03・過去と過信
栃木県日光市。
秋の行楽客で賑わう鬼怒川温泉で開催された強化合宿は、2日目を迎えた。
澄んだ青空が広がるこの日の午前中、黒のジャージを着た70人の参加者は、車で30分ほど移動した場所にある山地で戦闘訓練を行った。
戦闘訓練は雑木林の中に建つ山小屋を反人間組織の拠点と想定したもので、15人の対策官役と20人の反人間組織役の参加者が交戦する。
それぞれの武器は模擬のサバイバルナイフを使用し、急所として設定した頭部・胸部・腹部に触れれば、相手がその場に倒れるというルールだった。
普段はひっそりと佇む2階建ての古い山小屋は、参加者たちがぶつかり合う激しい振動と怒号で揺れ、周囲の木々に止まっていた野鳥が一斉に飛び立つ。
インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の高校生4人は、戦闘訓練の3セット目を終えて、草木の茂る地面に座り込んだ。
「ああ〜。腹が痛ぇ〜。みんな本気で攻撃してくるから、マジで痛ぇ〜」
「一応、当たる瞬間に力は緩めてくれるけどな。それでも、どうしても勢いが余っちゃうからな……」
塩田渉がジャージの腹部を両手で抱えて呻き、鷹村哲が胸部を摩る。
最上七葉が赤くなった額を指先で撫で、雨瀬眞白が脇腹を手で押さえた。
「……あいつらは、わりと余裕そうだな。さすが、中3でインクルシオ対策官になった奴らだぜ」
そう言って、塩田が数メートル先に立つ二人の人物を見やる。
その視線に気付いた東班に所属する藤丸遼と湯本広大が、大仰に顔を顰めた。
塩田が「褒めたのに、睨まれた〜」と口をへの字に曲げ、他の3人が苦笑する。
すると、並んで体育座りをする高校生たちの前に、濃い人影が落ちた。
「君たち。あんな体たらくで、よく笑っていられるねぇ」
「……速水特別対策官!」
4人が揃って顔を向けると、そこには名古屋支部に所属する特別対策官の速水至恩が立っていた。
強化合宿の指導係を務める速水は、ジャージのポケットに両手を入れて言う。
「さっきの戦闘訓練さぁ。どのセットも、君たちは早い段階で相手にやられていたよね。それに、4人共、一人も倒せずに終わってる。あまりに低レベルで、これがもし実戦だったらと思うとぞっとするよ。君たちの指導担当についている童子さんは、半年以上も何を教えてたんだい?」
「──!」
速水の言葉の最後に、「童子班」の高校生たちは思わず顔色を変えた。
速水は口端を上げて4人を見下ろし、「はは。腹が立った? だったら、童子さんに言いつければ?」と言い残して去っていく。
塩田が拳を微かに震わせて呟いた。
「……なんかさ。速水特別対策官て、俺らに妙にキツくあたるよな。俺らだけならまだしも、童子さんのことまであんな風に言われるのは……」
鷹村、雨瀬、最上が眉根を寄せて唇を噛む。
その時、高校生たちの隣に、別の人物が腰を下ろした。
「お前たち。嫌な思いをさせてしまって、すまない」
「……つ、綱倉さん!」
名古屋支部に所属する綱倉佑士が小さく謝罪し、4人が驚いて声をあげる。
綱倉はまっすぐに前を見やったまま、硬い声音で言った。
「もうすぐ昼休憩だ。……その時に、あいつのことを話すよ」
──速水至恩は、中学3年生でインクルシオ対策官になった。
速水は名古屋支部に配属されると、新人でありながら次々と反人間組織の壊滅に貢献し、僅か1年で特別対策官に任命された。
高校1年生という異例の若さで特別対策官となった速水は、周囲から『鳴神冬真の後を継ぐ男』と称賛され、その輝かしい前途を期待された。
そして、速水と同時期に、もう一人の若き特別対策官が誕生した。
それは、大阪支部に所属する童子将也だった。
童子は高校1年生でインクルシオ対策官になり、凶悪な反人間組織が跋扈する関西エリアで目覚ましい戦績・功績を挙げ、高校2年生で特別対策官となった。
童子と速水は年齢が一つ違いの同期であり、二人は尊い使命を背負って、それぞれに特別対策官としての道を歩み始めた。
それから、2年半が経ったある日。
私服姿の速水がロッカールームを出ると、同じ班の綱倉が声をかけた。
「至恩。この後、一緒にトレーニング室に行かないか?」
「あ。俺はいいです。髪をセットしちゃったし、外に遊びに行きたいし……」
「なんだよ。こないだもそう言って断ったじゃないか。お前、ここんところ鍛錬をサボり過ぎじゃないのか? そんなんじゃ、せっかくの腕が落ちるぞ」
「いやぁ。最近は摘発や突入の任務がなくて、なんかダレちゃって。でも、大丈夫。いざとなったら誰よりも戦えますよ。なんてったって、俺、特別対策官ですから」
そう言って、速水は悪びれなく笑い、綱倉はため息を吐いた。
その翌日。名古屋支部に大きな一報が入った。
中部エリアで活動する反人間組織『ノウス・オルド』の拠点が判明した。
『ノウス・オルド』は構成員90人を擁する古参組織で、幹部の中にはキルリストの個人10位以内に入る3人の人物が含まれている。
名古屋支部の支部長である別所嘉美は、即座に突入チームの選出に乗り出し、『ノウス・オルド』の壊滅に盤石な体制を整えた。
名古屋支部の内部が俄に活気付く中、不意に速水は耳を疑う噂を聞いた。
速水は床を蹴って猛然と走り出し、支部長室に入ろうとする別所を、綱倉の制止を振り切って呼び止める。
「別所支部長! 今夜の『ノウス・オルド』の突入の件ですが、大阪支部の童子将也を応援に呼んだって本当ですか!?」
速水が顔を強張らせて質問し、別所が「ああ」とうなずく。
「ど、どうしてですか!? 特別対策官が不在の支部ならわかりますが、ここには俺がいるのに……!」
「童子は、今やインクルシオNo.1の実力を誇る特別対策官だ。今回、『ノウス・オルド』を確実に壊滅する為に、童子の力が必要だと判断した。速水、お前は童子と共に、キルリストに載る3人の幹部を倒せ」
「そ、それは俺一人でも……!」
速水が足を前に踏み出すと、別所は鋭い声で「速水」と言った。
「自惚れるな。愚かな過信は、自分自身だけではなく仲間の命をも危険に晒す。お前も特別対策官なら、見栄やプライドに拘るより、己の使命と責務を果たすことを優先しろ」
「……!」
別所の厳しい言葉に、速水は口を噤む。
別所は目の前に立つ速水を見据えて、「それと」と低い声で言った。
「お前はかつて、『鳴神冬真の後を継ぐ男』と言われ、周囲からもて囃された。だが、高い名声は時に人の成長を妨げる原因ともなりうる。己を律することを忘れ、毎日のように遊び呆けているお前に、大事な任務のエースを任せる気はない」
そう告げると、別所は支部長室の中に消えていく。
パタンと閉まったドアの無機質な音を聞きながら、速水は通路に立ち尽くした。
そして、この日の深夜。大阪支部からやってきた童子を加えた突入作戦が遂行され、『ノウス・オルド』は壊滅した。
午後1時。
山地での戦闘訓練を終えた「童子班」の高校生たちは、旅館で昼食をとった。
その際に食堂の同じテーブルについた綱倉から速水に関する話を聞き、4人は一様に黙り込む。
空になった茶碗を前に、塩田がぼそりと言った。
「……結局、速水特別対策官は、俺らに八つ当たりをしてるってこと?」
「ええ。その通りよ。童子さんに対しても、一方的で理不尽な確執を抱いているだけだわ」
最上がぴしゃりと返し、鷹村が「だよなぁ……」と腕を組む。
湯呑みに入った緑茶を一口啜って、綱倉が言った。
「至恩が子供じみた真似をして、すまない。もしこれ以上続くようなら、本当に童子特別対策官に言ってもらっても構わないから」
綱倉の提案に、鷹村が「い、いえいえ」と慌てて手を振る。
「別に、そこまではいいですよ。言葉は悪いですけど、こんな下らないことで童子さんに心配をかけたくはありませんし……。まぁ、速水特別対策官にはちょっと嫌味を言われるだけなんで、これも精神面の鍛錬だと思って、強化合宿の間は我慢しますよ」
鷹村の言葉を受けて、塩田と最上が「うん」「そうね」と同意する。
黒のジャージを着た雨瀬が、癖のついた白髪を揺らして言った。
「速水特別対策官の言い方はともかく、僕らが実力不足なのは事実だ。だから、その点はしっかりと反省して、もっと頑張っていこう」
午後9時。東京都木賊区。
インクルシオ東京本部の南班に所属する特別対策官の童子将也は、反人間組織『キルクルス』に関する木賊第一高校周辺での聞き込み捜査を終了して、黒のジープに乗り込んだ。
コインパーキングの電灯が照らす運転席に座り、ツナギ服のポケットからスマホを取り出す。
栃木県日光市の温泉地で強化合宿に臨んでいる高校生4人は、つい先ほど「今日も疲れました〜!」と短いメッセージを送ってきた。
童子はスマホの画面を操作しかけて、ふと手を止めた。
(……強化合宿は始まったばかりや。トレーニングに集中しとるあいつらの邪魔をしたらあかん。電話をかけるんは、また今度にしよう)
エンジンキーを回すと、しんとした車内に振動が伝わる。
童子はスマホをポケットにしまい、アクセルを緩やかに踏み込んだ。




