第五章 ロッカー爆破(無差別殺傷事件)
リーマンショック殺人事件(三 )
第五章 ロッカー爆破事件
1
事件の解明が進まないまま、月日のみ経過していた。
久美は、尾形惠一と久山俊彦のことが気になっていた。
捜査がどうなっているか聞いてみようと思ったが、牧山が言いそうなことが予測できた。
そんなことを知ってどうするつもりですか。
警察には守秘義務があるから、詳しいことは言えません。
牧山は、久美に刑事の真似事をさせるわけにはいかないと思っている。
久美は、牧山を敬遠して、竹添に聞いてみることにした。
大南署に電話を入れて、竹添の所在を訊くと、不在だと言う。
応対した警察官は、久美が何者か知っていたので、好意的で、向こうから竹添が署に帰って来る時間帯を教えてくれた。
久美は、その時間を待って、電話を入れた。
何度目かに、竹添が電話口に出た。
外の捜査から帰ってきたばかりのようだった。
久美が名乗ると、
「やあ、久しぶりですね! 覚えていてもらって、光栄です」
と、弾んだ声が返ってきた。
久美は、ほっとした。
久美は、竹添に問われるままに、あるいは、問わず語りに、大学に戻っていたこと、夏期休暇で帰省したばかりだということ、父親の伸吾のこと、など、当たり障りのない話をしながら、尾形恵一のことに話を持っていった。
久美が、尾形って人、今、何をしてるんでしょうね、と訊くと、竹添は、尾形は東京のTという派遣会社に登録していて、そこからの連絡を首を長くして待っているようです、と言った。
久美は、続けて、久山、って人は? と訊いた。
途端に、竹添は久美の意図を察したらしく、あは、はは、と笑って、捜査情報は、久美さんであっても、漏らせません、と釘を刺した。
ここで引き下がるわけにはいかなかった。
久美は、咄嗟に思いついて、
「・・・実は、これは・・・父のことなんですが、尾形、って人の連絡先が在社時と違っていて、連絡が取れなくなっている、本人も、元の派遣先から連絡がいかないと、困るはずだが、と言ってるんです。新しい連絡先がわかっていたら、教えていただけません?」
久美があっけらかんと言ったので、竹添は、この程度のことは構わないと思ったのか、
「尾形は、どういうわけか、ケータイの番号まで変えていて、会社に残っていた資料では、確かに、連絡がとれなくなっていましたね」
と言って、派遣会社の求職票に書き込んであったという新しいケータイの番号を教えてくれた。
久美は、母や姉のいなくなった家に帰省して、涙ぐむ日が増えていた。
姉を殺し、母まで轢死させる結果を招いた正体不明の人間が許せなかった。
事件の解明が遅々として進まぬ現状に、自分も捜査陣に加わり、一日も早く真相を解明し、はっきり決着をつけてしまいたい、そんな沸々とした思いが日増しに強くなっていた。
現実には、警察の捜査陣とは別に行動するしかない。
久美は、先ず、携帯の番号がわかった尾形惠一に接触してみようと思った。
かと言って、さすがに、一人では動けなかった。
T大の一年先輩で同じ文学部に在籍している松嶋潤一とは、夏期休暇に入ってからも、時々、メールの交換をしていた。
松嶋は、長身で、大柄だが、特に特徴のない平凡な容貌の持ち主だった。
一昨年の四月に大学に通うようになってから、教養課程の共通の選択科目になると、決まって久美の隣に座る男子学生がいた。
それが松嶋潤一だった。
他にも久美の関心を引こうとする男子学生がいたのだが、久美はそんな松嶋が気になった。
久美は第二外国語にフランス語を選択していたのだが、松嶋は、フランス語が得意で、わかりやすく手ほどきしてくれたことが何度もあった。未知の学習分野だったので、これは助かった。
それで、二年次以降の科目選択についても松嶋に相談してみる気になったのだが、客観的な情報や知識を交えて、的確なことを言った。それに、押しつけがましいところがなかった。
久美は、松嶋には、遠慮のない口がきけるようになっていた。
松嶋は久美が現在置かれている状況を知っていた。
久美は松嶋に相談してみることにした。
ケータイに出た松嶋は、「あ、久美さん!」と、弾んだ声を出した。
「一人で悩んでるんじゃないかと思って、心配してたんだ。電話するのは悪いような気がして・・・とにかく、元気な声だけでも聞けてうれしいよ」
「ごめんなさい。いろいろあって・・・。それで、松嶋君に、ちょっと相談したいことがあるんだけど・・・」
「当てにしてくれて、うれしいよ。休講期間が始まったけど、就活を始めてるんで、下宿に残ってる。ぼくにできることだったら、何でも協力するけど・・・お姉さんの事件のこと?」
松嶋は、最後の方は、声を潜めた。
「そうなの。捜査が進んでないようなので、私も動くことにしたの」
「えっ・・・! 動く、って・・・久美さんにできることが何かあるのかい? 危険じゃないの? 思い出させて悪いけど・・・殺人事件だよ」
久美はそれまでのだいたいの経緯を話して、尾形恵一のこと、なぜ尾形の身辺を探る必要があるのか、松嶋に話した。
「そうか。事情はわかったけど・・・でも、その尾形って人、事件に関係があるのかな。お父さんに直接何かしかけてきたというんなら、わからないこともないけど・・・」
「今のところ、捜査の手がかりがないのよ。このまま、何もしないでいるわけにはいかないわ」
「・・・その尾形、って人、お姉さんと面識があったの?」
「それもわからないのよ」
「うーん・・・どうやら、お姉さんには関係がなさそうな気がするんだけど・・・ところで、さっき、その人のケータイの番号がわかってるって言ったよね。ケータイに電話を入れてみたら? 少なくとも、どんな人間か、わかるんじゃないの」
「私も、そう思ったの。それで、電話だけじゃなくて、尾形って人に会って、直接、話を聞いてみようと思ってるの。そういうことになったら、万一、ってこともあるから、誰かに立ち会ってもらおうと思って・・・警察の人だと警戒するでしょう。松嶋君なら大丈夫だと思ったの、間延びした顔してるから・・・」
久美が、間延びした顔、などと言ったのは、松嶋に頼ることに多少ともテレがあったからだが、松嶋にしてみれば、そんなことはどうでもいいことだった。久しぶりに久美に会えると思って、胸が弾んでいる。
「そうだな。やってみる価値があるかもしれないね。ぼくは、いつでもいいよ。時間はいくらでも都合がつく。間延びした顔で悪いがね」
「あは、はは。ごめんなさい。よくよく見たら、味のある顔してるわよ。今さら言っても手遅れか。あは、はは・・・」
「あ、笑ってるな。そんな風に笑ったのを聞いたのは久しぶりだ。ぼくの心配してたことが一つ消えたよ。とにかく、久美さんの役に立つことだったら、何でもするし、どこへだって行くさ」
「ありがとう。悪いわね。じゃあ、また、連絡するわね。どういうことになるか、わからないけど・・・」
「うん、待ってるよ。ぼくは、いつでもいいからな」
2
久美は、尾形惠一の立場になって、話に乗ってくれそうだと思えるような口実をいろいろ考えた。
一応、これなら、と思えるような考えがまとまったので、尾形のケータイに電話を入れてみることにした。
自宅や自分のケータイの番号を尾形に知られたくなかった。
番号を非通知にしようとも考えたが、それでは、尾形が警戒するだろうと思ったので、外に出て、公衆電話を探すことにした。
いざ探してみると、なかなか見つからなかった。
結局、二十分近くも歩いて、やっと、県の出先機関の合同庁舎の近くに、公衆電話ボックスを見つけた。
尾形のケータイに電話を入れた。
コールサインが長く続いた。
久美が胸をどきどきさせながら、コールサインの音を聞いていると、やっと、相手の声が聞こえた。
「もしもし・・・だれ?」
「尾形さんですね?」
「そうだが、何か? ・・・あんた、だれ?」
「T派遣会社関係の者ですが、お仕事のことで・・・」
「えっ! 何か仕事があるんですか?」
尾形の言葉遣いが、急に、丁寧になった。
久美は、さすがに気が咎めて、T派遣会社の者とは言わずに、会社関係の者、と言ったのだが、尾形はそれには気づいていないようだった。
「まあ、そういうようなことですが、今、何かなさってますか?」
「・・・一応・・・仕事らしいことはやってますが・・・」
「どんな方面のお仕事ですか?」
「・・・あなた、ほんとに派遣会社の人なの? この前も電話があって、同じようなこと訊かれた。会社の人事担当の者だと名乗っていながら、現在住んでるところをしつっこく聞き出そうするもんだから、おかしいと思って、電話を切ったんです。不思議に思って、そいつの番号にリダイアルしてみたら、はい、刑事防犯課です、ってさ。あなたも警察関係の人じゃないの?」
久美は慌てた。こういうことを尾形が言うとは思っていなかったからだ。
「警察? ・・・いえ、そんな・・・ 」
と、一応、言っておいて、胸をどきどきさせながら、準備していた通りのことを言った。
「・・・求人してる会社の方で、現在、無職なのか、職に就いているのなら、どんなお仕事なのか、それに、すぐに仕事先を変えてもいいようなところなのか、知りたいと言ってるんです。それを判断材料にするつもりなんでしょう。尾形さんがシグマに派遣されていたことを評価しているようですわ」
尾形の反応が気になったが、尾形は、
「ふーん、なるほど・・・ま、いいでしょう。実は、おたくから連絡が来ないかと、ずっと待ってたんです」
と、言った。
尾形は、登録している派遣会社からということであれば、連絡してきた相手のことを詮索する気はないようだった。
久美は、自分が考えていた筋書き通りに、話が進められそうだと思った。
「そうだろうと思っておりましたが、ご承知の通りの不況で・・・。今回のようなお話は、そう、めったにはございません。現在の状況をお聞きするのは、一種の信用調査のようなもので・・・そうご理解いただけませんか」
「この時期にしては、好条件の珍しい話だというわけですね」
「そう思っていただいていいでしょうね。月収はあなたのご希望に近くて、あなたの電気関係の知識と今までのお仕事の経験が生かせそうなところです」
「ほんと? ほんとの話だったら、ありがたいな。今の仕事は全くの専門外だし、まともな仕事でもないから、いつ辞めてもいいんです」
「電話では何ですから、直接、お会いして、お話を聞かせてくださいません? このご時世ですから、急いだ方がいいと思います。場合によっては、その足で、すぐ、その会社へ行って、面接をお願いしようと思ってるんです」
「えっ、面接をしてくれるんですか!」
尾形の声が弾んだ。
「よければ、ご異存がなければ、という意味ですが、その会社の近くでお会いして、ご案内しますわ。それまでに、こちらの方で、手配しておくことにいたします」
そんな会社があるとは思えなかったが、久美は一生懸命だった。
後ろめたい思いが久美の頭をかすめなかったわけではない。
尾形が話に乗ってきた場合は、どこかの時点で、事情を正直に話して、謝ればいい。その時点とは、尾形が事件に関わりがないとわかった時だ。
「いつ、どこへ行けばいいの?」
果たして、尾形は話に乗ってきた。
「今、どちらにお住まいですか?」
「・・・新宿で、一人暮らしです。組・・・勤め先の事務所で寝泊まりしてます」
組、と聞いて久美はドキッとした。
しかし、一応、久美が想定していた通りの展開になってきた。
久美は、冷静になって、言った。
「あら、ちょうどよかったわ。都内にお住まいですね。・・・会社の所在地は目黒です。派遣会社は葛飾区の千葉寄りですから、わざわざ、会社までおいでいただかなくて結構です。私の方としましては・・・そうですね、渋谷が都合がいいのですが・・・新宿からも近いし、目黒は、山手線に乗れば、目と鼻の先ですからね。話が決まれば、すぐ会社にご案内できますわ。井の頭線の渋谷駅の近くのどこかでお会いしましょうか?」
「・・・いいでしょう。何月何日で、時間は何時ごろか、それに、場所も、もっとはっきり言ってくれないと困るな」
「向こうの会社とも打ち合わせて、改めて、ご連絡をさしあげますわ」
「・・・T派遣会社の人にしては、言葉の使い方がいつもとちょっと違うような気がするんだけど・・・その目黒の会社ってのは、何という会社なの?」
久美は、ドキッとしたが、冷静さを装った。
「・・・それは向こうにご了解をいただいてからでないと・・・当社を通さずに、直接いらっしゃっても、会ってはくれないと思いますよ」
「ま、いいでしょう。こっちもお宅に見放されたら困るからな。直接会って話して、こっちの事情もわかっておいてもらいたいし・・・とにかく、はっきり決まったら、連絡してよ」
「承知しました。それでは・・・一両日中には、また、ご連絡いたします」
「・・・あ、ちょっと待って。あなたの名前を聞いてなかったな」
「・・・失礼しました・・・ソノ・・・ソノヤマ、と申します」
送受器を握る手が汗ばんでいた。
後ろめたい思いが消えない。
久美は自宅に帰ると、松嶋のケータイに電話を入れた。
「尾形って人、会ってくれそうだわ」
「へえー、騙し方が上手なんだね」
「まあ! 人聞きの悪いこと言わないでよ。必死だったのよ」
「あは、はは・・・。それで、どういうことになったの?」
「井の頭線の渋谷駅の近くで会うことになったの。下宿の近くで、松嶋君も都合がいいんじゃない?」
「そこまで、騙したの?」
「うーん、また、そんなこと言う。そうでなくても、気にしてるところなのに・・・。あは、はは。ま、いっか。稀代の詐欺師ってところね。それで、松嶋君は、いつが都合がいい?」
「ぼくは、いつでもいいよ」
「・・・じゃあ・・・明後日の午前十時、ってのは、どう? 土曜日だけど・・・」
「いいよ。場所は?」
「どこがいい?」
「・・・駅の近くに軽食喫茶みたいなところがあったよね。中央口を東急デパート側に出て、右の横断歩道を渡った先だけど、駅側から見ても、目立ってる・・・」
「あー、『なぎさ』なら一緒に入ったことがあったわね」
「あそこは、どう?」
「・・・そうね。場所がわかりやすいし、あの看板なら目につくから、いいかもね。向こうにも、そう連絡することにするわ・・・私たちは、用心して、早いようだけど、九時頃には行っておいた方がいいかもしれないわね。打ち合わせをしておきたいし・・・『なぎさ』は、たしか、九時でも大丈夫だったような気がするんだけど・・・」
「九時に開店してなくても、十時までには開店してるはずだから、大丈夫だよ。それに、打ち合わせは外でもできる。じゃあ、九時ごろ、井の頭線の渋谷駅中央口から東急デパート側に出てすぐのところで待ってるよ」
久美は、翌日の午後、東京・文京区の学生マンションに戻った。
途中、駅構内の公衆電話コーナーのボックスの一つに入って、尾形のケータイに電話を入れた。尾形に、公衆電話だった、と言われそうだと思ったが、その時は、その時だ、と居直った気持ちになっていた。
尾形は、久美の電話を、 最初の時のようには、疑っていないようだった。
明日の午前十時に、井の頭線渋谷駅の中央口を東急デパート側に出てすぐの、右の横断歩道を渡った先の軽食喫茶『なぎさ』で待っている、と言うと、尾形は、中央口を出ると看板が見えるか、と聞いただけで、異存はなかった。
久美に、目印はどうするか、と聞かれて、ケガをしてるわけではないが、左手に包帯を巻いて来る、と言った。
3
久美が、九時を少し過ぎた頃、井の頭線渋谷駅の中央口から東急デパート側に出ると、松嶋は先に来ていた。
人通りの多い中にいても、長身の松嶋は目立つ。
久美が近づくと、松嶋は面映ゆそうな顔をして、久美を見た。
派遣会社の社員らしい服装をしないといけないと思っていた久美は、入学式以来着たことのなかった濃紺のスカートを着ている。日中は気温が三十度以上になる。さすがに上着を着て行く気にはなれなかった。
清楚な純白の半袖シャツを着ているので、意外に肉付きのいい白い腕が夏の日に曝されていて、胸の隆起が一段と目立った。
松嶋は、いつもの白のTシャツに洗いざらしの薄青のジーパン姿だ。
「あら、ごめんなさい。だいぶ待ったんじゃない?」
「そうでもないさ。でも、よく眠れなくて、今朝は、早く目を覚ましちまったよ」
「悪かったわね。尾形って人に会うのが恐かったんじゃない?」
「それもあったかもしれない。・・・正直なこと言うと、八時半ごろ、ここに来て、うろうろしてた」
「ごめんなさいね。そんなに気を遣つか》わせちゃって」
「いや、じっとしていられなかっただけだよ。久しぶりに久美さんに会えると思って・・・」
「あは、はは。うれしいこと言ってくれるじゃない。・・・でも、松嶋君にしては、ちょっと、油断したみたいね」
「えっ! ・・・どういうこと?」
「悪いけど、その恰好じゃ、どう見ても派遣会社の社員には見えないわよ」
「そうか、そこまでは考えなかったな・・・リクルートスーツに着替えて来ようか。まだ、間に合う時間だよ」
「・・・そうね・・・でも、そのままで、いいわ。私が一人で会うことにする。松嶋君は、近くのテーブルにいて、それとなく見ていてくれればいいわ」
「・・・そうだな。久美さんだけの方が、相手も安心するから、話を聞き出しやすいかもしれないね」
『なぎさ』は、十四階建てビルの二階フロアにあって、繁華な通りに面している。雑多に看板が並んでいる中で、ここの看板はよく目についた。
若者に人気のある店だった。
既に、開店していた。
落ち着いた雰囲気の店内には、カウンター席の他に、テーブル席がいくつもある。テーブル席には、適度な間隔を置いて、趣味のいい衝立があって、居心地のいい空間を作っていた。
若者三人が座っている席、女子学生らしい二人連れが座っている席、それ以外にも客がいたが、まだ、空席が目についた。
久美と松嶋は、他の客たちとは離れたテーブルを選んで、駅の中央口が見渡せる窓際に座った。
コーヒーを二つ注文した。
松嶋が、どうして尾形を呼び出すことができたの、と訊いた。
久美が尾形との電話のやり取りを話し始めると、松嶋は、目黒の会社なんて、よくそんなことを考えついたな、とか、尾形の専門のことを頭に入れて話をしたのがよかったのかな、などと言ったりしながら、聞いていた。
途中で、大南署からも尾形に電話があったらしい、と聞いて、松嶋は、警察も当然尾形を追ってるんだよね、と、安心と不安が入り交じったような顔をした。久美は、自分の知ってる範囲内で、捜査の現状や署長や牧山や竹添のことにも触れざるを得なくなった。
松嶋が興味津々《きょうみしんしん》という顔で聞いていて、質問を交えるので、あっという間に、時間が経ってしまった。尾形が現れた後のことに話題を移そうとした時には、十時まで五、六分しか残っていない時間になっていた。
もう、尾形が現れるのを見張っているしかないわね、と久美に言われて、松嶋は慌てて、駅前の人混みに目を向けた。視線を移していると、横断歩道を渡る人の流れの中に、左腕に白い包帯を巻いた男がいた。包帯が目立つようにと思ったのか、左肘の下に幾重にも巻いている様子だ。
久美も、目敏く、その男を見つけた。
「来たわよ」
「わかってる・・・あの男だな。・・・ちゃんとした身なりをしてて、体もそう大きい方じゃないな。あのくらいの男なら、何かあっても、久美さんを守ってやれそうだ」
「そんなこといいから、早くどこかに隠れなさいよ」
「じゃあ、紅茶とサンドウィッチを改めて注文して、ぼくは、三つ、四つ、離れたテーブルにいることにするよ」
松嶋は、自分のコーヒーカップを受け皿ごと持って、立ち上がると、そのまま歩いて、三つ先のテーブルにコーヒーカップを置いた。
久美が座っているところから見ると右斜め前で、久美の顔が見える位置に座った。その先には、女子学生らしい二人連れが座っているので、そこまで離れるのが限界だった。
『なぎさ』の入り口は他のフロアへの入り口と間違いやすいので、それで手間取ったのか、十時を四,五分も過ぎた頃、男が店内に入って来た。
待ちかねていた久美は、すぐに立ち上がった。
松嶋が座っているテーブルの脇の通路を故意に避けて、男に近づきながら、声をかけた。
「尾形、さん、ですか?」
「そう・・・あなたが・・・T派遣会社の・・・・ソノヤマ、さん?」
尾形は、驚いたような顔をして、久美を見ている。
アゴが張っているが、比較的整った顔立ちをしている。やや茶色がかった髪が長めで、襟足が隠れるほどだ。クリーニングしたばかりらしい白の半袖シャツを着て、水玉模様の気の利いたネクタイをしている。白に近い薄鼠色のズボンにもしっかり折り目が通っていて、一見して、普通の会社員に見えた。
尾形は、久美の後についてきて、久美が素振りで示した椅子に座りながら、久美の顔を見つめている。
座ったところは、先ほどまで松嶋が座っていた椅子だ。
暑い外気の中を急いで歩いていたせいか、尾形の額と鼻の頭のあたりに玉のような汗が浮いている。
久美は、テーブルの上の自分用のおしぼりを手に取って、差し出して、
「外は暑かったでしょう? どうぞ、お使いください」
と、言った。
尾形は、一瞬、戸惑ったような顔をしたが、未使用のおしぼりなので、躊躇う様子もなく、それをゆっくり広げて、額や鼻の汗を拭いた。
おしぼりを二つ折りに畳んで、テーブルの上に戻しながら、
「あなたのような人は、T社で見たことがなかったな」
と、久美が想定していなかったことを言った。
久美は面喰らったが、
「・・・外回りが多いものですから」
と、咄嗟に言っておいて、気まずい雰囲気になる前に、
「コーヒー、お飲みになりません?」
と、訊いた。
尾形が久美の顔を見つめたまま頷いたので、尾形の分のコーヒーを注文してやった。
「あなたのようなひとが外回りしてたら、T社への求人が多いでしょうね」
「いえ、この不況で、なかなか求人を出してもらえませんのよ」
「でも、その目黒の会社ってのがあなたのところに求人票を出したのもわかるような気がしますよ」
本音なのか、それとも、お世辞? 想定外でも、受け答えでボロは出すわけにはいかない。
「・・・それは、あなたの求職票の記載事項や職歴を見た上で判断したんだと思いますわ」
「実は、ここに来るまで、あなたの電話の内容を信じていなかった。あなたからかかってきた電話は、公衆電話で、東京のエリアの局番じゃなかった。警察からの電話と同じ大南市の局番だった。二回目は東京の局番だったが、リダイアルしてみたら、誰も出なかった。何回やっても同じだった。つまり、これも公衆電話だった、ということになるんですがね」
久美はドキッとした。
これも想定外だった。
「・・・出先からの連絡だったんですよ・・・シグマの大南支社やその下請けの会社にもよく出かけてるんです・・・私の担当区域は、関東から東海方面と広いんです。ケータイを使えない場所にいたりします」
久美は、咄嗟に出まかせを言ったが、顔が赤くなった。
やっぱり詐欺師にはなれそうもないな、と思った。
尾形は、疑わしそうな顔をして、そういう久美をしばらく見ていた。
「・・・今のシグマが派遣会社に求人なんかするはずはないんじゃありませんか・・・ま、いいでしょう。若い女性の声で、声も優しそうだったんで、騙されたふりをして、会ってみようと思ったんです。何が目的なのかも知りたかったしな。あなたに誰か男の連れでもいたら、すぐに出るつもりでいたんだけど・・・あなた、ひとりなの?」
尾形は、そう言って、あたりを見回した。
椅子に半分だけ腰掛けている。
久美は、また、ドキッとした。
三つ離れたテーブルに座っている松嶋は、緊張した顔をしていたが、あわてて知らんふりをして、サンドウィッチをほおばり始めた。松嶋は久美が見える場所に座っているので、尾形の後方にあたり、衝立があって、尾形の目には入らない。
「もちろん、私だけですよ。何を心配なさってるんですか」
「いや、別に・・・ところで、その求人ってのは本当なんですか?」
尾形の分のコーヒーが来た。
尾形は、それがテーブルに置かれるのを見てから、やっと座り直した。
尾形がコーヒーカップに口をつけるのを見ながら、久美が言った。
「現在のお仕事のことをお聞きしてからでないと、はい、とも、いいえ、とも、お答えできませんわ」
尾形は、コーヒーを一口啜っておいて、すぐにテーブルに戻した。
久美のことばに機嫌を悪くしたようだ。
「それはないでしょう。この求人が本当かどうか聞いてるだけですよ」
久美は慌てた。尾形を呼び出した理由と、明らかに、矛盾していた。それでなくても、尾形は久美のことを疑っている。
「・・・本当でなければ、尾形さんに、連絡などいたしませんよ。先日も申し上げましたように、一種の信用調査のようなものだとご理解いただけると思ってるんですけど・・・」
久美は、咄嗟にそう言って、胸をどきどきさせながら、尾形の反応を見た。 ほとんど、自信を失いかけていた。
尾形は久美を上目遣いに見て、また、コーヒーカップに手を伸ばした。
一口啜っておいて、カップを手にしたまま、
「・・・そうね・・・このご時世で、信用調査なしで、雇ってくれるようなところはないでしょうね」
と、言った。
久美は、ほっとした。
気持ちを立て直してから、聞いた。
「・・・シグマをお辞めになった後、何をなさってたんですか?」
美貌の久美と直接向き合って、形よく突き出した胸のふくらみを目の前にしていると、騙されていると思っているらしい尾形でも、口が軽くなるのだろう。カップをテーブルに戻しておいて、久美の疑問に答え始めた。
「シグマを年末に放り出されたんです。仕事のあてがなかった。大晦日の前々日に、妻と幼い子ども二人を連れて栃木の妻の実家に行きました。正月休みで帰って来た、と言ってね。そのまま、二日まで妻の実家にいました。三日に、仕事が始まると言って、私だけ、妻の実家を出ました。シグマを辞めさせられたとは妻にも言ってなかったんです。いったん、大南に帰りました。アパートがそのままだったんで・・・」
「そのとき、シグマ関係の人には会わなかったんですか?」
「なんで、そんなこと聞くんですか。会うはずなんかないでしょう。あんな会社のものは何だろうと、建物も見たくなかった」
「わかりますわ。・・・お仕事も探すおつもりだったと思うんですけど、お仕事は見つかったんですか?」
「見つかるわけないでしょう。派遣切りで失業者があふれてんだから・・・。でも、そんなこと言ってるわけにはいかなかった。妻と子供二人を実家に置いたまま、貯えた金がほとんどないのに、生活費を渡せなくなっていたのです。妻の実家は年金暮らし、その年金もわずかで・・・。肉体労働ならあるんじゃないかと思って、栃木県、福島県、山梨県、群馬県、と、工事現場の飯場を回りました。なんでもいいから、仕事をさせてくれ、ってね。一日中、なんにも食べずに、涙を流しながら、回った日もあります」
「ご苦労なさったのね。・・・それで、お仕事が見つかったんですか?」
「群馬県の飯場で、気さくに話を聞いてくれる現場の責任者に出会ったんです。私は、もっこ運びでもいいから仕事をさせてくれ、って頼みました。その男は、私が電気工学を専攻していたと聞いて、ダイナマイトの爆発までの時間を調節できるんじゃないかと言いました。山間部を通るバイパス道路の掘削作業の最中で、爆発のタイミングを微妙にずらす必要があったんです。以前は、導火線と工業雷管に爆薬という、いわゆる導火線発破方式がほとんどでしたが、最近は、爆薬、電気雷管、電気という電気発破が主流です。導火線発破は導火線に火をつければいいわけですが、電気発破は火の代わりに電気を使います。導火線の長さで時間を調節するんじゃないんです。念のために、爆薬の保管場所に連れて行ってもらって、添付されている説明書を見せてもらったら、爆発までの時間の調節は簡単なことだとわかりました。そう言ったら、しばらくここにいてくれ、と言いました。何かの事情で、技術者がいなかったようなんです」
久美は、内心、ひどく驚いていた。
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久美は、激しい胸の動悸を抑えながら、何食わぬ顔で言った。
「・・・それはよかったですね。知識や技術って、やっぱり、持ってないといけませんわね。そこでは、お仕事がうまくいったんですか?」
「なんとかね」
「そのまま、そこでお仕事を続けておられたんですか?」
「そうだったとも言えるし、そうでなかったとも言えますね。工事現場をあちこち移動しながら、飯場に一ヶ月半くらいいたかな。掘削工事が終わったら、爆薬を使う機会がなくなりました。それでも、すぐに、やめろ、とは言われませんでした。それはありがたかったんですが、私には重機が使えないんで、補助的な肉体労働だけになってしまいました。とてもじゃないが、体がもたなかった。仕事がきつい割には、時給も安かった。それで、私の方で見切りをつけたんです」
「・・・それで、他に、お仕事のあてでもあったんですか?」
「少しはね・・・同郷の男が新宿にいて、こいつは実家が近所で、親同士が親しかったんで、前から、なんとかしてやる、と言ってくれてたんです。ちょっと言い難い事情があって、迷ってたんですが、結局、頼ることにしました。それまでの蓄えの大半は妻の実家に送りました。妻も、実家の近くにある選果場みたいなところで、市場に出す野菜洗いのような仕事を始めてたんですが、そんな端金じゃどうしようもないんです」
「それで、新宿の方はどうなったんですか?」
「そいつは、噂に聞いていた通り、裏の社会じゃ、ちっとは知られた顔になっていました。しかし、甘い世界じゃないこともわかりました。今の私は、風俗店関係のチラシを配ったり、呼び込みをしたり、半分、ヤクザです。こんな仕事を続けていたら、まともな仕事に就けつけなくなるんじゃないかとわかっていながら、やめるわけにはいかなかったんです」
久美は、尾形の話を驚いて聞いていたが、うまい口実ができたと思った。いつまでも騙し続けているわけにはいかなかったからだ。
「・・・ウラの・・・社会・・・半分、ヤクザ、って・・・先日のお電話では、確か、組、とかおっしゃって・・・そういうことを私が知ったことになりますと、今さら、こういうことを申し上げて、申し訳ないのですが、目黒の会社にお連れするわけにはいかないようですわ。そういうことを承知の上で紹介したことになりますと、私の会社の信用問題・・・」
「えっ! それはないでしょう! それが条件で、こうして会って、話をしてるんじゃないですか! ありのままに現状を話して、それをよくわかっていただいた上で、きちんとした仕事に就いて、天下晴れて、妻子を養おうと思ってるんですよ」
「・・・申し訳ありません・・・尾形さんの現在のお仕事やお話の内容が想定外だったのです」
「そんな! 今さら、そんなこと言うなんて、ひどいじゃないか! それが条件で、わざわざここに来て、こうして会って、話をしたんだ! 突然、そういうことを言い出すなんて話が違う・・・でしょう。真面目に、一生懸命、仕事をしますよ。そんなことは、これからの私の仕事に関係ないことじゃないですか。そうじゃありませんか? ・・・なんとか、お願いできませんか。お願いしますよ」
尾形は興奮しかけていたことばを途中で抑えて、急に低姿勢になった。
テーブルに両手をついて、頭を下げている。
久美を疑っていたことなど忘れてしまっているようだ。
久美の関心は別の方に向かっている。
それに、元々、無かった話だ。
「ほんとに、申し訳ありません。・・・それはできません」
久美が、きっぱり、そう言ったので、尾形の形相が変わった。
「なんだとっ! 親切ごかしな顔しやがって、人の話を聞いておきながら、それはないだろう! それが条件でおれは話をしたし、あんたも聞いてたんじゃないのか!」
松嶋は、尾形の乱暴な言葉遣いに驚いて、思わず、腰を浮かしかけたが、また、座った。久美が松嶋に向かって首を振ったからだ。
尾形に気づかれないように久美が気を遣っている様子が伝わってきたので、松嶋には、かえって、効果的だった。
「ほんとに申し訳ありません」
久美は、そう言って、頭を下げた。
尾形の事情には同情するが、そう言うしかないのだ。
尾形は目を怒らせて、しばらく久美を睨みつけていたが、急に、凄みを利かせた小声になった。
「あんた、おれを騙したんだな。かわいい顔してるんで、油断した。わざわざ呼び出しておいて、申し訳ありませんですむと思ってんの」
「・・・・・」
「おれは、正直に言うと、企業性悪説の信奉者でね。会社を作るようなやつらは、もともと、その動機が不純なんだ。金儲けしようと思って、会社を作ってるんだ。それだけが目的なんで、損になるようなことはしない。金儲けができないとなると、従業員や社員が、どんなに骨身を削って働いていても、平気で裏切って、捨てるんだ。そんなやつらが、自分だけ温々《ぬくぬく》と、でかい面して、野放しになってる。あんたの会社なんかも、その典型だろうが」
久美は、もう隠す必要はない、正直に言ってやろうと思った
「私は、経営者じゃありません。それに、悪いですが、T社の社員でもありません」
尾形の顔が引き吊った。
「なんだとっ! 今、なんと言った!」
激昂していることがわかったが、さすがに、周囲を憚って、声を抑えている。
「やっぱり、思ってた通りだ。T社の社員じゃないんだな。開いた口が塞がらんとはこのことだ。なんて女だ。許さんぞ。この落とし前をどうつけるつもりなんだよ」
「落とし前だなんて、そんな脅しで、私が驚くとでも思ってるんですか。女だと思って、馬鹿にしないでよ!」
久美は、盗っ人猛々しいとは思ったが、強い言葉で言い返した。
「なにっ! 全く、あきれ果てたあばずれだな。おまえ、ほんとにタダですむと思ってんのかよ!」
尾形は、血相を変えて、腰を浮かした。
「どうするって言うのよ! 脅せばなんとかなると思ってたら、大間違いよ!」
久美は、負けずに、言い返す。
松嶋は、立ったり座ったり、落ち着かない様子を見せ通しだ。
久美は、その都度、尾形にわからないように、来るな、と目顔で合図していた。松嶋が傍に来れば、尾形が逃げ出すと思っていたからだ。
久美は、できるだけ声を潜めるようにしていたが、それでも、声が高くなる。無論、尾形もそうだ。他の客が気づいて、放っておけないという顔をして、立ち上がりかける。松嶋は、その都度、大丈夫だから、と言いに行って、防波堤の役目を果たしていた。
尾形は、外見からは想像もできない久美の態度に、かえって、興味を持ったようだ。
ここからは、さらに声を潜めた会話になった。
「ほーう、元気がいいじゃないか。見かけによらず、面白いねえちゃんだ。おれはあんたが気に入った」
「はあ? 気に入ってもらわなくて、結構よ」
「その怒った顔が、また、かわいいじゃないか。あんたを抱きたくなった。男の経験も豊富なんだろう? おれにもやらせろよ」
久美は、その露骨な言葉がショックで、本気で怒って、睨みつけた。
その嫌悪感を露骨に見せた目の色が尾形を傷つけたらしく、尾形の顔が、怒気を含んで、赤くなった。
「こいつ、なめんなよ! ぜったい、タダじゃ帰さんぞ! おれは、これでも、極東会の構成員格だ」
「やっぱり・・・」
久美は、やっぱり、そうなのね、派遣先を紹介しろなんて、よくも言えたものね、と言い返そうとしたが、思い直した。
このようなやり取りはまずい、何も生まない、と思ったのだ。
そう頭を切り換えた途端に、自分でも驚くような考えが閃いた。 久美は、テーブルに新しく置かれたおしぼりを使えるようにしておいて、尾形に媚びるような笑顔を向けた。
「尾形さんのお相手をしてると、汗が出てくるわ。冷房が効いてるんだから、冷や汗かしらね。よほど緊張してるんだわ」
と、言いながら、純白の半袖シャツの上のボタンを二つ外して、襟元を両手で開いて、胸のあたりまでくつろげておいて、おしぼりを手にすると、のど元から胸の谷間のあたりまで拭き始めた。
前の方にブラジャーごと引っ張ったので、尾形から見れば、形のいい乳房が半分くらいは見えることになったはずだ。
久美は、これを故意にやった。
おれにもやらせろ、という尾形の言葉で、思いついたことだ。
尾形は久美の豹変ぶりに驚いたようだが、久美が元の姿勢に戻るまで、半分覘いている白い乳房や肩から下のすべすべした腕をじろじろ見ていた。
久美は、それを意識しながら、言った。
「ところで・・・尾形さん、あなた、一ヶ月半ほどで、群馬の工事現場を辞めたと言いましたね」
「それがどうしたんだ」
尾形は、久美のボタンが外れたままの胸のあたりに視線を止めたままだ。
尖っていた目の色が、心なしか、柔らかくなっている。
この女は、おれに気がある、おれを誘ってる、脅しも効いてるはずだ、とでも思っているのだろう。
「そのあとすぐ、大南市に行きませんでしたか?」
「なんで、そんなこと聞くんだ」
「その頃、シグマの大南工場のロッカーで爆発事故があったのです。死者三人、重軽傷者八人、という大事故です」
尾形の表情が微妙に変化したのを、久美は、見逃さなかった。
「・・・ほーう、それがおれと何か関係があるとでも言うのか。当時、連日のように、新聞やテレビで大きく報道されていたから、無論、知ってるし、ぞっとしたことを覚えてる。おれも働いてたところだったからな。犠牲者を気の毒だと思った。しかし、あんたが、なんでそんなことをここで持ち出すのか、それがわからん」
「他人ごとだとは思えないのです」
「それはあんたの感傷だろう。そんな話題を、ここで持ち出して、何になるかって聞いてるんだ」
先刻の表情の変化は何だったのか、尾形の言い方が元に戻って、居直った感じになった。
「それで? その犯人は、もう、とっくに、捕まったんだろう?」
尾形は無防備に話に乗ってきた。
久美を連れ出して、ホテルへでも連れ込もうと思って、そっちの方へ頭が働いているのか、日頃の尾形からすれば、考えられないような油断だった。
「犯人? ・・・事故と言いましたよ。事故なのに犯人がいるんですか?」
そう言われて、尾形は狼狽した。
久美は追い打ちをかけた。
「事故ではなくて、犯人がいるような殺傷事件だったとすると、それがわかっている、尾形さん、あなたは、あの事故の起こった原因を知ってるんじゃありませんか?」
「えっ・・・!」
「確かに、事故ではなかったのです。よくおわかりね。犯人が爆薬を使ったことがわかってるんです。それも、時限装置付きの・・・」
唐突に、そう言われて、尾形の顔色が変わった。
「あなたが時間調整付きの爆発物の扱い方に慣れていたことがわかったわ」
尾形の目の中に、それとわかるほど、怯えの色が走った。
「・・・それがどうしたんだ。おれは、そのころ、新宿にいた。大南のあたりをうろついたりしてない。それは、おれの知り合いや組の者に聞けばわかるはずだ。爆薬がおれの手に入るはずもない」
尾形は、狼狽して、聞かれてもいないことを、不用意にしゃべった。
久美は、ロッカーの爆破事件に尾形が関わっていたことは間違いない、と確信した。
「それは、警察が当時の工事現場の関係者から聴取したり、関係ヶ所を捜査すれば、すぐにわかることだわ。・・・あなたが辞める前に、ダイナマイトが何本かなくなったことがあったってね。尾形さん、あなたは、ダイナマイトの保管場所を知ってたんじゃありませんか。それに、アリバイの証言は誰だってしてくれます。殊に、親しい知り合いであればね」
「・・・・・」
尾形は、心の準備が全くできていない状態で、突然、核心に触れられることになった。
反論しようとするが、口がきけない。
完全に動転していた。
久美は、それを見透かして、カマをかけた。
「それに、あの夜、工場内で、あなたを見かけた、と言ってる人がいるのよ」
「なんだと! それはない! 深夜・・・」
と、言いかけて、尾形の顔から、さっと血の気が引いた。
大柄で長身の松嶋がやって来て、久美の傍に立った。
尾形の驚愕ぶりは収拾がつかない。
唐突に、席を立つと、後も見ずに、喫茶店を走り出た。
久美も松嶋も後を追わなかった。
追う必要はない、と思った。
5
久美は、さすがに、興奮を抑えきれずにいた。
すぐに、牧山に通報しよう、と思った。
しかし、そう簡単に信じてもらえそうもない内容だった。
牧山は久美が捜査の真似事をすることを認めていない。まして、久美が、勝手に、こんなことをやっているとは夢にも思っていないだろう。
警察が威信をかけて捜査を続けている事件だ。よほど言い方に注意して、冷静に伝えなければ、わかってもらえそうもない。
久美は、通報するにしても、一旦、学生マンションに帰って、落ち着いて、頭の中を整理してからにしよう、と思った。
松嶋に、そう言うと、松嶋も、警察側の反応が、なんとなく、予測できるらしく、そうだね、大がかりな捜査を五ヶ月近くも続けていながら、未だに解決できずにいる事件だとすると、そう簡単には信じてくれないかもしれないね、と言った。
松嶋がサンドウィッチを追加注文したので、久美も、ホットミルクとサンドウィッチで、軽い昼食を済ませておくことにした。
勘定を払っている時、久美は、おしぼりとコーヒーカップを預からせてほしい、と頼んだ。尾形が恵美の事件にも関係しているかもしれない、と思っていたからだ。
喫茶店のマスターは、事情をあらまし聞くと、お得意様のようですから、用済みのカップを後で返していただけば、お持ち帰りいただいてかまいません、お返しになれない事情が生じた際は、それでも結構です、おしぼりは差し上げます、と言ってくれた。
久美は、元のテーブル席に戻ると、手が直接触れないように気をつけて、尾形が使ったおしぼりと尾形の分のコーヒーカップを、ハンカチに包んで、ショルダーバッグの中に仕舞い込んだ。
喫茶店を出た後、久美が遠慮して、断ったにもかかわらず、松嶋は、どうせ用事があるから、と言って、文京区の学生マンションの前まで送ってくれた。
空は曇りがちだったが、外を歩いていると、ひどく蒸し暑かった。
正面エントランス前で、松嶋を見送ってから、館内に入ると、空調が効いていて、別世界のようだった。蒸し暑い中を歩いている松嶋に、悪いような気がした。
久美は、エレベーターに乗って、五階の自室に直行すると、すぐに机の前に座った。牧山に伝えるべき要点を、一応、箇条書きにでもしてみようと思ったのだ。
メモ用紙を前に置いていたのだが、なかなか、ボールペンが動かない。
伝え方もあるし、そのニュアンスにも微妙なところがあった。
考え込んでいると、牧山の‘おじさん顔’が浮かんできた。
つい、一人で、笑ってしまった。
意気込み過ぎて、滑稽なことを始めている、すぐに電話で伝えても、どうってことないんだ、と思ったからだ。
ケータイを握ると、ベランダに出て、大南署に電話を入れた。
薗田久美、と名乗って、警部補の牧山さんをお願いします、と言うと、牧山は署にいない、と言う。連絡する方法はありませんか、と言うと、牧山の携帯に繋ぐから、ちょっと待ってください、と言ってくれた。大南署では、薗田久美が何者か知っているので、好意的に便宜を図ってくれる。
牧山のケータイには久美のケータイの番号が登録してある。
コールサインがかなり長く続いたが、電話が繋がると、牧山の聞き慣れた声が言った。
「やあ、久美さん! 久しぶりですね。お元気ですか?」
「悪いけど、まだ、生きてますよ。あは、はは・・・」
「滅相もないことを言わないでくださいよ。ま、しかし、そんな冗談を言って、笑ってるところが久美さんらしくて、安心します。・・・ところで、何かあったんじゃありませんか?」
「今、何をなさってるんですか?」
「事件前に解雇された期間従業員や派遣社員を、虱潰しに、捜査しています」
「尾形恵一も?」
「尾形は、今のところ、所在がつかめていません。実家や奥さんや縁類などに連絡しないで、居所を転々と変えられると、厄介なのです。それに、犯罪に関わったかどうかもわからんのに、指名手配するわけにもいかないのです」
「・・・実は、今日・・・尾形に会いました」
「えーっ! いったい、どういうことなんですか!」
牧山は、ひどく驚いて、鼓膜に響くような大声を出した。
「事情は、どうあれ、なんで、そんな危ない事をするんですか! 尾形がどういう人間か、まだ、わかってないんですよ。われわれの了解も取らずに、なんてことをするんですか!」
「ごめんなさい。でも、尾形が・・・」
と、言っておいて、久美は、一呼吸置いた。
「ロッカーの爆破事件の犯人・・・」
「えっ! なんですって!」
「爆発物を仕掛けた犯人が尾形らしいことがわかったんです」
「・・・まさか! ・・・久美さんと話してると、心臓に・・・」
牧山は、心臓によくない、と言いかけたのだろうが、ほんとに心臓が止まったように、絶句した。
「私も驚いてます。でも、間違いないと思います」
「何を証拠に、そんな飛んでもないことを言ってるんですか。われわれが大がかりな捜査を続けてきて、未だに解決していないんです。それを、久美さんが、ちょっと会って話をしたぐらいで・・・」
久美は、黙っていられなくなった。
詳しい話は後でもいいと思っていたのだが、尾形と会うまでの経緯や尾形とのやり取りの概要を、時間をかけて、牧山が反論しなくなるまで話した。
牧山は、ひどく驚いたり、鋭い質問を何度も交えたりしながら、聞いていたが、半信半疑ながら、一応、納得せざるを得なくなったようだ。
久美は、労いの言葉はともかくとして、少なくとも、牧山が喜んでくれるものと思っていた。ところが、牧山は、そんなことは言わずに、こう訊いてきた。
「今、どこから電話してるんですか?」
「文京区の学生マンションの自分の部屋です」
「一人で、帰ったんですか?」
「いえ、マンションの前まで、松嶋君が一緒でした」
「松嶋・・・君?」
「あ、松嶋君のこと話してませんでしたね。大学の一年先輩です」
「男の学生さんのようですね?」
「はい」
「それは上出来でした」
「えっ・・・?」
「その喫茶店を出た後、尾形が後をつけている気配はありませんでしたか?」
久美は、そんなことは考えてもいなかった。
「いえ・・・気がつきませんでした」
「だから、危ない、と言ってるんです! 尾形が、あなたを襲って、消そうと思ったとしてもおかしくない状況なんです。あなたが、まだ生きてます、と言ったのが、こうなると、冗談には聞こえません」
「えっ、そんな! 私一人を襲っても・・・」
「尾形が一人で動くとは限らんでしょう。その松嶋君も気をつけないといけないんですよ。あれだけの死傷者が出た無差別殺傷事件です。あんなことをやるやつは、犯行がバレないようにするためには、どんな突拍子もないことをしでかしてもおかしくないんです。とにかく、そんなことをするんだったら、どこかの段階で、われわれに情報を伝えて、われわれを動かすべきだったんじゃありませんか。あの犯行に関わった人間が特定できたらしいことはお手柄だったと言わなきゃいかんでしょうが、今度、こんな事をしたら、許しませんよ!」
牧山は、珍しく、声を荒げて、説教した。
難事件の解決よりも、久美の身を案じる方を優先しているらしいことが伝わってきた。
「これから、すぐに、捜査本部長や課長に報告して、取り敢えず、どういう手を打つか、打ち合わせをします。そう時間はかからんと思いますが、一旦、電話を切ります。後ほど、折り返し、電話します」
牧山は、そう言うと、久美の返事を待たずに、電話を切った。
久美は、何も手につかず、待っていたが、なかなか、ケータイが鳴らない。 牧山も説明するのに苦労してるのだろう、と思った。
一時間近くも経った頃、やっと、ケータイが鳴った。
6
「やあ、待たせてしまって申し訳ありません。署長も課長も、それはもう、びっくり仰天ですよ。納得させるのに時間がかかってしまいました」
「わかりますわ。牧山のおじさまだって・・・」
「いや、そう言われると、面目ないです」
牧山は、率直にそう言ってから、取り敢えず、どういうするか、当面のことが決まりましたので、と前置きしておいて、続けた。
「直ちに、群馬に出向きます。尾形が群馬に飛んで、口裏合わせをしたり、証拠隠滅を図る恐れがありますからね。その前に、群馬県警に依頼して、工事関係者を捜し出して、あなたの推理の裏を取らなければなりません。工事関係者も罪を問われることになるかもしれません。導火線発破にしろ、電気発破にしろ、厳しい規制があって、それを無資格の者にやらせていた可能性がありますからね。それから、警視庁の協力を得て、新宿あたりにいるという尾形の所在をつきとめなければなりません」
牧山の意気込みが、びんびんと、伝わって来た。
「あなたからも、もっと詳しく話を聞いた上で、その、おしぼりとコーヒーカップ、というのを預かります。あなたが考えている通り、お姉さんの事件にも関わっているかもしれませんからね。それに、久美さんの身の安全のことを考えなければなりません。周辺の状況をよく検た上で、警視庁に当面のパトロールを依頼します。従って、久美さんの学生マンションの方にも出向きます。それまで、ぜったい、外には出ないようにしてください」
「・・・それは、いつになりそうですか?」
久美は、牧山が、多分、明日か、明後日、と言うだろう、と思った。
「そうですね。現在、午後一時・・・十二,三分・・・群馬県警に回って、当面の捜査を依頼して来ますから、特急や急行を使っても、夜の遅い時間になりそうですが・・・こんな曖昧な言い方をしてはいけませんね・・・そうですね、時間調整の余裕も考えて・・・午後の八時、と決めておきましょうか」
「えっ! ・・・今日ですか!」
「そうですよ。ぐずぐずしてちゃいけないでしょう。警察の捜査や情報提供者への安全面への配慮というのは、そういうものなんです。一刻を争うことがあるんです」
「・・・・・」
警察ってところはすごいな、牧山のおじさんも、頭の回転がよくて、決断が早いんだな、と感心して、久美が呆気に取られていると、牧山が続けて言った。
「あなたの学生マンションは女子学生専用で、出入りも含めて、安全管理がしっかりしてますから、外へ出ない限り大丈夫でしょう。
しかし、われわれが行くとなると・・・女子学生専用の建物の中に、夜間、それも、男の刑事が入って行くのは、いろいろと、まずいこともあるかもしれませんね・・・以前、おうかがいした時、近くの・・・セルフサービス式のレストラン、というか、食堂兼喫茶店のようなところで話を聞いたことがありましたね。あそこはどうですか? 多分、竹添君と行くことになると思いますが・・・」
「ああ、あそこは、確か、夜も、十時頃までは、開いてると思いますわ」
「あれは、あなたの学生マンションのすぐ近くにありますが、一人で行かないように気をつけてくださいよ。午後八時までに、正面玄関まで迎えに行きます。それまで、外には、絶対、出ないようにしてください。特に、暗くなってから、一人で出歩いちゃいけませんよ。いいですか? 他に何かあっても、午後八時までには必ず玄関口まで迎えに行くようにします」
「・・・はい・・・わかりました」
久美は、電話が切れた後も、牧山の用心深さに開いた口が塞がらず、しばらく呆気に取られていたが、すぐに思い直して、松嶋のケータイに電話を入れた。
牧山が言ったことを伝えると、松嶋はひどく驚いて、へー、やっぱり警察の刑事は違うな、僕も気をつけるよ、ありがとう、と言ってから、急に心配になったらしく、大丈夫かい? 今、すぐ、警察に言って、周辺をパトロールしてもらった方がいいんじゃないの? と言った。
久美は笑って、牧山のおじさんは、いつもと違って、私にくどくど説教ばかりしてたもの、心配し過ぎてるのよ、と言って、取り合わなかった。
久美は、警察の捜査陣の驚愕のほどは想像できたが、姉の事件が解決したわけではないという思いがあって、どこか、冷めていた。牧山の忠告を、それほど、真面目には受け取っていなかった。
その後は、自室や会館内の共用施設の自習室で、休講前の講義ノートの整理や課題レポートの作製準備などをして過ごした。
昼食がサンドウィッチだけの軽いものだったので、お腹が空いていた。
会館内には、まだ、半数近くの女子学生たちが居残っていた。
夏期休講期間が始まってからも、予約をしておけば、食堂の利用ができるようになっていたが、久美は、臨時に会館に帰って来たばかりで、予約ができていなかった。
八時までには、まだ、少し時間があった。
牧山に注意されて、先生に叱られた小学生のような返事をしたが、カフェテリアに行って、夕食を食べながら、待てばいい、と思った。
すぐ近くだし、周辺の状況もよくわかっているし、歩き慣れた道に危険があるとは思えなかった。
久美は、Tシャツにジーンズの軽装で、マンションを出た。
周辺は、閑静な住宅街の中にできた学生街といってよく、土曜日の、そのくらいの時間になると、ほとんど人通りが絶える。
正面エントランス前の広場の先に、黒々と葉を繁らせた銀杏並木が続いていた。
並木に沿って、歩道を、四,五分も歩けば、カフェテリアがある。
外は、夜になっても、生暖かい風が吹いていて、むっとするような暑さだった。雨が近いせいだろう。
街路灯が適当な間隔を置いて立っているが、葉を密生させた銀杏が大きく枝をはり、明かりが十分に届いていないところもある。
カフェテリアの大きな看板が、すぐ先で、明滅していた。
久美が銀杏並木の四,五本目の木の下に来かかった時、いきなり、背後に人影が飛び出して来た。
久美が振り向きざまに、男の黒い影を見たと思った時には、首に紐状のものを巻きつけられて、もの凄い力で絞めつけられていた。
その状態のまま、銀杏の木の下の暗がりに引きづり込まれた。
息が止まって、声が出せない。
息を止められたまま、死にもの狂いで、首を左右に振った。
リーマンショック殺人事件(四)に続く