第壱話 秋冬春はケガをする Ⅰ
「これもか・・・」
僕はノートの端きれをくしゃにくしゃに丸め机の上に放った。
よく晴れた日の午後。空が青から赤へと変わり始めたころ。
西日が差し込む空き教室で僕、四月一日五月は一人席についていた。
四月一日五月。
今となっては呼び慣れた僕の名前も、改めて文字に起こしてみると若干の違和感を禁じ得ない。
姓は”わたぬき”、名は”いつき”。裏で呼ばれるあだ名は”フール”。
四月一日がエイプリルフールであることに加え、事実学がない僕にはおあつらえ向きのあだ名というわけだ。
そもそも僕の名前をフルネームで覚えているヤツがこの学校にどれだけいるだろうか。
日本の暦で五月は”さつき”という読みで親しまれているぶん名前を読み間違われることなどは日常茶飯事だし、苗字に至ってはまず読める人間が少ない。
それよりなにより、この組み合わせである。紛らわしいことこの上ない。自分の親ながら当時の精神状態がいかに非健康的あったかが窺える。
と、僕のことはこれくらいにして。
机の上には紙切れが山積していた。
形式はメモ用紙だったり、ノートを切り抜いたものだったりと様々だが書かれている内容は似たようなものだった。
これらにはそれぞれ願望、要望その他もろもろが書いてある。
大半は女子が書いたものだろう。
ではなぜ僕がこんなものを読んでいるのか?
そういった疑問が生じるのはごく自然なことだ。
先に否定させてもらえるとするならば、女子の願望を覗き見ることに興奮を覚える特殊な性癖をもった変態ではないということを言っておきたい。
僕は女子の願望を覗き見る特殊性癖の変態などではない。
大事なことなので二回言った。
実際半ば偶然、ゆえの成り行きのようなものなのだ。
僕の通う私立相馬高校は一クラス四十人で構成されている。
廊下には各クラス毎に縦二列、横二十一列、計四十二個のスクールロッカーが配置されており、生徒にはそれぞれ一つずつ割り振られていた。
クラスの人数よりロッカーの数が多いのは、おそらく編入生や転校生のための予備だろう。
だが、こんな田舎の高校にわざわざやってくる人がいるはずもなく、ましてや一クラスに二人同時に配属されることなどあるはずがなかった。
そういうわけで、そういった事情で常に使用されることのないロッカーというのはどのクラスにも存在していた。
僕はあとで知ることになるのだが、どうやらその使われることのない四十二番目のロッカーにお願いを書いた紙を入れておくとその願いが叶うという、いかにも女子が好きそうで、いかにも女子が考えそうなおまじないが流行っていたらしい。
あとで・・・というのは、そもそもこうした流行り廃りの激しい噂話がここまで大きくなってしまった原因が元を辿れば僕にあるからだった。
ロッカーは個々が独立したものではなく大きな箱に間仕切りをしたようなタイプ。
それゆえ何かの拍子にその紙が仕切りの裏の隙間から僕の使っている四十番目のロッカーへと紛れ込むことがしばしばあった。
僕はちょっとした好奇心からそれを読んでしまい、ちょっとした事情から事件に関わることになるのだが、その結果としてそれが願いを叶えることに繋がってしまったらしく、信憑性を増した噂話はより一層広まってしまった・・・ということらしい。
少なくとも、親しい友人のいない僕の耳に入るほどにはメジャーなものになっていた。
僕はまた紙切れを丸めて机の上に放った。
「最近は特に何も起こってないみたいだな。いや、そうそうあるものでもないのか・・・」
この教室には僕一人だけだから当たり前なのだけれど、ため息交じりに漏らした僕の言葉に反応するものは何もなかった。
静かだった教室は僕の独り言が消えた今、より一層静寂を極めた。
雨にも負けず風にも負けずそして静寂にも負けず僕は淡々とお願いを読み上げる。
発端が僕だと分かってからも、いや分かろうと分からまいと僕はこうしてお願いに目を通し解決するべく奮闘してしまうのだろう。
まぁ、これだけ聞いてしまうとボランティア精神盛り盛り、自己犠牲精神だくだくの高校生にしてすでに悟りの境地に至ってしまったような人間に思えてくるかもしれない。
しかし、マザー・テレサに代わってファザー・ワタヌキの時代が到来しないのは本当のところ僕が考えているのは僕の事だけだったからだ。
往々にしてそうだ。百パーセント純粋に人のために動ける人がいるだろうか。
大抵、人というものは口に出さないだけで心の奥底では見返りを求めているものだ。
いや、自己陶酔したナルシシスト野郎という場合もあるか。
残念ながら僕は体裁を整えることができるほど人間はできていなかったが、自身が汚いということを自覚できるほどには人間を理解していた。
しかし、欲しい物というやつは求めれば求めるほど手に入りにくいものらしい。
僕が探しているのは言ってしまえば複雑怪奇な、オカルティックな事案に繋がるものなのだが、実際はというと・・・
田原先輩と両想いにしてください 山田
便秘が治りますように 保坂
僕はそれらを一つに丸めて机の上に放った。
まぁ、現実というのは得てしてこんなものらしい。
あいにくと僕は恋愛成就の神様でもなければ、便秘を司る妖精などでもない。
山田は神社、保坂は病院に行くべきだろう。
・・・まぁ、二人とも顔すら分からないのだけれど。
僕は再び作業に戻った。
慣れた手つき、いや目つきで未読の紙に目を通していく。
似たり寄ったりな内容。
先ほどと同様に事件性のないお願いが書かれたいくつかの紙を丸めて放る。
そんな中だった。
とある一枚のお願いに目が留まったのは。
たすけて 秋冬
それだけだ。
それだけが書かれていた。
ただ僕が目を留めた理由は書かれていない方にあった。
消し跡だ。
何度も何度も何度も何度も書き直したような消し跡。
その汚れた紙の真ん中に、紙とは対照的に綺麗な字で”たすけて”とだけ書かれていたのだ。
とはいえ・・・。
たすけてたって、これじゃなんのことやらさっぱりだ。
神様ならその辺の事情をも察してくれるとでも思っているのだろうか?
しかし、残念ながらその神様とやらの正体はーー自分で言うのもなんだが、特に取り柄もない冴えないただの高校生なのである。
事情はおろか、叶えることができるかどうかさえわからない。
それにしても書き直した跡か。
僕はまじまじと紙を見つめる。
探偵ものに精通していないとはいえ僕でも推理ーーというのは少し大仰だが推測くらいはできる。
それが意味するものはおそらく葛藤。
迷い迷った挙句こんな突飛もない噂に、それこそ藁にも縋る思いだった・・・のかもしれない。
もちろんただのいたずらという可能性もある。
過去にこういったものに時間や労力を注ぎ、結果無駄に終わってしまったーーなんてことは一度や二度ではない。
僕は少し迷った挙句、気にしないように努めることにした。
いくら暇だとはいえこんなものまでいちいち拾っていてはキリがない。
僕は紙の束を机に突っ込んで教室を後にした。
だが、努めている時点で、意識している時点で結局僕は無意識のうちに気にしてしまっていたのだ。