第十一話「ライルとライカⅡ」
周囲の期待を受けてか、ライルに任務を回されるのはそれからしばらくと経たなかった。アシュリーもようやく重い腰を上げ、血塗れの猟犬が狩場に放たれる。その時が遂にやって来たのだ。短いようで長かった隠遁生活ともお別れとなり、死の恐怖と背中合わせの日々が再び始まる。ライルは胸の突っ掛りが取り払われたことにひとまず安堵した。
ああ。これで、腕の心配をする必要がなくなる、と。
屍山血河を築いてきた己の業の深さは理解しているつもりでいる。何時、如何なる場合で自分が殺めてきた人間達の怨念が襲い掛かるか分からない。正当防衛? 殺すしかなかったから殺した? そんな正論めいたものではない。他人の命を奪い取ってでも、死にたくないという地を這うような醜い自己主張だ。
だが、復讐、報復、敵討ち。これらから目を背けるつもりはない。恨み言があれば、一言一句余さず心に刻み込もう。命を寄越せと言うのなら、脅威と見なし、全力を以て相手をしよう。しかし、自分はそう簡単に死んでやるつもりなど毛頭ないが――
ライルはこの時既に少年とは到底思えないほどの狂気を発していた。死地に赴かなければ、増幅する恐怖心を抑えきることが出来ない。板挟みとなった彼の心は当人が気付いていないだけで、破綻するのは時間の問題。自ら命を絶つという未来も有り得たかもしれない。そんな危うい状態にあったライルが出会ったのがライカだった。
現場慣れして、単独での任務を任せられるようになった頃。オレールの暗部で取引されていると噂のものがあった。それは人間。それも“人形のような少女”だという。ただの身売りであるかと思われたこの件。ライルは仲間と現場へと足を踏み入れることになるが、彼の想像もつかない展開が待っていた。
そこは地下牢だった。周りを石で固められた空間は日光を取り入れる窓などあるはずもなく、顔をしかめたくなるような悪臭が漂っている。悲しげに燃えゆく蝋燭が照らす先にはじゃらりと何かが動くのが窺えた。年端もいかない少女が来訪者であるライルを無機質な目でじぃっと見ていた。
少女の姿は極めて酷い状況にあった。両手両足を鎖で拘束され、髪も爪も伸び切り、糞尿は垂れ流されている。状態を見るに、一応食料は与えられているようだが、本当に生きているのかどうかも定かではない。奥にも存在が確認できた数人も同様。そんな悪夢の様相の中、ライルの注意を引いたのは先程から彼を眺めている少女の目である。
彼女達がこのようなことになってしまったのは人生に詰まってしまったからに他ならず、大方その経緯にもライルにも予想は付いた。ところが、どうにも彼女達の様子はその一言で語るには不十分な気がしてならない。
「おい」
会話を試みるも、言葉を発する様子は無い。肩を揺すってみても結果は同じ。一体どうなっているのか。ライルは頭を悩ませた。生きることを諦めているのだろうか。いっそのこと早く殺してくれと。
いや、違う。彼女の眼には絶望すら映っていなかった。
少女は何も感じてはいない。心というものが完全に消失している。だと仮定すれば、最初にこちらの方を向いたのは、声が聞こえた方向へ顔を向けるという体に記憶された動作を行っただけ。なるほど。確かに“人形のような少女”だ。
「これは、惨いな」
二手に分かれて調べていた仲間が背後に立って言った。上の階で手掛りとなるものを見つけたらしく、数冊の本と名前も判らない草を手にしている。
「戻るぞ。長居は無用だ」
「……」
手掛りとなりそうなものは粗方手に入れた。ともすれば、後は住人不在の間に屋敷へ帰るだけだ。だというのに、ライルは立ち止まっていた。その光景を目に焼き付けるように。彼に何か思うところがあるのを感じた仲間は間合いを見計らって、肩に手を置いた。
「どうした?」
「いや。何でもない」
「そうか」
屋敷に持ち帰った情報を元にし、速やかに“人形のような少女”について調べ上げられた。まず、彼女達の行き先は変態趣味の富裕層や邪教と呼ばれる宗教団体が主で、その結末が碌でもないのは察するに容易である。彼女達があのようになってしまった原因は誘引作用のある有毒な薬草と魔術の併用によって引き起こされる末期症状の精神障害。個我は完全に叩き潰され、従属することでしか生き永らえることしか出来ない。
調査が進むにつれて誰もが憤りを感じていた。当に悪魔の所業。何処の誰であろうと、断じて許されるべき事ではない。彼女達が取引されていた場所がアンスール家の縄張りだったということは最早二の次。しかし、心を失った少女を救う方法は見つからなかった。最善策は――殺すこと。静かに怒りを湛え、アシュリーはこう告げた。
「焼き払え。全て根絶やしにしろ」
その一言を引き金に、少女を売り捌く市場を追い込むための作戦が決行される。彼女達の亡骸は全てアンスール家により、墓地に埋葬された。自分で殺した者を自分で葬るなど、おかしなこともあるものだ。遣る瀬無い気持ちになったライルは己の解答を見直す。が、未だ彼は無力のまま。今更現実的な代替案は出せる筈もなく、初日の任を終えた。
考える間さえ与えられず、翌日には次の拠点へと向かった。相手は裏でこそこそやるだけあって、危機の接近には敏い。悠長に事を運んでいては尻尾を掴むことすら出来なくなる。
暗い部屋の中、鈍い音を立て、撃鉄が起き上がる。後は人差し指を引くだけでいい。眉間で寸止めされた銃口から放たれる弾丸は避けようもなく、脳内を蹂躙し、死に至らしめるだろう。だというのに、そこまで来てライルは歯噛みした。心臓が大きく撥ねる。
――お前は今、何を考えていた? 殺すことしか能が無い自分が? 散々他人を踏み台にしてきた自分が? なんと烏滸がましいことか!
彼の心の奥底から、どす黒い泥のような感情がごぼごぼと泡を立てて湧き出てくる。罵声が腐肉に集る蠅の如く、周りをしつこく飛び回った。不愉快極まりない声は消えるどころか、その数を増やすばかり。
――勘違いするな。お前はただの臆病者だ。英雄を気取ることなんか、死にたがりの馬鹿にやらせておけばいい!
――奪うなんて、ずっとやってきたことだ。どうして迷う必要がある? 無抵抗の相手を殺したことなんて初めてじゃないだろう?
――自分を否定すれば、きっと後悔するぞ。それとも何か、可哀想だとでも思ったか。一体お前がそいつの何を知っている?
「違う……」
絞り出したような細い声だった。彼の返答を聞いて、げらげらと嘲笑する幻聴が聞こえる。滑稽だ。無様だ。道化だ、と。どこか以前の自分の姿と重ねて同情していた。憐れだと思った。それは間違いない。けれど、もし彼女が生きることを望むのなら――
「たす――け、て」
暗闇の中、手を掴むことくらいは許されるはずだ。
「――っ!」
状態の進行が浅かったのか、将又彼女の意志の強さか。空虚な双眸から小さな涙が零れ落ちる。生きたい、という言葉はしっかりライルの耳に届いており、銃弾は拘束する鎖を打ち砕いていた。
◆
――宿屋インテル・ウィアムの一室
「ライル?」
「……?」
下から呼びかけられた声によってライルは気が付く。そこは寒冷なオレールの地ではなく、現代の王都であることを。両手の力を緩めてライカを放す。彼女は不思議そうに小首を傾げていた。
「どうかしたの?」
「ん、ああ……少し、考え事をな」
「そう」
ライカの素っ気無く振る舞う様はライルによく似ていた。それこそ、本物の兄妹のように。ただ、彼女は無口ではあるが、ライルに比べれば思いの外社交的である。精神障害による後遺症で表情や声の調子によって感情を伝えるのが少し苦手なだけで、会話をするのに不自由しない程度にまで今は回復している。
それと彼女は模倣することに関しては異様に長けていた。瞬間記憶能力という名の異能である。そのことに気付いたのは些細な出来事。屋敷でいつも妹のようにライルの帰りを待つ彼女は彼がどのような生活を送っているのかは言われずとも既に知っていた。時折、彼が人知れず虚勢を張ることも忘れ、恐怖と戦っていることも。
彼は手を差し伸べてくれた。けれど、理由までは教えてくれなかった。
――理解したい
その一心でまず彼女が思いついたのが、彼に殺しの教えを乞うことだったのだ。同じ土台に立つことから始めないと、一生何も彼の事を本当に理解できないまま終わると考えた果てに出た結論。勝負を挑まれ、ライルは困惑するもこの時はまだ、ライカの今後については考えが纏まっていない状態。自分と同じ道を歩ませるようなことには疑問が残った。
しかし、勝負は意外な展開を見せる。ライルの初手、得意の速度に重点を置いた踏込。一瞬で決めに来た一撃をライカはなんと紙一重に避けてみせたのだ。鍛錬もしていないただの少女が、だ。続くライルの追撃も危なげに防いだ。防戦一方。風前の灯。明らかに力負けしていたライカだが、彼女を追い詰めていくライル、アシュリーを始め、見物していたアンスール家の人間はふと思った。
ライカの動きが、ライルにとても良く似ている、と
彼女は屋敷にいる間、彼の姿を側で眺めている事が多かった。その時間には当然、鍛錬も含まれている。とはいえ、そんな今起こっていることは偶然に偶然が重なっただけではないのか。結論は出ないまま、一分と続かない勝負は決着する。しぶとく立ち回っていたライカの体力はあっという間に切れ、持っていた刃の無い短剣は天高く弾き飛ばされた。
落胆した顔でライカは地面にへたり込む。なけなしの力は使い果たした。悔しい。悔しいけれど、涙が流れてこない。そんな彼女を見下ろすライルは決断を迫られていた。今ここで、はっきりさせておかないといけない。正味な話、先程の動きには興味がそそられた。けれど、そのせいで命を落としてしまっては何のために助けたのか分からない――
「悔しいか」
「……」
「けどな、これが現実だ」
「……」
「なあ、ライカ。改めて聞くが、お前はどうしたい?」
「――は、」
「?」
「ライルは、生きること自体に拘っているかもしれないけど、私は生き方に拘りたい。後悔したくないの」
「だから人の殺し方を教えてくれ、って言うのか。せっかくの命を擲つようなもんだ。それこそ後悔するかもしれねぇんだぞ」
馬鹿げている、とライルは語気を強めるだが、ライカから目を逸らせなかった。彼女の言葉が彼の胸に深く突き刺さっていたからである。
生きることが全て。死んでしまえば、死んだという事実が残るだけ。それを信条として頑なに守ってきたライルには過程に意味は無く、つまり生き方について考えたことも無かった。泥水を啜ろうが、腐肉を食らおうが、生きていることには何ら変わりはない――そう思っていた。
「私は、ライルと並び立って同じ世界を見たいの……それが私の願い。残るある命を全うするための、ただ一つの望み」
前約束では勝負に勝てたら彼女の望みを叶える、ということだった。ライルには最早ライカが何を捲し立てようが聞く耳持たず、その場を去ればよかった。
「……助けられた恩があるからそう言っているなら筋違いだ。俺はお前に何かを求めるためにあそこから連れ出したんじゃない」
健気にも自ら茨の道を歩もうとする彼女の申し出に対してもライルは敢えて穿った見方をしているように見せかけた。それも、真に信頼するに値するか、覚悟を見定めるため。命を危険に晒す選択をしようとしているのだ。生半可な覚悟では死に急いでいるも同然。世界は、生きる力の無い者から振るい落としていくのだから。
それでも、彼女は一歩も引くことなく、こう言った。
「ライルは私に手を伸ばしてくれた。理由も何も知らないけれど、そうしてくれたおかげで今がある。だから、今度は私が手を掴む番。立ち止まらなくていい。振り返らなくていい。私が勝手にライルのいる場所まで追い着くだけだから」
静かに燃える意志の炎。それは、あの牢獄で見たものと同じ、強い光。ずっと暗闇を歩いていた彼にはただただ眩しかった。純朴な言葉に戸惑う反面、期待し始めている気持ちを抑えながら言う。
「……好きにしろ」
「そうする」
斯くして、対の猟犬が誕生。その名を広めるのだが――そこでライルは首を振った。思い出話はこれくらいにしておこう、と。わざわざ北の遠方、アンスール家から遣いがやって来たのだ。ライカが選ばれたのは本人が言い出す前にアシュリーが勝手に決めていた、というところだろう。恐らく、いや確実に。原因究明のために重大な手掛かりを早く受け取っておかなければならない。
「ライカ、北で何があった」
「うん。これから話す――」
ベッドに腰掛け、彼女はオレールでの出来事を淡々とした口調で語り始めた。




