返した。
「……そ、そんなの決まってるじゃないですか! 俺の腕なら、いつでも助けられるからですよ! 俺は特別対策官だ! どんな状況だろうと、それくらいわけな……うぼぉっ!!!!!」
速水の上ずった声が、ゴッという音と共に途切れた。
童子の振り抜いた右拳が、速水の顔面をぐるりと回転させて地面に倒す。
「し、至恩っ!!!」
「は、速水特別対策官!!!」
綱倉と高校生4人が同時に声をあげ、慌てて速水に駆け寄った。
童子は白目を剥いて気絶した速水を見下ろして、低く言った。
「……お前は肥大化したプライドに固執するあまり、仲間をわざと危険にさらした。それは決して許すことのできへん、最低の愚行や。顎を砕かれへんかっただけ、マシやと思え」
童子の言葉に、周囲に集まった対策官たちが黙って速水を見やる。
やがて、夜の帳が下りた旅館にさいたま支部の車両が到着し、秋の温泉地での事態は収束を迎えた。




