前
七つの子どもは神のうち
水の宮さまもしかたない……
『加奈子ちゃん、いーい? 裏山の滝には行っちゃいけないって、何度も言っているでしょう? ……裏の滝にはね、水の宮さまが住んでいるのよ。
水の宮さまはね、七才までの子どもなら、水辺で遊ぶ子のタマシを自由に取っていいってことになってるの。前にも話したよね? おばさんが、水の宮さまに会ったお話。
むかーし、まだおばさんがあなたより少しだけ大きいくらいだった頃。私の弟、つまりあなたのお父さんが、一人で裏山へ遊びに行って滝でおぼれてしまったの。
私は弟のタマシを返してもらうため、滝へ出かけて水の宮さまにお願いしたわ。
「どうか、弟を助けて下さい」って。
そうしたらね、水の宮さまは、
「いいでしょう。ただし、その代わりにあなたの命をいただきますよ」って言ったのよ。
おばさん、とってもこまったわ。でもね、その時いいことを思いついたのよ。
「わかりました。でも、仕度ができるまでちょっと待っていて下さいな。うちの裏にある椿の葉っぱが全部落ちたら、その時迎えに来て下さい」
おばさんは、水の宮さまにこう言ったの。
知ってる? 秋になると、どの木も葉っぱが落ちるでしょ。でもね、一年中葉っぱが落ちない木もあるの。椿はそういう種類の木なのね。
水の宮さまは、そのことを知らなかったのね。
「それでは、椿の葉っぱが全部落ちたら迎えに行きます」って言って、弟のタマシを私に返してくれたのよ。
多分、水の宮さまは今でも待っていることでしょう。うちの大きな椿の葉っぱが、全部落ちてしまう日を。
だから、いーい? 加奈子ちゃん。決して裏山の滝に行ってはだめ。おばさん、もう水の宮さまにお願いすることは出来ないんだから。──わかったわね、加奈子ちゃん』
*
時おりそよぐ涼しい風が秋の訪れを告げている。
低く、長く響く読経とかすかにすすり泣く声が、開け放した四十畳近い広間のあちこちから聞こえて来る。
私は棺のすぐそばで、喪服替わりの制服のすそを強くにぎりしめていた。
伯母さんが死んだ。
体が弱くて結婚をせず、私が祖父の家に行くたび、実の子のようにかわいがってくれていた伯母さんが、急に亡くなった。
私は少し顔を上げ、床の間の前にしつらえられた壇上にある写真を見た。五十は過ぎていたはずなのに、十分にきれいだと思わせる顔が黒枠のなかで微笑んでいる。
私はほっとため息をついた。高校に入ってからは、以前のように休みのたびにこの場所へ来ることはなくなっていたが、私と会うのを楽しみにしてくれていた伯母さんが死んだことは、本当にショックだった。
ふと私は耳をすませた。今までは読経で気づかなかったが、わずかに吹く風にのって低い歌声が聞こえて来る。
七つの子どもは神のうち
水の宮さまもしかたない
憂いをおびた、聞き覚えのある単調な旋律。
私は目を丸くした。
あれは、伯母さんがよく口ずさんでいた唄だ。
水の宮さまは子どもらの
タマシを食って返される
私は辺りを見渡した。変わらない周囲のようすから、この歌声が聞こえているのはどうやら自分だけだと悟る。
水の宮さまもしかたない
水の宮さまもしかたない、しかたない……
私は縁側に目を向けた。読経が終わり、移動を始める喪服姿の親戚に混じって、学生風の見慣れない少年が立っている。
白い顔。闇を深々とたたえたような黒い双眸に、通った鼻筋。
歌声の主はどうやら彼のようだった。私はきつく少年をにらんで、座布団の上から立ち上がった。何か一言言ってやろうと思ったのだ。彼は私の視線に気づき、にやりと笑うと誘うような身振りで背を向けた。
私はすばやく玄関へ回り、少年の姿を追いかけた。
*
『加奈子ちゃん。この歌の「水の宮さま」ってね、水の事故のせいで死んでしまった子どものことを言っているのよ。……昔はね、小さな子どもは、事故や病気でとっても亡くなりやすかったのね。だから、昔の人は「七つまでは神のうち」って言って、七歳になるまでは子どもは神様に近いのだから、死んでしまっても仕方がないって考えていたのよ。この歌も、そんな悲しい気持ちが込められていた歌なのね、きっと』
伯母さんの言葉を思い出しながら、私は屋敷の広々とした庭へ出た。道を挟んだ向こう側には、色づきかけた稲穂の海が波打つように揺れている。
私はぐるりと辺りを見回した。右手の野菜畑の奥に裏山へと続く道がある。少年はその坂道の手前、林に入る直前で私が来るのを待っていた。
年は私と同じくらいだ。目を合わせると、魂を吸い取られる心持ちになる容貌は、妖しい何かをその中にひそませているようだった。
口もとに薄く笑いを浮かべてこちらを見ている少年に、私はきつく言い放った。
「あんたが妖怪だかなんだか知らないけど、人の葬式を邪魔するのはやめてちょうだい。迷惑だわ」
「……俺の姿が見える人間が、彰子以外にまだいたとはな」
形のよい唇を開き、少年は尊大な口調で言った。私が強くにらみつけると少年はかすかに微笑した。
「彰子の姪か。なるほど、彰子によく似ている。お前の方が気が強そうだが。……彰子には世話になったので、少し葬式をのぞいただけだ」
私は大きく目を見開いた。
「あんた……水の宮……?」
私のつぶやきに、少年はくすりと笑って答えた。
「知っていたのか。あいつの弟に手を出して、まんまといっぱい食わされたものだ」
くっくっと音を立て、楽しげに笑う。
「なかなか面白い取引だった。なにを言い出すのかと思えば、庭の椿の葉が落ちるまで待てとは。どんな約束であれ、交わした約束は守らねばならない。おかげで木が枯れるまで待つことになってしまった。……まあいい、それも今では愉快な経験だったと言える」
どこか引っかかるものを感じて、私は思わず口を開いた。
「椿の葉って……あんた、まさか」
少年はおどけた口調で言った。
「俺のせいではないぞ。椿が枯れたのはお前達人間のせいだ。ただ、おかげで葉が地に落ちて、俺の呪縛は全て解けた。俺との約束で寿命をゆずった彰子が冥府へ行くのは当然のことだ。俺の知ったことではない」
「水の宮!」
私が叫ぶと、少年はふと捕らえどころのない笑みを浮かべた。
「俺の名前を呼び捨てにするとは、やはり気の強い。気に入ったぞ、娘。名はなんと言う?」
私はぷいとそっぽを向いた。少年は苦笑いした後、打って変わった静かな声音で私を見ながら言葉を残した。
「俺はこの山の奥、大滝の水辺に居を構えている。会いたくばいつでも来い。──待っているぞ」
それだけ言うと、少年の姿は一瞬かげろうのようにゆらめき、周囲の空気に溶け込むように消え失せてしまった。
私はしばし、呆然とその場に立ち尽くしていた。
*
幼いころから、私はこの世にないものが見えてしまう人間だった。
今でこそそんな自分を制御し、どうにか普通の人間らしく生活してはいるのだが、子どものころは両親にさえ気味悪がられることが多かった。
たそがれの薄闇の中、もう死んでしまったはずの祖母が玄関の前で待っていたり、雑踏の間で人とは違う真っ黒な影が手まねいていたりと、自分が見えるもの達からの誘惑の数も多かった。
そんな私を救ってくれたのが彰子伯母さんの一言だった。
『加奈子ちゃん。あんまり他の人を驚かせちゃいけないわ。これはね、私達にしか見ることが出来ないものなのよ』
そっとささやいてくれた伯母さんの言葉は、幼心にも孤独を感じていた私にとって本当に心強いものだった。
伯母さんは色々なことを教えてくれた。人外のものが見えてしまう人はとても少ないということ。だから、そのことを不用意にしゃべると嫌われてしまう可能性が多いこと。また、「見えてしまう」ものの中には危害を加えるものもあるので、あまり関わってはいけないことなど。
水の宮さまの話も、その「関わってはいけないこと」の中の一つだった。
『いーい。絶対に裏の滝に行ってはだめ。あなたはきっと水の宮さまにさらわれてしまうわ』
子どもらしい好奇心から「裏山に行きたい、滝を見たい」と私が駄々をこねると、そのたびに伯母さんは眉根をくもらせて言った。
『水の宮さまは危険な神様。いいこと、絶対にあなたは水の宮さまに関わってはいけません。……わかった?』
彰子伯母さん。
私は強く唇を噛みしめ、無残に横たわる古木を見つめた。
祖父の屋敷の母屋の裏に、今はもう使われていない蔵がある。椿の古木はその蔵の脇に生えていたはずだった。季節になると見事な真紅の花を咲かせた大木は、今は生々しい切り口をさらしてその場に倒れ伏していた。
無論、緑色だったはずの木の葉はすでに茶色く乾ききり、わずかな風にもかさかさと小さな音を立てていた。
私はその場にうずくまり、声を殺してすすり泣いた。
父に聞くところによると、どうやら古い蔵を壊して母屋を改築することを祖父らは考えていたらしい。ついでに椿も切り倒し、場所をひろげようとの話で先に切られてしまったようだ。
──どうして伯母さんは反対しなかったんだろう。
私はぼんやり考えた。
──自分の命に関わることなのに。どうして何も言わずにおばさんは椿を切らせてしまったんだろう。
ため息混じりにすすり上げ、私はこぼれる涙をぬぐった。
きっと伯母さんのことだから、これが自分の寿命だとでも考えてしまったんだろう。
彰子伯母さんは昔からそんなところがある人だった。いさぎよいとでもいうのだろうか、あまり自分に執着しない、どこか達観したものの見方をする人だった。
立ち上がり、もう一度倒れた椿に目を向ける。辺りはすでに琥珀色にたそがれかけていた。
その時。私はなにかが聞こえたような気がして、耳をそばだてた。何だろう、どこか聞き覚えのある……。
「──ちゃん」
私は背後に目を向けた。母屋の裏は雑木林で、連なる木々は裏山の深い森へと続いている。その雑木の重なりのあいだに、女の白い人影が見えた。
『加奈子ちゃん』
私は自分の目を疑った。
白装束にその身を包んだどこかはかなげな印象の女性が、木々の間から私を呼んでいる。私はただあっけにとられて、彼女の白い顔を見つめた。それは、先ほど両手を合わせた遺影と同じものだった。
「お……おばさ……?」
震える声でつぶやくと、彼女はわずかに唇を開いた。まるで風のささやきのような、かすかな音が耳に入る。
『加奈子ちゃん。……智哉に気をつけて……』
それだけ私に伝えると、彼女は寂しげな笑みを浮かべてほの暗い林の奥へ消えた。