00_プロローグ
-2023.03.25-
緑で青々と茂る山並みに、遠雷のような轟きがごろごろと嘶く。
ふと顔を上げると、のっぺりと平坦なように見える灰色の空の下を銀翼の鳳が飛んでいった。
――F/A-18D、岩国基地の戦闘機か。
先鋭的な機影を双眼鏡の奥に捉え、男は独りごちた。
陸上自衛隊の、ドットが細かい独特な迷彩柄をした被服に身を包み、黒く無機質に輝く小銃を肩から掛けたスリングで支えている。
ざわり。樹木が風でざわめいた。
生ぬるい空気が頬を掠めていく。その風に乗って、どんどんごろごろと大きな太鼓が鳴るように聞こえる砲声が、海を挟んでここ江田島まで聞こえる。
「…………大竹はまだ降伏しないのか」
遠く海の向こう側、広島湾の西縁に位置する大竹岩国コンビナートを巡る一連の抗争。小瀬川を境目に防衛ラインを敷いた大竹市に対して岩国基地の全天候型戦闘機が爆撃に向かったのだろうか。すると先ほどの砲撃は頼りない旧式火砲による対空砲火のなれの果てか。
男は薄く笑うと、双眼鏡から目を離した。
「……失礼、市長がお呼びです」
「解った」
手にした黒い双眼鏡と肩から掛けた小銃を、後ろから声を掛けた若者に手渡す。
男と同じ、しかし青い迷彩服を身につけ、戦闘帽と称される小さな円筒のような帽子を目深に被った彼は恭しくその二つを受け取ると、男の後ろについて歩き始めた。
「一尉、なぜ江田島へ?」
「こんなご時世だからって、郷土愛の一つも持っちゃいけないってのか?」
いえ、そんなことは。顔を困惑の色に曇らせた若者に、くくっと喉を鳴らして笑いかける。その顔は、何かを企てたあとの扇動政治家のようにも見えて。
「一尉が何を考えてこの島に来たのかは解りません。呉市の属州みたいなものであるこの島に、何を持ち込もうとしているのかも解りかねます。ただ――――」
「解ってる。この島を戦渦に巻き込むな、だろ?」
フェリーの中で何度も繰り返し繰り返し言われたことだしな。一尉と呼ばれた男は再び薄く喉を鳴らして厭らしく笑う。
「しかし、これで小瀬川の防衛ラインは壊滅状態か。廿日市は静観を貫いているとなると、大竹はもはや風前の灯火。――そう考えるとやはり岩国は強いな」
「それは……米軍の装備を一部奪取して運用していますから…………」
現在、瀬戸内海の中でたった1機だけとはいえ、あの瞬間火力に勝るものは無い。ましてや、マッハ2近くで飛行することも可能な第4世代ジェット戦闘機のうちの一つだ。生半可な地対空ミサイルでは回避されてしまうことは請け合い。掠ることすらもできないまま悠々と爆撃を敢行されてしまうだろう。
「あの野郎、いい機体だなぁ……墜として見せたいものだ」
「一尉にはあれを撃墜する策がおありで?」
「それは俺が逆に聞きたいさ三等海曹。なにか良い案はあるか?」
どす黒いアスファルトに舗装された登山道を下る。およそ3kgの銃を担がされた若い三等海曹は、日差しが厚い雲に遮られているにもかかわらず汗を額に浮かべながら、考えを巡らせた。
「とりあえず車載式の対空ミサイル……例えば|93式近距離地対空誘導弾が少なくとも3基。あとは歩兵に持たせた|91式携帯地対空誘導弾でカバーして…………大柿町の深江か水畑、小古江あたりに布陣するのはどうでしょうか。あそこなら岩国の方に向いた湾口ですから、侵攻に対して有効的に火力点の集中ができます」
ふむ。顎に手をやって何かを考える。じょりっと剃り残しの多い髭が人差し指をちくちくと刺すのがわかった。
「なかなかに面白い。相手が歩兵だったら、これで圧殺できただろうが……残念ながら航空機相手には少々役不足だ」
一尉は続ける。
「まず、そこまでの武装を買えない。これが大きい。次いで、相手は航空機だ。確かに視界が開けている湾口を狙う可能性が高いが、この島特有のいりくんだ山地にかかればレーダー波による捕捉は意味をなさなくなる」
まあ、そんな高価な対空レーダーなんざ無いがな。一人せせら笑い、もっと他の案を。と催促した。三等海曹は苦しみながらも、言葉を紡ぐ。
「呉市の護衛艦隊を運用できれば……」
「おいおい、敵さんの手を借りるってのか?」
その途端、むっと顔に皺が寄る。
「一尉、貴方は江田島市と呉市との間で軍事衝突が起こるとでも?」
「どうしたって未来のことは解らんさ。用心に越したことはないよ。……たとえ、呉市の庇護下で仮初めの自治を守られているだけとはいえ、な」
そう飄々とした態度を崩さずに、のらりくらりと躱してしまう一尉。
他の策は? と煽られて必死に考えるも出てこない。苦虫でもかみつぶしたかのような渋い顔をして、三等海曹は唸った。
「まあ、海自さんには専門外だったか」
そうだなぁ。男はぽつりと呟いてから、口を開いた。
「まあ、1番は穴蔵の中に火砲を隠して――平たく言えば真っ向から無視を決め込むことだろうが……俺なら、“破壊工作”を行うね」
「…………は?」
青く深い海のようなピクセルカモの迷彩に袖を通した若者は、豆鉄砲か何かでも喰らったハトのようにポカンと呆ける。
「何も全ての機体に爆薬を仕掛けるって話じゃない。現在、F/A-18Dは1機しかいないだろう? なら話は早いさ。内部にこちらの工作員を入り込ませる。それでドカンだ」
「ち、ちょっと待ってください。岩国市だって、戦闘機が切り札であることは解っています、何らかの対策をしてくるはずでは――」
「それが、ちょっと情勢が変わっているんだ」
登山道の中腹近くで、おもむろに足を止める。黒く艶の入った半長靴がアスファルトとの間に砂を挟んでざりと音を鳴らした。
「大竹市が陥落したとすると、次に岩国と当たるのは廿日市だ。廿日市と岩国は兵数的には同等。と、なると……」
黒い革手袋をした右の掌を拳銃のような形にして、ばん。と撃つそぶりをする。薄もやの向こうに黒煙の立ち上る大竹市の石油ターミナルへとその銃口は向けられていた。
「大竹市の難民――総人口がおおよそ25,000人か。そのうちの5%……1250人くらいの人員を流用して減った兵力の補填に当てるだろう。もっとも、信頼の置ける元大竹市民しかバイタルパートである岩国基地内に入れないつもりだろうが、例えば技術屋――即戦力になるような人材を登用する際に、絶対にほころびが出てくる。それに、例え信頼の置けるような輩だったとしても、それを調略してしまえば変わらんさ」
調略、内応、そして破壊工作。
言葉にしてしまえば易しいことだが、実際に行うとなると途方もない努力と難易度を強いられる。
そんな策を惜しげも無く披露していく者はただの夢想家だと謗られるのがオチだが――なぜかその男には、一尉にはなんともいえない気魄があるように見えた。
野心と言えばそれまでだが、大志とも言いがたい。どこか単純で、しかし複雑な心意気。
「……一尉。貴方は、貴方はどこと戦う気なのですか?」
銃のためか、蒸し暑い雲の下のためか、額に汗を浮かべた若者にそう問われ、クルリと踵を返して振り返る。
「――――まずは広島県とだ。ただ……男なら、宮島だけじゃなくて奈良の鹿まで追い回すべきだろう?」
そしてゆくゆくは、エゾシカすらも撃ってみたいものだ。
一尉は少年が悪巧みでもするかのように、にやっと頬を緩めた。
初めまして、魚反はまちと申します!
この度は地元ネタをふんだんに盛り込んでいくこの作品を読んでいただき、ありがとうございました!