ボクの名前を呼んで
いつか見たデータでは、自分の名前が好きな人は約七割。
当然十割計算なので、逆に嫌いな人は約三割という結果になっている。
「それ、小説を書くのに調べたヤツ?」
学生時代から使用していた作業場は、最早一人暮らし用の部屋に変わり、隣の部屋を更に買って、壁を打ち破ってしまった。
一人で暮らすには広く、一人でも作業をするには丁度いい部屋。
そんな部屋に二人で積み上げられた本に手を伸ばしては、好き勝手に開いていたら、そう聞かれた。
点けっ放しのテレビからは、今話題のキラキラネームについて話されている。
そのキラキラネームの話を聞いて、自分の名前が好きか嫌いかという話を出したのはボクだが。
それに反応したのはお兄さんだ。
「まぁ、そうでもあるし。そうでもない」
「へぇ……」
本を閉じたお兄さんがボクを見て、煙草吸っていい?と聞いてくる。
なるべく室内では吸って欲しくないが、仕方なく立ち上がりキッチンに置かれてある灰皿を取りに行く。
残念ながらボクは学生の頃から、煙草もお酒も手を付けたことがなく、それは成人してからも変わらない。
逆にお兄さんは学生の頃から、煙草もお酒も手を付けていたらしいので素行不良だ。
「お酒は節度を守ればいいと思うけど、煙草は止めた方が良いんじゃないっすかねぇ」
ゴトン、と音を立ててガラスで出来た灰皿をローテーブルの上に置く。
お兄さんはサンキュ、なんて言いながらポケットから煙草とジッポーを取り出す。
鈴蘭の彫られたジッポーはまだ健在らしい。
出会った頃から変わらない金髪も似合ってはいるが、黒も見てみたいと思う。
煙草をくわえながらジッポーを開けて火を付けるお兄さんを眺めながら、ボクもボクで読み掛けの本に栞を挟んだ。
お兄さんお兄さんなんて呼んではいるが、決してボクのお兄さんでもなければ、幼馴染みのお兄さんでもない。
普通に普通の赤の他人だ。
学生の頃にたまたま公園で会って、話すようになって、一度は会わなくなったが、偶然に偶然が重なっての再会。
あー、ベタベタ。
創作のことばかりが頭の中に詰まっているボクとしては、その再会は物語的に酷くベターな展開であり、こうして未だに会っては喋る関係もベターだ。
どこのドラマだよ、なんて思いながら揺れる白濁色の煙を眺めた。
「てか、俺、チビちゃんの名前知らんわ」
「うん。だってボクもお兄さんの名前知らんもん」
昔もこんな話をした。
ボクのことを名前で呼ぶ人は限られていて、学生の頃なんて、あだ名が広まり過ぎて本名を忘れられていたくらいだ。
そんなボクに付けられた、お兄さんしか呼ばないあだ名がチビちゃんなのだが。
出会った頃から、何度も話してはいたが、お互いに素性を明かすことはなかった。
警戒心があったのかどうかは微妙として、再会してからも名乗ることはなく、お互いにチビちゃん、お兄さんと呼び合う仲である。
「あー、さくちゃん、だっけ?」
軽く肩を揺らして視線を向ける。
目が合ったお兄さんは、煙を吐き出しながら、あだ名、と付け足した。
あぁ、はい、あだ名ですね。
適当に頷きながら、幼馴染みを含む過去の級友達が、ボクをそう呼んでいたことを思い出す。
いや、今でもそう呼ばれるけれど。
幼馴染み同士でも、真面目な話をしている時や、反射的にでもなければボクの本名は出て来ない。
「作ちゃんですど。このあだ名、苗字から来てるから……」
「え、凄い他人行儀感あんな」
「配慮だよ。配慮」
もう成人もして、学生から遠ざかった時間を過ごしている。
残念ながら高校卒業後に、とっととボクは小説を書く道に進んでいるため、大学進学専門学校進学、そんなことはしなかった。
今更名前で呼ばれることを嫌がるのも変かな。
いや、そもそも名前で呼ばれるのを嫌がっている時点で変だったのかも知れない。
名前から取ったあだ名だと、名前も聞かれそうだったから、苗字から取っただけだ。
後は、文芸部だった時に使っていたペンネーム。
「親しくもないのに名前呼びされるの嫌で、それを言ったら言ったで感じ悪いし。面倒だったんですよ」
溜息混じりに吐き出せば、へぇ、とこれまた興味なさそうな相槌が返ってくる。
そんな反応のお兄さんだって、ボクに本名教えてないし、教える気もないくせに、なんて思っているのは内緒だ。
お兄さんは色素の薄い茶色の瞳でボクを見ながら、灰皿に短くなった煙草を押し付ける。
その次の瞬間には、新しい煙草を取り出して火を付けるのだが。
この人の肺は、絶対に真っ黒になっているだろうな。
「んで、一番の理由は?」
にっこり、口元に笑みが乗せられる。
この人は人を良く見ていて、地雷を踏み抜くことすら恐れずに問い掛けてくることがある。
整った顔を楽しそうに歪ませているところは、本当に性格が捻じ曲がっていると感じるが。
「当ててやろうか?……普通にお前が、自分の名前が好きじゃないからだよ」
ふぅ、白濁色の煙が吐き出される薄い唇。
思い切りボクの顔面目掛けて吹き付けるから、手の平でその顔を押し返す。
当てられて当然ですよね、ボクの口調がちょっと怒っているように聞こえたらしいお兄さんは、肩を竦める。
最初に名前の好き嫌いに関する統計を話した上で、名前で呼ばせないんだからそうに決まってるじゃないですか、みたいなことを言えば、再度煙を吐きながら、そりゃそうだ、と笑った。
楽しそうに喉の奥を震わせる笑い声に、肩ががくりと落ちる。
「んで?本名は何てーの、チビちゃん」
「チビちゃん呼びなら知らなくたって良いじゃないですか」
「えぇー?」
不満そうに唇を尖らせるお兄さんだが、何故ボクよりも年上なのにそんなあざと可愛いを体現したようなことが出来るのか。
ある意味凄い、色々凄い。
そんなあざと可愛いお兄さんを無視して、栞を挟んだ本を開けば、玄関の扉が開く音。
幼馴染みの誰かだろう。
ガサガサとビニール袋の音がする。
ボクの名前を呼ぶので仕方なく腰を上げれば、お兄さんがへぇ、とまたしても興味なさそうな声を上げた。
何、振り向いたボクに見せるのは、子供のような悪戯な笑み。
思わず身構えたボクに対して、その男にしては薄い唇で、ボクの名前を紡ぐから、持っていた本の表紙をその整った顔目掛けて投げる。
投げた。
自分の名前に自信が無い。
だから好きになれない。
ただ、ボクの大切な誰かが、その唇で、その声で、ボクの名を紡ぐ時――どうしようもなく、ボクはボクの名前を愛おしく思う。