猫舌屋あやし目録
これは作者のサイト『飛空図書館』に掲載されているのと同じものです。
長閑で呑気な住宅街の中に、その店は突如としてあったりする。
それは都心と呼ばれる繁華街から電車一本で着ける、まぁ一応そこも都内には分類されているけれども都会と言うよりはもうちょっと田舎臭い町の一画。
どことなく昭和初期の馨りを漂わせている(けれど実際には単に古くてボロいだけだったりもする)年季の入った木造立ての、風呂屋だか駄菓子屋だか雑貨屋だか良く分からない古風な店構え。
たぶん一見してこの店がどんな商いをしているのか、判別できる人間はそうはいないだろう。
何せ怪しげなことこの上ないこの店の店頭には、同じく怪しげな本やら服やら薬やらが雑然と並べられている。
そのうえお役所に届けられている登記上ではなんとなく古書店となってはいるものの、肝心の店主自身からしてこの店が果たして何屋なのかを失念しかけている節がある。
有体に言ってしまえば『猫舌屋』とは、そんな摩訶不思議な店なのである。
風薫る五月と言う言葉もあるが、この国ニッポンでは今の季節がもっとも心地よく過ごしやすい気候であると言われている。実際日向にいれば汗ばむほどの陽気だが、カラリと乾いた風が体感温度をちょうど良い具合に下げていた。
こんなに天気がよいとなると意味もなくふらりと外に出たくなると言うのが、いわゆる人間の性というやつだろう。
例えばここ、猫舌屋の店の前にも、軒先に並べられた(と言うか置き捨てられた)木箱にだらりと座り、ぼーっと煙管を吹かしている男がいる。
ひょろりと縦に長い棒っ切れのような体格。それほど年を食っているようには見えないけれど、どこか寝とぼけたような表情がご隠居を思わせる老成した雰囲気を醸し出している。
もっとも、それは顔だけに限ればの話である。
なにしろこの男、格好が飛びぬけて胡散臭い。
洋装が大勢の占めるこのご時勢に黒の着流し。しかもそれだけならまだしも足元はごつい黒ブーツで固められ、頭は真っ赤に染めあげられている。
何ともちぐはぐと言うか、奇妙奇天烈珍妙珍奇なことこの上ない。
道を歩けば半径三メートルは人が近付かないだろう装いだが、しかし意外とこれで近所のおばちゃんズ、子どもたちの間では見た目はアレだが気のいい青年として親しまれたりしているから世の中不思議だ。
そしてついでに付け加えるならば、彼こそがこの店『猫舌屋』の紛れもない店主だったりすることも――意外でも何でもないかもしれない。なにせ両方共にここまで怪しければ、ミスマッチも予定調和だ。
恐らくはうららかな初夏の陽気に誘われたのだろう。店主は朝からずっと店先でぼんやりと煙管をふかしていた。
その様子は、傍目からは店番だか日向ぼっこだかシェスタだかいっこうに判断つかない。当然、俗に言う商売っ気などというものもまったくもって見受けられない。
店主がこうなのは、まぁ言ってしまえばいつものことで、肝心要の彼が毎度この調子ではいつか店が潰れてしまう日もそう遠くないだろうと推測される。
文字通り、おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。――彼を見て驕っていると思う人間は皆無だとしても。
しかし実際は不思議なことにどれだけ店主が怠惰に振舞おうと、この店から客足が途絶えたことは一度もない。
なぜならこの店を訪ねる客は、その大半が何かしらの必然性を持ってやってくるから。それはまるでその運命の糸が、この店の軒にでも繋がってでもいるように――。
この日もまた、柔らかな日差しを浴びてうつらうつらと半開きの目をぼんやりと宙にさまよわせていた店主の前を何かが遮った。
「ねぇ、猫舌屋というのはここの事かしら」
彼はおもむろに顔をあげる。
目の前に立ち塞がっていたのは、サングラスをかけた一人の女性。すらりと均整の取れた体格は立ち振る舞いからしてどこか一般人とは違う雰囲気を漂わせている。
「はぁ……お客さんですね」
彼はすっと目を細め、ひとつ大きなあくびを漏らした。そして伸びをするついでのように立ち上がる。それは屋号が示すとおり、まるで大きな猫を思わせる仕種である。
「まぁ、こんなところで話をするのもなんなので中へどうぞ」
意外に俊敏な動作でがらりと横開きのガラス戸を開くと、彼は何食わぬ顔で本日最初の客を店の中へ招きいれるのだった。
薄暗いと思えた店内は飽くまで外と比べればのもので、いったん中に入ってしまえばさして気にならないぐらい充分な照明がついていた。
もっともその所為でクリスタル製の頭蓋骨やら、米粒写経キットやらよく分からない品揃えまでつぶさに目のあたりにする羽目になるのだからそれも良し悪しと言ったところか。
そんな無秩序に商品が並べ立てられた棚の抜け、店の奥に足を伸ばすとそこには一脚のテーブルがあった。たぶんここがこの店の商談用スペースなのだろう。店内の様子にわずかに躊躇っていた女性は意を決したようにそこに腰を降ろした。
「まぁ、粗茶ですが」
からん、という涼しげな音に女性が顔をあげると若い店主が盆に飲み物を載せてやってきた。ロッカーやビジュアル系もかくやというトリッキーな格好に反して、客あしらいは意外とまめまめしい。氷の入った緑がかった液体はたぶんアイスグリーンティか何かだろう。
「あら、ありがとう」
卒ない態度でグラスを受け取り、女性は外したサングラスをテーブルの上にこつんと置く。
今日はかなりの上天気だ。ここに来るまでの間にずいぶん汗をかき、咽喉も渇いていた。だから何の気なしにお茶を含んだのだが、その途端、彼女は唖然と目を見開く羽目になった。
「なにこれ、美味しい!」
口に入れた瞬間、ミントにも似た清涼感がさっと舌の上に広がった。苦味とほのかな甘みがすっきりとした後味に華を添える。これはどうもただのグリーンティでなどではない。もしかするとハーブティの一種なのかもしれないが、どちらにしてもこれまで口にしたことがないような味だ。
「とても美味しいお茶だわ。ねぇ、これあなたが淹れたの?」
思わず本気で問い質すと、店主は首を横に振った。
「いいえ、うちには居候が一人おりましてね。今は折り悪く家を空けているのですが、そいつが出掛けに淹れていったお茶なんですよ」
彼は肩をすくめて薄く笑う。
「見ての通り、僕はそうした卓越したセンスと技術が必要な作業には向いていない」
とぼけた言葉は思わず彼女の笑いを誘うが、それに対する反対の意見は結局お世辞にも最後まででてこなかった。
店主は彼女の向かいの席に腰を降ろし、やたらゆったりとして見える動作で自分自身を指差した。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。僕はここ猫舌屋の店主、常居ツグト」
「ツネイ?」
「常に居る、と書いて常居。まぁよく仕入れや何かで店を空けることが多いから、知り合いからは稀居にでも変えろとよくからかわれているけれど」
疲れ果てた老人のような口調で呟く彼に、彼女はくすくすと笑う。
「ずいぶん愉快なお知り合いが多いみたいね。やっぱりお人柄の所為なのかしら」
「それは暗に『類は友を呼ぶ』と言いたいのかな。生憎ですが僕はめっきりマトモな人間ですよ」
彼はやれやれとため息をつき、彼女はまたおかしそうに笑った。そしてそれからはたと気づく。
「いやだわ。そう言えば私のほうはまだ名乗ってなかったじゃない。私は――、」
「ああ、自己紹介は結構です。存じてますので、國立恵理加さん」
何気ない店主のその言葉に、彼女はぽかんと目を見開いた。アーモンド形の大きな瞳がぱちんと音をたてて瞬く。
「……あら、驚いた。失礼ですけど大衆娯楽にはまるで興味がない方だとばかり思ってましたわ。それともその……噂に聞く不思議な力で名前を知ったの?」
「違いますって。せっかくの文明の利器だ。あれば見るぐらいはしてますよ」
店主は肩をすくめて店のさらに奥にある従業員の休憩用らしきスペースを指差す。わずかに開いたガラス戸の向こう、畳敷きの狭いスペースには昔懐かしいダイヤル式チャンネルのテレビが直に床に置かれていた。よもや白黒ではないだろうと信じたい。
「それにそんな眉唾な噂なんて信じちゃいけませんよ。僕は芸能界にはたいして詳しくは無いけれど、実力派の女優の名ぐらいは知っています」
すると女性は途端に人形のように整った顔に、にっこりと笑みを浮かべて見せた。
「そうね。むしろそっちの方が私にとっては有り難いわ。私はまだ世間ではそれほど名が知られて無いと思ってたけど、考えを改める必要がありそう」
作り物のように綺麗なそれは、ドラマの中でも良く見せる彼女の十八番の表情であった。
國立恵理加――彼女はいわゆる役者、女優と呼び称される類いの人間だ。
背が高くスレンダーな体躯はスタイルも良く、顔立ちは品よく整っている。これでそれなりの演技力までも兼ね揃えているのだから、一躍お茶の間の人気者になってもおかしくないのだが、惜しむらく今それは実現していない。
世間一般での彼女の評価は、実力はありつつもどこか地味な女優というものであった。
ようするに彼女は一流と呼び称されるには、残念ながらそれに必要なインパクト――人々に訴えるなにがしかのものが欠けてしまっているのだった。
器用貧乏と言う言葉もあるが、なんでも卒なくこなしてしまう彼女のような人間の方が往々にして世間では損をするものだ。むしろそれならばいっそ途方もないファニー・フェースだったり、滑稽なくらい演技が大根だったりしたほうがまだ人々の記憶には残りやすかっただろう。
もっとも、一度ならずもブラウン管に映されれば、それだけで普通の人間にとっては立派な芸能人だ。ツグトはどこか不思議そうに彼女にたずねた。
「しかし、そんな有名人さんが当店にどんな御用で。他でもないこの店にわざわざいらしたぐらいだ。そこらで用立てられるものがお入用ではないんでしょ」
「ええ、その通りよ」
彼女は真剣な様子でうなずく。
「私、――になる薬が欲しいの」
「………へ?」
ツグトはきょとんと瞬きをする。
何か非常におかしな言葉が聞こえた。まさかこの薔薇のような朱唇から聞こえるとは思えない、いや、むしろ是非とも聞き間違いであって欲しい思われる単語だ。
「いま貴女、なんとおっしゃいましたか?」
だから猫舌屋の店主、常居ツグトは信じられない思いでもう一度彼女に聞き返した。
しかし彼女の答えは一切変わらなかった。女優、國立恵理加は至極真っ直ぐな眼差しで、寸分の躊躇いもなく、はっきりと店主に申し出たのだ。
「私は、妖怪になりたいの」
ツグトは今度こそ呆けたように、ぽかんと口を開いた。
猫舌屋が建てられているこの近辺は一見何の変哲もない住宅街のように見えるが、実はまったく普通ではない。
かと言って、別にセレブが多く住んでいたり、景勝の地だったり、名の知れた特産品があるという訳ではない。いや、ある意味特産品と言えば特産品かも知れないが。
ここはいわば、幻想と現実が交じり合う、怪しい商売のメッカなのである。
知名度は新宿や渋谷などには遠く及ばないが、それでもこのあたりにそうした怪しい店舗が集っていることは知る人ぞ知る、特にその筋の人間には常識というぐらいには知れ渡っていることである。
戦後間もないあたりからこの近辺にはどういうわけか、陰陽師やら占い師やら妖怪退治屋やら宗教家やら、兎に角そういったいかにも怪しげな商売が競うように看板を掲げ始めた。
もちろん町の住人のほとんどはそんなものには縁もゆかりも無い善良な一般人であるし、中にはペテン師まがいの偽物も多く軒を連ねている。
それでも今のところはさしたる問題が起きるでもなく――幻想が現実を大きく侵食することもなく――穏やかに月日は流れている。
だがそうした店々の中でもこの『猫舌屋』だけは、その一線を画していた。
言ってしまえばここは、どこよりも限りなく幻想の淵に近い場所にある店なのである。
だからそんな猫舌屋には、まるで当たり前のように、常識破りの品がごろごろしているのだ。
彼女はかなり執心な調子で店主のツグトに問い掛けた。
「知り合いの芸人さんにね、この店で妖怪になる薬を買ったって聞いたの。あるんでしょ、そういう薬が」
「……まぁ、あるにはありますけどねぇ」
以前訪れたお笑い芸人を思い浮かべ、彼はあまり気乗りしない様子でうなずく。二人組のその客たちは「三日間妖怪になる薬」を嬉々として買っていった。はたして何に使ったのか、今頃になってふと心配になったりもする。
「しかし貴女みたいなお綺麗な人が、どうしてそんなモノを必要とするんですか?」
ツグトは彼女に尋ねた。
もっともそれは疑問としてはかなり当たり前なものだろう。
最近はテレビや漫画などのブームによっていたる分野で妖怪が認知されているけれど、妖怪なんぞ所詮イロモノでありゲテモノでありバケモノだ。彼女のような正統派の女優が妖怪になりたいなどとは普通言い出さない。
すると國立女史はどこか困ったような、コケティッシュな上目遣いでツグトを見た。
「あのね、できればこれはひとつの例え話だと思って聞いて欲しいのだけど……」
彼女はしばしためらった後にぽつりと呟きを漏らした。
「私には、どうしても振り向かせたい人がいるの」
ようするに彼女には現在、全てを捧げてもいいくらいに愛しい人がいるらしい。
だがその人はひどくつれない人間で、我が儘で飽きっぽく、その癖すぐに新しいものに飛びつかずにはおられない。
だから一方で、彼女のように印象に薄い人間は例え女優であろうとまったくもって興味を持ってもらえないのだ。
「そんな相手の目にとまるためには、なにかとんでもないインパクトを打ち立てて振り向かせる必要があると考えたの」
國立女史はそう真剣な調子でツグトに熱心に語る。
切々と思いを込めて語られたそんな事情に、しかしツグトが真っ先に漏らしたのは感心でも同情でもなく、呆れたような呟きだった。
「だからと言って妖怪になってやれだなんて、かなり短絡的な発想ですね」
インパクトはある。間違いなくある。
だが、その発想はあまりに普通では無い。突飛と言うか奇抜と言うか、とにかくまともな人間の考えることではないだろう。
「――それぐらいやらないと振り向かない相手なのよ」
ツグトの歯に衣着せぬ物言いに怒り出すかと思われた彼女は、しかしぐっとうつむき唇を噛んだ。もはや形振り構ってはいられないということなのか、確かにそれだけ彼女は必死の様子だった。
「でも、そうして相手を振り向かせた後は?」
國立女史のそうした訴えを気の無い様子で聞いていたツグトだったが、ふいに淡々とした静かな調子で彼女に尋ねた。國立女史はぎょっと顔をあげる。
「始めはどれほど奇抜に見えても、人はそれにも段々慣れてくる。もしもそのあとにまた飽きられてしまったら、貴女はいったいどうするつもりなんですか?」
真っ赤な前髪がわずかに掛かるその黒瞳は、まるでこの世の全てを見透かすように真っ直ぐで、あるいは現実には無い何かをじっと見据えているようでもある。
彼女は怯んだようにごくりと息を飲んだが、それでも怖気づいたりはしなかった。
彼女はツグトの視線を跳ね返すように、さらに強い眼差しでツグトを見据えて挑むように微笑んだのだ。
「一度でも振り向いてくれればそれで充分よ。そうしたらあとは、あたし自身の魅力で相手を捕まえて離さなければいいだけだもの」
よく言えば強気。悪く言ってしまえば傲慢。下手をすればストーカー行為の一歩手前である。
しかしその自信過剰こそが、浮き沈みの激しい芸能界で目立ちはせずとも生き残り続けた彼女の秘訣なのかもしれなかった。
「ねえ、こんな考えの客には売ってもらえないかしら?」
彼女はふいに心配そうにツグトを見る。しかし彼は首を振ると微かな笑みを唇に乗せた。
「いいえ、むしろその言葉を貴女から聞きたかった」
ツグトは席を立つとごそごそと棚の中を漁る。そして小箱をひとつ、取ってきて彼女の前に差し出した。
「たぶん、これが一番貴女にふさわしい薬でしょう」
猫舌屋の店主は言った。
「これはろくろっ首になる薬です」
「ろくろっ首、ですか……?」
國立女史は不思議そうな顔をした。
ろくろっ首は大抵のお化け屋敷などに行けば見つけられる化物だが、それでも河童や天狗などのメジャーどころの妖怪に比べれば知名度は低いように思われる。
ツグトは書棚の中からかなり古びた本を取り出してきて広げて見せた。
「これは『画図百鬼夜行』という本で、安永5年に鳥山石燕によって書かれた言わば化物の図鑑です」
彼はぺらぺらとその中の「飛頭蛮」と書かれたページを開く。そこには「ろくろっくび」と崩し字で仮名が振ってあり、しどけなく横たわった女性の首がまるで糸のように長く、ついたての後ろまで伸びていた。
「飛頭蛮とはもともとは中国の化物でして、首が抜けて飛んで行く、いわば抜け首と呼ばれる類いの妖怪でした。それが日本ではろくろっ首と同一視されたりもしましたが、本来は轆轤首と書かれるように轆轤で土を捏ねるように首を伸ばすことが特徴の化物です」
彼はどこか滑稽に腕で首が伸びるジェスチャーをする。
「ろくろっ首とは江戸時代に大いに流行った化物です。同じく首の伸びる化物といえば他に見越し入道などがおりますが、特徴としてはやはり女性型の化物であることにつきるでしょう」
「はぁ」
これまでの呆けたような態度から一転して突如活き活きとし始める店主に、國立女史は唖然としながら生返事をする。
「なぜろくろっ首が女性なのか。それはろくろっ首が女性特有の病の症状であると考えられていたからです」
「女性特有の病、ですか?」
「そうです。お医者様でも草津の湯でも治せない、――恋の病という奴です」
ツグトはにやりと笑ってみせる。
「貝原益軒の『女大学』という本をご存知ですか? そこには「婦人に三従の道あり」とあり、すなわち家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従うことが理想と説かれていました」
それは江戸時代における女性の目指すべき形を唄った本である。もっとも時代は変わるもので、今ではそれを時代遅れの悪しき風習として捉える人間のほうがずっと多いだろう。
「ようするに江戸時代、女性は特に不自由でどこに行くこともできず、会いたい人にも簡単に会うことができなかった。ならばせめて首だけになっても愛する人の元に行きたいといういじましい思いが、ろくろっ首という化物の正体なのです」
例えば当時の娯楽本には京都に行った旦那を待ちきれずろくろっ首になって会いに行こうとした女性の話もある。と、彼は再びごそごそと書棚を漁り始める。
「はぁ、あの、本はもう結構ですから」
自分は妖怪になりたいのであって、妖怪になった人間の本が欲しいわけではない。
段々テーブルの上に積み上げられていく本を前に、國立女史は思わずストップをかけた。
「……そうですか」
ツグトは残念そうに本の探索を諦める。
「良い本ですのに、『狂言末広栄』……」
未練がましく書棚に目をやり、ツグトは國立女史に言った。
「とにかく、ろくろっ首とはそうした人間の色恋にとても関わりが深い妖怪なんです」
「だから、この妖怪なんですか?」
「ええ、そうですよ」
どこか戸惑う様子を見せる彼女に、ツグトはあっさりとうなずいてみせる。
「愛に血道をあげ、その為に化物にまでなろうという貴女にとってこれほどまでに相応しい妖怪はいないでしょう」
それに、とツグトは言う。
「化物とは大概にして醜くおぞましいフォルムを持っているものですが、この化物は女性の愛情を具現化した、とても美しく愛おしい姿をしているとは思いませんか」
「だからこそ貴女に相応しいのだ」 と、まるで宝物をみつけた子供のように目をきらきらとさせている店主。
千歩譲れば口説いているようにも聞こえなくない台詞だが、その対象はあきらかに概念としての化物自体に向けられているのだからいかんともし難い。
美しい女優はどこか困ったように苦笑して、けれど何よりも大事そうにその薬を譲り受けたのだった。
その日は朝からかなり天気が良かった。
その上風も無く、天気予報でも夏日だ夏日だと五月蝿いぐらいに騒いでいる。もっともそんなことはわざわざ教えてもらうでもなく、一歩外に出ればすぐに知れることだろう。
そんな訳でここ『猫舌屋』でも、怠惰な店主、常居ツグトは店先での日向ぼっこを諦め、涼しい店内でシェスタを決め込んでいた。しかしうつらうつらと心地の良い惰眠をむさぼっていた彼は突然、遠慮なく肩を揺り起こされてぎょっと目を開けた。
「た・だ・い・ま、ツグト」
すねたような仏頂面で彼の顔を覗き込んでいるのは、小学6年生ぐらいの少年。ツグトとは違いいまどきの子供らしい洒落たファッションに身を包んでいるが、耳まで隠れる大きな帽子をずっぽりと被っていることだけが少々変わっている。
「あ、ああ。お帰り、ビト。五泊六日の移動教室は楽しかったかい」
「まぁ、それなりにね」
少年は小生意気な口調で肩をすくめて見せる。
ビトと呼ばれたこの少年は、ちょっとした事情からツグトが面倒を見ているこの猫舌屋の居候だ。
どちらかと言えばツグトが世話になっていると言ったほうが実情に沿っているような気がしないではないが、まぁ建前上はそうなっている。
ビトは勝手知ったる態度で休憩室のダイアル式テレビをつけ、台所に向かう。
この店の骨董品テレビは付けてもしばらく経たないと画面が写らない。画面が写っても、もうしばらく待たないと音が出ない。
怠惰の権化というようなツグトがそんな面倒なテレビを見る習慣を持つようになったのは、何を隠そうこの少年が率先してテレビをつけてくれるからに他ならない。さもなければこの先もテレビは単なる置物としての役割しか果たさなかっただろう。
「ビト、家に帰ったらまずうがいと手洗いだろ」
「そんなのツグトを起こす前にとっくにやったよ」
「そ、そうか……」
毅然と反論されて、ツグトは居心地が悪そうに身じろぎする。どうにもこの居候には立場が弱いのだ。
もっともそんなことまるっきり無視して、ビトは台所の冷蔵庫を確認する。
「あっ、作っておいたお茶が減ってる。もしかすると珍しくお客さんが来たの?」
「ああ、そうだよ」
「ていうか、これ僕が作った時のまんまじゃん。もしかして古くなって痛んだお茶をお客さんに出した訳じゃないでしょうね!?」
まれに来る客へのもてなしを自らの使命として疑わないビトが、威嚇するように歯を剥き出しにして店主を睨みつける。ツグトは慌てて首を振った。
「いや、お客さん来たのビトが出かけてすぐだったから!」
「ふぅん。それならまぁ、いいけどさ」
「許してしんぜよう」とでも言わんばかりの態度でうなずくビト。これではどっちが店主か分かったものではないが、二人の関係はこれでも今のところ良好なのである。
ビトは古くなったお茶を流しに捨てながら、ツグトに訊ねた。
「ねぇ、それでさ。いったい僕が居ない間にどんなお客さんが来たのさ」
「そうだねぇ」
ツグトは生返事をしながら、ふとテレビに視線を向けた。テレビはようやく本来の役割を思い出したようで、多少ノイズ交じりではあるがやっと番組を写し出し始めていた。
テレビの画面はちょうど何かの記者会見の最中だった。大仰な見出しのついた生放送のテロップが視聴者の目を否応無しに引き立てる。だがツグトがその画面に釘付けにされたのはけしてそれだけが理由ではなかった。
画面に続き消えていた音声が唐突によみがえり、くたびれたスピーカーを震わせる。
『――つまり國立さんは人間ではなかったという訳ですね』
『そうです。仕方が無いこととはいえ、結果として皆様を騙してしまっていた事を謝罪します』
パチパチとカメラのフラッシュが焚かれる。暴力的なほどのその光に曝されているのは、首の長い、文字通り蛇のごとく長い首をくねくねと動かしている一人の女性。
一種異様なその姿は、しかし妖しいまでに艶めかしく、美しい。
『まだ、女優として芸能活動を続けるつもりですか』
『はい。すでにドラマや映画のオファーが続々と来ておりますので、それに出させてもらうつもりで――、』
チャンネルを回せば、どの局でも女優・國立恵理加の信じられない正体について大きく報じられていた。
唖然としてその会見に見入っていたツグトは、しかしやがてくつくつと堪え切れないように笑い出した。
そして彼女が先日、この店にやってきた時の台詞を思い出す。
(私にはどうしても振り向かせたい人がいるの――、)
果たして國立女史はこの事件によって全国的に名を売ることになるだろう。
芸能界に現れた妖怪として、もはや知らぬ者などいなくなる。
知名度に恵まれていなかっただけで、彼女はもともと美貌と才能を合わせ持っていた女優だ。この先必然的に、仕事は格段に増えていくに違いない。
そして彼女は目論見どおり、自身の最愛の人の目を釘付けにする。
――すなわち、飽きっぽく、つれなく、目新しいものが大好きという『視聴者』の目を。
「ねぇ、どうしたのツグト。いきなり笑い出したりして」
まだ幼い居候が訝しげな目でツグトを窺う。
ツグトはくすくすとおかしそうに笑いながら、しかしはっきりとうなずいてみせた。
「この間来たお客さんはね、美しい女性だったよ。そして紛れもない天性の、女優だったのさ」
猫舌屋の店主は胸のうちで、一途でしたたかで最高の女優である彼女に心からのエールを送ったのだった。
【終】