02_特別顧問
「江田島市を、護る?」
なにがどうなっているのか把握できず、ただオウム返しのように同じ言葉を発言する。
顔を上げた彼女がこくりと静かに首肯するのをみて、更に困惑が強くなった。
ただの一等陸尉ふぜいに、仮にも一つの自治体の長が頭を下げるとは。見るものがみたら卒倒することも請け合いである。
「文字通りの意味ですよ、一尉。この江田島という自治体を、より積極的に外敵から護ってほしいのです。具体的には、江田島市に新設される自警団として」
少女の後ろから、三等海曹も援護射撃。眉間に皺を寄せてから首を捻った一尉は、フェリーの中できちんと見直したはずの茶色い封筒を懐から取り出す。
既に封を開けられたそれを見ると、確かに江田島市自警団への雇用契約について書いてあった。江田島市出身の自衛隊関係者全員に送付されたらしい封筒を再度懐にしまい直しながら、一尉は問いかける。
「それでは俺は……江田島市自警団の一員となるために呼び戻されたのですか?」
いいえ、違います。灘尾市長は首を横に振った。さらさらと髪の毛の先が肩くらいの高さで揺れ、ゆっくりと止まったところで、その薄桃色の唇から正しい答えを告げられる。
「正確には――江田島市自警団“特別顧問”として、自衛だけではない軍事全般に関与して貰いたいんです。更に他の自治体との国交に関して、それらを議題とした市議会における発言権が付与され……自警団の軍事行動に対する政治的助力を市に要請することも可能です。その場合は微量なりですが、市を上げて援助させていただきます」
まず仰天した。次いで耳を疑った。
待て待て、そこまでの権限を一尉風情に渡してもいいのか。何かの罠か間違いかを、頭の中で真剣に検討する。
だが、その方が作業効率が上がるのも事実だ。こんな心躍る申し出を無碍に蹴り飛ばすわけにはいかない
「軍事全般。といわれると?」
「そうですね……基本的には島外民の不審な行動や島嶼部の不法占拠等を見咎め次第、拘束してもらいます。その点、一部警察の役割を包含しているといえるでしょう」
ただし。市長はそう言うとさらに後ろへと繋げた。
「自警団の本来の役割は、他の自治体からの軍事行動を武力によって抑止することです。それに、近い将来起こり得るであろうと予測される武力侵攻に対する積極的な自衛を加えただけ。簡単でしょう?」
無論、簡単なわけが無い。それはつまり、“戦争”の火種を自ら手づかみで持っていくようなもので。
「市長、積極的自衛権は――――」
「自警団が活躍できるのは、有事の時だけです……もちろん、事が起こらないように全力を挙げて外交努力を続けていきますが、つい先日の府中町併合。そして大竹市の陥落……念にはを念を入れておいて、損になることはありません」
一尉の反論に対して毅然として言い切り、一言。
「以上のことから、河石一尉。貴方を江田島市自警団特別顧問に任命します。よろしいですか?」
有無を言わさず、しかし同意を求めるように、線のように細く尖った双眸にじっ……と睨みつけられる。なぜだか息が苦しくなるような錯覚を覚えた一尉は、こくりと一つ、首肯した。
それを見て、市長はよしっ。とはにかむ。小さくガッツポーズが見えた気がするのも見間違いではあるまい。
彼女は執務用の机の端から一枚の書類を取り出すと、万年筆で何事かを書き込んだ後、それを丁寧に折り畳んで一尉に手渡した。
「河石一尉には後日、正式に特別顧問に就任して貰います。それまでに自警団に関する所作を行う場合は、担当者にこの書類を提示ください」
用件は以上です。あくまでも事務的に会話の終了を宣言された瞬間、灘尾市長の後ろに控えていた三等海曹が動く。
彼の手によって出入口にあたる木造の扉が開かれて、そこから木村三曹と共に退出することを命じられる。
「それでは、これからはよろしくお願いします、特別顧問」
重苦しい焦げ茶色の木で造られた扉がびたりと閉まる瞬間に、そんな言葉が聞こえた気がした。
「一尉。後の予定はありません。本日はもう江田島の隊舎に戻るだけですが……バスが来るまでに少々時間があります」
天蓋の付いた小屋の中に一つベンチがあるだけの、バス停留所。黄色いペンキで何十にも重ね塗りを施されたとみられる二本の鉄のパイプは、指で擦ったらまとめて剥げ落ちてしまうほどに老朽化している。
「1706の次は1844……これは酷いな」
つい自衛隊の癖で読んでしまった、バスの時刻表。しかしこの一時間半以上という間隔はまだましな方で、最も酷いときにはおよそ4時間の空きがあったりするのが一目でわかった。なんと4段もの隙があるのだから。
なんとかしてバスが来るまでの時間を潰したいが、ただ単に缶コーヒーを買ってくる。とだけしか言わなければ、木村三曹が肩代わりして買いに行きかねない。これを如何するべきか。
「……俺は少し確認しておきたい箇所があるから、単独で行動させてくれ時刻の10分前にここにまた集合。ってことでどうだ」
そこで一尉は、ふと思い浮かんだ案を提案。三曹はそれを受諾して、「わかりました」の一言と共に市役所の目の前にある中規模スーパーの方向へと消えていった。
監視兼案内役の三曹が視界から消えたことで、一尉も、どこかで水の一本でも買って飲もう。と決断。曇り空とはいえ、少し湿気の多いように感じる空模様に、薄くではあるが汗が滲む。
市役所から少し歩いて数分の地点にある自販機で、冷たい缶のコーヒーを一本、購入した。おあつらえ向きに備え付けてあった木のベンチに座ってコーヒーの缶をごろごろと掌の中で回転させその冷たさを体感していると、そこに一人の来客が。
「やっと人心地がつきました……」
「…………っ、市長?」
おっと、これは奇遇ですね。一尉の存在に気がついた灘尾市長は、軽く頭を下げて会釈する。黒い髪が上下に揺れ動き、リクルートスーツの肩にぴしりぱしりと当たっている。
「河石一尉も飲み物を買いに来たんですか?」
「ええ」
そうですか。灘尾市長は一尉の目の前を通って自動販売機に対面すると、それをぎこちない動作で操作する。
自販機のボタンを押してた時に小さな電子音が鳴ると、びくりと腕が震えた。
直後、ガコンッと衝撃音。受け取り口に落下してきたのは、透明なペットボトルの中に入った、その向こう側の風景が澄んで見えるほど綺麗な水。
どこぞの山の天然水だと銘打ったその水は、例えその通りで無くても十分すぎるほどに美しく見えた。
「……ちょっと隣を失礼しますね」
簡単な断りを入れて、ちょこんとベンチの端に座る。丁度膝小僧が隠れるくらいの丈に調節されたスカートが、上着のスーツと黒いタイツと合わさって全体的によって地味な印象を抱かせる。
市長が購入した天然水のキャップを、少し苦労しながらも開けたのを確認してから、一尉はプルタブに掛けた指先に力を込める。
プシュッ、と軽快な音を立てて金属製のプルタブが開いた。その黒い水面の内から、少し甘い味の混じった香ばしい匂いが漂ってくる。
ぐいっと半ばラッパ飲みのように、天然水と銘打つ透明な液体を一気に口腔に流し込んだ市長は、ごくりごくりと喉をならして嚥下した。口元に付いた水滴を手の甲で擦り落としつつ、世間話程度の気軽さで一尉に訊ねた。
「河石一尉は、江田島の生まれでしたよね?」
そう問われて、彼は少し困ったように頭をポリポリと搔く。
「生まれはどうやらそうらしいのですが、育ちは関東の方でして。江田島出身という実感が湧かないのです」
「そうですか……道理で、江田島出身らしくないという報告が上がるわけです」
なるほど、木村三曹か。案内役付きとはやけに厚い待遇だと疑ってかかったとおりだった。一尉は心の中で少々ばかり舌打ち。その感情を極力顔に出さないようにしたためか、なんの疑いも違和感も持たずに少女は話を続ける。
「陸上自衛隊に入隊したあと、海外派遣ばかり……でしたよね?」
「そうですね。日本国最後の海外派遣の後、駐屯地で燻っていたところを雇用契約の誘いがあったわけです」
燻っていた? 笑いながら、しかし怪訝そうな声色で灘尾市長は尋ねる。一尉は缶コーヒーをぐいっと一杯口に流し込んでから、口を開いた。
「俺たちは自衛隊ですよ? 国を護るため、国家の手となり足となり精力的に働くはずが、帰ってきてみるとその脳髄から腐り落ちていたんです。ネムロ共和国の独立の時に何も出来なかった後悔は、今更ではどうすることもできません」
市長の持つ深淵を見通すような黒い瞳に、興味深げに凝視される。少し居心地の悪そうに唇を噛んで身じろぎをした一尉に、少女は頬袋にすこし水を含んで少しずつ飲み込んでから、告げた。
「やっぱり、私の見込み違いじゃ無くて良かったです。河石一尉」
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