04・因縁の轍
──あれは、俺が6歳の時だった。
俺、鷹村哲が住む児童養護施設「むささび園」に新しい先生が来た。
その先生は筒井美鈴という20歳の女性で、60歳を過ぎた園長先生は「若い子が来てくれて助かるわー」と喜んでいた。
当時、「むささび園」は下は0歳から上は15歳まで合計16人の児童がいた。
俺は同い年の雨瀬眞白とよく一緒にいたが、眞白は内向的で人見知りが激しく、外での遊びに誘ってもイヤイヤと首を振ることが多かった。
「せっかく誘ってんのに! もう、放って行くからな!」
俺はそんな眞白の性格にうんざりして、時々、癇癪を起こした。
だが、外で友達と遊んだ後は眞白の様子が気になって、走って園に帰った。
──眞白は、保健所が行う『4歳時検診』で『グラウカ』だと判明した。
もともと人と関わることが苦手だった眞白は、自身が『グラウカ』だと判ってからますます内にこもる性格になった。
俺はその変化を歓迎していなかったが、眞白の気持ちはわかるつもりでいた。
僅か4歳で『人間』という枠から外された眞白は、俺が想像する以上の孤独を感じているんだろうと思った。
だから、俺はどれだけうんざりしても、眞白の側にいることだけはやめなかった。
そんなある日。
俺が外から「むささび園」に帰ってくると、複数の二段ベッドが置いてある子供部屋で、筒井先生と眞白が昆虫図鑑を見ていた。
エプロン姿の筒井先生は眞白の隣に座り、「これはバッタさんね。こっちはカマキリさん。カブトムシさんは見たことあるかな?」と話しかけていた。
眞白の反応は薄く、子供部屋の引き戸から見ていた俺はイライラした。
しかし、筒井先生はゆっくりとページをめくりながら根気よく眞白に接した。
俺は引き戸からそっと離れて、台所に水を飲みに行った。
何となく、眞白は筒井先生に懐くだろうと思った。
翌日。ある出来事が起こった。
あの日は日曜日で、俺は小学校の友達と遊ぶ約束をしていた。
眞白にも声をかけようと思って探していると、眞白は筒井先生と園の庭にいた。
二人は花壇のアリを見ているようだった。
「アリさんたち、何を運んでいるのかしら?」
「……お菓子」
「あ。さっき、みっちゃんたちが縁側で食べてたクッキーかな?」
「……うん」
「ふふ。眞白君、アリさんをじっと見てるわね。今度、お外の公園に行ってみようか。アリさん以外にも色々な虫さんが見られるよ」
「………………うん」
小さくうなずいた眞白に、筒井先生は嬉しそうに微笑んだ。
それは、とても愛情の深い笑顔だった。
──その時。
しゃがんでいた筒井先生に別の子供がまとわりついた。
「せんせー! 僕も、公園行くー!」
その子供は、乙黒阿鼻だった。阿鼻は眞白と同じ『グラウカ』だ。
「いいわよー。阿鼻君も一緒に行こ。先生、お弁当作るね」
阿鼻は「わーい!」と喜ぶと、筒井先生の右腕に両手を回した。
筒井先生は抱きついてはしゃぐ阿鼻に「うふふ」と笑った。
だが、筒井先生の表情は段々と変化し、「……ちょっと」と焦ったように言い、しまいには「離してぇぇぇぇっ!!!!!」と金切り声で絶叫した。
筒井先生の叫び声に驚いた俺は、縁側を飛び降りて3人の側に駆け寄った。
眞白は目を見開いてその場に固まっていた。
阿鼻は「どうしたのー?」と言って、筒井先生の右腕をぶらぶらと揺らした。
やがて、筒井先生は口から泡を吹いて地面に崩折れた。
筒井先生の右腕は粉砕骨折していた。
骨の一部が皮膚を突き破って外に露出していたと聞いた。
園長先生は、『グラウカ』の阿鼻が力加減を誤った故の事故だと結論づけた。
しかし、俺は筒井先生が倒れるまでその腕にしがみつき、執拗に揺らしていた阿鼻の横顔を忘れることはできなかった。
その後、筒井先生「むささび園」を辞めた。
それ以来、俺は阿鼻との間に距離を取った。
眞白は以前にもまして内にこもるようになり、俺は眞白を外に連れ出すことに苦労した。
阿鼻はそれまでと変わりなく、中学一年生の春に「むささび園」から姿を消すまで、飄々とした日々を過ごした。
午後9時半。東京都月白区。
インクルシオ東京本部から300メートルほど離れた場所にある『月白噴水公園』で、鷹村哲と乙黒阿鼻は向かい合っていた。
噴水の水音が、夜の公園に静かに響く。
「……俺に、何の用だよ」
眼前に立つ乙黒から視線を逸らすことなく、鷹村は訊いた。
「厄介なのが世間を賑わしてるからさ。インクルシオ対策官の哲たちは大変だなと思ってね」
黒のパーカーの裾を夜風に揺らして、乙黒はおどけた口調で言った。
「つまんねぇ戯言はいらねぇよ。俺を殺しに来たのか?」
「どうして、そう思うの?」
「俺がお前を殺したいと思ってるからだよ」
「………………」
目深に被ったフードの奥の双眸が、すっと細まる。
数秒の沈黙の後、乙黒は「そっか」と笑った。
鷹村は声音を尖らせて言った。
「何故、反人間組織を作った? メンバーは? 拠点は? 都市伝説の“特異体”が本当に存在すると思ってんのか? だったら、その根拠は?」
鷹村の矢継ぎ早な質問に、乙黒は肩を竦める。
「あらら。すっかり、インクルシオ対策官だね」
「答えろ」
「まぁ、小さい頃から、哲はいずれ『その道』に進むと思ってたよ。眞白が一緒に対策官になったのは意外だったけどさ」
「そんなことはどうでもいいんだよ。俺の質問に答えろ」
「哲は昔から正義感が強かったし、人望があったし、賢かった」
「いいから、答えろ!! 阿鼻!!」
「……僕が答えるわけないって、わかってるだろ?」
鷹村が激昂し、乙黒は薄く微笑んだ。
不意に強い風が吹き、乙黒のパーカーのフードが首元に落ちる。
月明かりの下に、無造作に伸びた黒髪と青白い肌が露わになった。
仄暗い不気味さを感じるその風貌は、昔も今も変わらないと鷹村は思った。
乙黒は静かな声音で言った。
「哲の質問には答えられないけど、僕は僕の道を行くことにしたよ」
「……人間を傷付ける道か」
「ふふ」
乙黒は小さく笑うと、鷹村にくるりと背を向けた。
色落ちしたジーンズのポケットに両手を入れて言う。
「今日は会えてよかったよ、哲。「むささび園」の幼馴染として、3年ぶりに顔を見たかった」
「………………」
「次に会う時は、『キルクルス』の乙黒阿鼻だ。眞白と楽しみにしてて」
「……てめぇの思い通りにできると思うなよ」
低く発した鷹村の言葉に、乙黒はひらりと片手を上げた。
そして、スニーカーを履いた足を踏み出す。
二人の距離が徐々に開き、石畳を踏む音が小さくなっていく。
乙黒の背中が完全に闇に消えるまで、鷹村は身じろぎもせずにその場に佇んでいた。
「遅かったじゃん」
インクルシオ寮の休憩スペースに戻った鷹村に、塩田渉が声をかけた。
「長く立ち読みしてたからな」
そう言うと、鷹村はソファに腰を下ろし、コンビニエンスストアで購入したアイスクリームをビニール袋から取り出した。
塩田にメロン味のシャーベットを渡し、自分用に買ってきたバニラアイスの蓋を開ける。
最上七葉が「あんたたち。寝る前にちゃんと歯を磨きなさいよ」と言い、塩田が「はーい」と返事をしてシャーベットを頬張った。
鷹村の隣に座る雨瀬眞白が、「哲」と小声で呼びかける。
「眞白も、一口食うか?」
鷹村はバニラアイスを掬ったスプーンを手にして、雨瀬を見た。
雨瀬は首を振って訊いた。
「何かあった?」
「……なんで?」
「顔色が悪い」
「…………」
雨瀬の言葉に、鷹村は黙った。
最上と塩田が見ているテレビでは、変わらず“人喰い”事件が報道されている。
鷹村は雨瀬の背中をぽんと叩いて言った。
「……大丈夫。何もねぇよ」
翌日。午後5時。
インクルシオ東京本部の西班がチェックしていた防犯カメラに、“人喰い”鏑木良悟の姿が映っているのが発見された。
西班の対策官たちは防犯カメラの映像から鏑木の足跡を辿り、潜伏先を特定した。
「“人喰い”の拠点は、水縹区だって?」
「やっと奴の尻尾を掴んだな。突入は誰が行くんだ?」
「それはやっぱり、特別対策官の真伏さんだろ」
俄に活気づいた西班の対策官が、次々と会議室に入っていく。
会議室に集まった対策官たちを前に、西班チーフの路木怜司が指示を出した。
「先ほど、“人喰い”鏑木良悟の拠点が判明した。迅速に突入チームを組んで現場に向かえ。……真伏。突入の指揮はお前に任せる」
路木の指名を受けた特別対策官の真伏隼人が椅子から立ち上がった。
「わかりました。必ず期待にお応えします」
腰に下げたブレードに手を掛けた真伏は、不敵に口角を上げた。