Soie…
ああ全く、なんてザマだ。
舌打ち混じりに踏み出した足は勢いよく水溜りに突っ込んで、大きな飛沫を周りに散らす。
じわり。革靴の隙間から滲んでくる雨水が靴下に染み込んで生温かく爪先に纏わりつく。その感覚が余りにも不快で、再び舌打ちを一つ。
「…っああもう!」
湿った前髪が額に貼りつくのさえ鬱陶しい。本当に今日はついてないと、唇から漏れたのは重い溜息。きっと、今日の占いのうお座は最下位だったに違いない。
クラスでは知らない女子とのカップル疑惑で無駄に囃され、部活に行ったはいいものの、調子が悪くて的に擦りもしない。帰りに立ち寄った書店では、気になっていた新刊類は全滅の上に接客態度の悪さが目立つ。もう散々としか言いようがない。
結局、カップル疑惑は女子の作り話が原因だったし、部活では顧問と部長から要らぬ小言を延々聞かされる始末。書店の件に関しては、もうあの店は利用したくないと思うくらいだ。客商売を舐めているんだろうか。
「馬鹿馬鹿しいっていうか、もうねぇ…?」
小さく独りごちて、近くの軒先の下に転がり込む。
帰り道、突然降り出した雨はあっという間に人を濡れ鼠に変えて、今なお降り止む気配はない。
ぱたぱたと服に残る雫を落として鞄を開く。あいにく手持ちに傘なんて物はなくて、ただ呆然と頭上を仰いでいた。
その鼻先をふわりと掠める、珈琲の薫り。
何処からかと思ったそれは、自分の真後ろから流れて来ていた。鞄を背負い直して振り向いた先、磨りガラスの嵌め込まれた扉が目に入る。
「そ…いえ?」
ガラスの部分に白字で刻まれた、『Soie』の文字。思わずローマ字読みをしてしまったけれど、実際は何と読むのかなんて解らない。
扉の脇、一般住宅ならドアホンの付いている辺りに掛けられていたのは小さなプレートで、風に煽られて『OPEN』の文字がゆらゆらと揺れていた。喫茶店、だろうか。
というか。
「ここに…こんな店、あったっけ?」
いつも通りの帰り道に、見たことのない店。今まで自分が見過ごしてきていただけなのかもしれないけれど。
ふわり、珈琲の香。
思わず、ドアノブに手が伸びた。くすんだ金のノブは冷んやりとしていて、何処かしっくりと手に馴染む。
ちらりと窺った空模様は複雑で、雨宿りの間だけだからと自分に言い聞かせて扉を開く。
「いらっしゃいませ」
かろろん。ベルの音が響く。
カウンター席を拭いていた女性が、此方を振り返って緩やかに笑った。
黒の細身のパンツに、珈琲染めのハーフタブリエ。糊の利いた白のシャツは、肘より少し下の辺りまで捲られている。襟元に巻かれた深い赤のスカーフが、やけに鮮やかだった。
カウンター席の端に腰掛けながら、そっと周囲を見回す。
柔らかい照明に、小さく響く軽快なジャズの音色。そして、さっきよりも強く香る珈琲の香り。
思った通りに、喫茶店だった。
「ご注文は、お決まりですか?」
「あ、ええと…カプチーノ、で」
いつの間にかカウンターの向こうに戻っていた女性が、緩く笑う。かしこまりました、なんて言ったところで、何処からか声。
「紅茶以外は、出ないよ」
カウンターの向こう側、従業員用の出入り口なんだろう扉の隙間から、半身が覗いていた。指先に挟まれた煙草から、ゆらゆらと紫煙が燻る。
「え、あの、」
「…まあ、嘘、だけどね」
こんなに珈琲の匂いがするのに、珈琲は扱ってないのか。そんな風に聞こうとした矢先、のったりとした口調で告げられた嘘。
その人は、ゆらゆらとした煙に紛れるように、扉の奥へ消えた。それは出てきたときと同じくらい、唐突で。
なんか普通に、変な人だった。
「ああ、気にしなくていいよ」
「…はぁ、」
困ったような俺を見て、対面の女性は告げる。いつものこと、とでもいうような物言いに、曖昧に頷いた。
とはいえ暇なので、何とはなしに作業を見物する。淀みなく続けられる工程の合間、女性の胸元に金色の刺繍が見えた。
『yuna』…ゆな。どうやら、名前みたいだ。
ゆなさん。なんとなく、ジョナサンっぽい。
「はい、どうぞ」
「あ、どうも」
カウンター越しに受け取ったカップは相当な熱を帯びていて、気を付けていないと火傷をしそうだ。
…いやまあ、火傷の前に若干溢したのだけど。淹れたての珈琲って、どうしてこうも熱いんだか。
取り出したペーパーで、慌ただしく卓上を拭く。茶色くぐしゃぐしゃになったその紙の下の方、記された文字。
「ソイエ…」
「ああ、それ?」
小さな呟きを拾ったのか、片付けをしていた女性(この際、ゆなさんと呼ばせてもらおう)が振り返る。
水に濡れた指先が宙に書く文字は、どうやら入口の磨りガラスに書いてあった英字のようだ。
「s、o、i、e…ソイエ。このお店の名前なんだけど、フランス語で『シルク』って意味なんだって」
シルク。白く上質な、絹の布。
オーナーは、何を思ってこの名を付けたのだろうか。
「ソイエ……」
もう一度小さく、呟いてみる。
どうしてか、この響きは嫌いじゃなさそうだ。
【とある男子校生の気晴らし】
(いつの間にか雨は上がっていたけど)
(俺はまだ、ここを動けそうにない)