煙は横に流れる
朝の電車で、赤ん坊が泣きだした。ドアの横で抱っこひもの母親が体を揺すりはじめ、まわりは揃ってスマホに目を落とす。私も落とした。「満員電車に抱っこひもで乗る理由が分からない」まで打って、消す。子どもの話はよく燃える。書いた中身が正しくても、子どもに何か言った側が悪いことになる。
歩きタバコなら燃えない。駅前の喫煙所は植え込みで囲ってあるのに、吸っている人はたいてい、植え込みの外へ半歩ずつはみ出している。顔を空に向けて吐く人もいる。上に吐けば誰にもかからないと思っているらしいけれど、煙は上がりきったところで横に流れて、歩いている人の顔の高さまで戻ってくる。会社までの道で、今朝は灰色のコートの男とすれ違った。前からランドセルの列が来ると、男はタバコを持った手を背中に回す。男の横を通り過ぎた子どもたちは、そのまま男の背中の後ろを歩いていく。火の高さは、ちょうどそのあたりの子の顔の位置だ。歩きタバコをする人は、だいたい自分の前にしか人がいないと思っている。
男から離れたところで、コートの袖口を鼻に当てた。私も長い間吸っていたから、匂いが服のどこに残るかは知っている。袖口と、襟の内側。今朝は、柔軟剤の匂いしかしなかった。実家の父は今も吸っていて、ベランダに出てサッシをきっちり閉めてから火をつける。そういう人のことは書かない。
会社の入っているビルの裏にも喫煙所があって、三時になると営業の人たちがエレベーターで降りていく。私はその時間に、トイレの個室に入る。アカウントは本名とは関係のない名前で、会社の人には教えていない。蓋を閉めたままの便座に座って、朝の男のことを一本書いた。
『子どもとすれ違うときだけタバコを背中に回す人、すれ違ったあとの子どもがどこ歩いてるか考えたことある?』
使っていない水を流して、席に戻る。午前中から手をつけられずにいた請求書の束が、そのあとは嘘みたいに片づいた。夕方までに、いいねが二十ついていた。
金曜の夜、同期の遥と駅前の居酒屋に入った。禁煙の席は埋まっていて、店員は私たちを奥の、加熱式タバコ専用の部屋に通した。法律のほうでも、あれは臭わないことになっているらしい。隣のテーブルでは、スーツの男たちがそれぞれの本体を、スマホと並べて卓に出していた。
「吸っていい? だめなら外で吸ってくるけど」
「いいよ。ここ、そういう部屋だし」
椅子の背にかけていたコートを、壁のフックに移した。遥は細い本体にスティックを差しこみ、それが短く震えるのを待ってから口をつける。吐くときは、毎回きちんと横を向く。
「これ、紙より匂わないからさ。服にもほとんどつかないって、営業の先輩も言ってた」
紙から加熱式に替えた人は、だいたい一週間もしないうちにそう言いだす。吸っている本人の鼻は、とっくに馬鹿になっているのに。そう思いながら、枝豆の殻を皿の端に寄せた。
「今日も課長に、喫煙所で詰められた。灰皿挟んで向かい合うと、逃げるとこないんだよね」
「仕事の話なら席ですればいいのに。喫煙所で決まったことって、吸わない人には回ってこないでしょ」
「入ったころさ、三時になると二人で喫煙室行ってたじゃん。早紀、あのころ吸いながら研修の講師の悪口ばっかり言ってた」
「……それより、だし巻き頼もうよ。ここの、甘いやつ」
メニューを開いて、遥のほうへ向けた。遥は吸い終わったスティックを、空になったおしぼりの袋に入れて、鞄にしまった。店の灰皿は使わないのか。あの鞄の中はどういう匂いになっているんだろう。
改札の前で別れるとき、遥は自分の髪をひと房つまんで、私の鼻の前に差しだした。
「匂う? 電車で隣の人に嫌な顔されたくないんだよね。地味にくるから」
「うーん、匂わないよ。シャンプーの匂いがする」
♢♢♢
土曜は美容院だった。髪を肩の上でそろえて、色を少し明るくしてもらう。帰りに駅の改札の手前で、前から来た男が歩きながらアイコスを吸っていて、すれ違いざまに吐いた。毛先を鼻の下に持っていくと、焼き芋を焦がしたような匂いがした。
駅のトイレの個室に入って、書いた。
『電子タバコなら臭くないと思ってるの本人だけだから。喫煙者は全員死ねばいい』
水を流して、個室を出る。最初の返信は夕方に来た。
『アイコスは電子タバコじゃなくて加熱式です」
どっちでもいいし、どうでもいい。夜になって、喫煙者だと公言しているフォロワーの多いアカウントが、これはさすがに引く、と書き添えて引用し、そこから通知が止まらなくなった。夕飯のパスタはフォークに巻いたまま冷めて、スマホのほうは手の中でずっと熱を持っている。プロフィールの「会社員/匂いに敏感/歩きタバコ撲滅したい」まで、画像にして貼られていた。
『子どもも見ているのに、死ねなんてよく書けますね』
『嫌煙厨は全員死ねばいい』
『こういう人って、職場でも浮いてそう』
「この人、昔の投稿も大概だよ』
返信してくる人は、だいたい二つに分けられる。正しいことを言いたいだけの人と、死ねと言っていい相手がやっと見つかって喜んでいる人。前のほうは丁寧語で、後ろのほうはため口で書いてくる。「二児の母」、後ろのほうは「喫煙者ですがマナーは守ってます」。フォロワーは、いつのまにか六百人を超えていた。
返信の欄に「言葉が強すぎたのは認めますが、路上喫煙は条例違反です」と打って消した。
一覧を下へ送っている途中で、画面の上に父からのLINEの通知が来た。写真が一枚ついていて、米の袋に父の字で、新米、とマジックで書いてある。
『送っといたぞ』
通知を消して、一覧の続きに戻った。布団に入ってからも読み続けて、天井は画面の光でずっと青白かった。
日曜の昼、知らないアカウントが私の昔の投稿をまとめて貼った。プロフィールには「正しいことを正しいと言いたいだけ」とある。
二〇二〇年二月
火のついたタバコ持ったまま手振って歩くの、ほんとやめてほしい
二〇二二年九月
不倫してた人、二度とテレビに出てこないでほしい。普通に無理
二〇二三年七月
同期のアイコス、隣で吸われるの普通に無理。いいよって言うしかないじゃん
二〇二四年十一月
店員に怒鳴ってたじじい、死ねばいいのに
二〇二六年十月
子どもとすれ違うときだけタバコを背中に回す人、すれ違ったあとの子どもがどこ歩いてるか考えたことある?
二〇一九年十月
禁煙一日目。口が寂しい
『元ヤニカスの嫌煙が一番タチ悪い』
最後の一枚がいちばん伸びていた。どれも、私のアイコンの横に並んでいる。日付を見れば、その日のことは思い出せた。不倫の報道が出た週は引っ越しの最中で、段ボールに囲まれて寝ていた。そこで打ったはずの一行に、覚えがない。
同期のアイコスの一行も同じだった。こんなこと言ってたっけ。その年の七月の飲み会を、指を折って数えてみる。送別会と、暑気払い。どちらにも遥はいて、どちらでも、吸っていいかと聞いたはずだ。遥はこのアカウントを知らない。知っていたら、あんなふうに毎回聞くわけがない。
自分のユーザー名と「死ね」で検索すると、百件を超えて出てきた。上から順に見ていく。ほとんどは「死ねばいい」で、「死ね」と言い切っているものは少ない。ついでに「ヤニカス」でも検索して、こちらは途中で数えるのをやめた。そこまで確かめてから、やっと、コンビニで買ってきたサンドイッチの袋を開けた。乾いたパンの耳が、上顎に刺さる。
夕方には、元ヤニカスの嫌煙は、という言い方が、私とは関係のない人の引用にも使われはじめていた。
水曜の夜、遥から画像が一枚だけ届いた。まとめの中の、同期のアイコスの一枚だ。
木曜の三時に、ビル裏の喫煙所へ行った。パーテーションで囲っただけの一角で、灰皿の上の壁に、管理会社の「喫煙所の外での喫煙はご遠慮ください」という貼り紙がある。囲いの中は、紙巻きと加熱式の匂いが混ざっていた。遥は灰皿の前にいて、営業の男の人がひとり吸い終えて戻っていくまで、二人で搬入口に出入りするトラックを眺めていた。
「吸っていいか、毎回聞いたよね。だめなら外で吸うって、それも毎回言った」
「あの部屋でだめって言える人、いないでしょ。言ったら、私が感じ悪いことになる」
「見張っててって言ったの、早紀だよ。やめた日に、喫煙室で」
毎日書くから見張ってて、と私が言ったらしい。それが喫煙室の中だったのなら、そのときの私の指には、まだ最後の一本が挟まっていたはずだ。
「面白かったよ、ずっと。課長のことも、須藤くんのことも書いてたよね。自分のこと書いてあるのを見つけてからも、読むのはやめなかった」
「知ってて、三年も聞いてたの。私が、いいよって言うの」
遥はスティックを灰皿に落として、次のを差しこんだ。
「被害者みたいな顔して、楽しんでたってことでしょ。毎回横向いて吐いて、いい人みたいにして」
「早紀だって、いいよって言った日の帰りの電車で書いてたじゃん。時間見れば分かるよ」
「それとこれとは別でしょ。嫌なら、フォロー外せば済んだのに」
「吸ってるあいだは、何もしてなくても誰にも何も言われないから」
風がこっちへ吹いていて、遥の吐いたものが私の顔にかかる。私は同じ場所に立っていた。
「書き込みのって、いつも三時ちょっと過ぎだよね。トイレ長いなって、ずっと思ってた」
「見てたなら、なんで言わなかったの。一言でいいのに」
「言ったら、やめた?」
どのアカウントなのか聞こうとしたときには、遥はもう二本目を灰皿に落として、搬入口の脇のドアから戻っていくところだった。灰皿の中では、白いスティックが二本、紙巻きの吸い殻のあいだに刺さっている。
席に戻って、袖口を鼻に当てた。匂いはするのに、それが袖口のものなのか、鼻の奥に残っているだけなのか、区別がつかない。フォロワーのうちのどれが遥なのかも、私には見分けられない。
その夜、三十日以内にログインすれば元に戻せます、という一行を読んでから、アカウントを消した。
♢♢♢
三時になると、今も個室に入る。蓋の上に座って、ドアの内側に貼られた清掃の点検表を読む。同じ名字の判子が、毎日決まった時刻の欄に押してある。端から端まで読んだら、何もしていない水を流して席に戻る。請求書の数字は、一行ずつ二度読まないと頭に入ってこない。給湯室で会うと、遥はいつもの声で、おつかれ、と言う。
電車で脚を広げて座る男を見ると、頭の中で文面ができあがる。句点の位置まで決まっているのに、出す先がない。できあがった文面は消えないまま、次の文面の下に溜まっていく。駅では、喫煙所の前を通らなくて済むように、ひとつ先の出口を使うようになった。匂いもやけに鼻につく。エレベーターには誰かのタバコが残っていて、隣の席の吉岡さんのコートには焼き肉が染みている。玄関には父から届いた米の箱が、開けないまま置いてある。
週末に、父から電話が来た。電話の向こうで、サッシの閉まる音と、ライターを擦る音がする。
「米、届いたか。返事がないって、母さんが気にしててな」
「届いてる。まだタバコ吸ってんの。死ぬよ」
父は少し黙った。
「新米だからな、水は少なめでいい。目盛りの線より、ちょっと下だ」
電話を切って、米の箱のテープをはがす。その夜は、炊飯器の目盛りより少し下まで水を入れた。
夜はログインの画面を開く。ユーザー名まで打って、パスワードの欄で手を止めて、閉じる。消してから何日目かは、カレンダーを見なくても言える。三十日目の夜は、スマホを台所に置いて寝た。
何日かたった三時に、個室で新しいアカウントを作った。名前の欄には「あ」とだけ打つ。生年月日を入れて、メールに届いた確認の番号を打ちこむと、ユーザー名には数字の並んだものが勝手に付いた。アイコンは灰色の人の形のまま。自己紹介の欄は空欄のまま次へ進んだ。
おすすめの欄に、私の投稿を引用したあのアカウントが出てくる。それはフォローせずに閉じた。
前のとは別のものだ。フォロワーはゼロで、書くとしても天気のことくらいにする。人のことを書かなければ、日記と変わらない。最初の投稿は「寒い」の一言にした。通知の欄は、夜になっても空のままだ。
フォローの一人目には、晒しアカウントを選んだ。今は知らない男の人の昔の投稿を貼っていて、保育園の送り迎えの愚痴と上司の悪口が、日付つきで並んでいる。いちばん下には、こういう人が親なのが一番かわいそう、と添えてあった。子どもを預けておいて迎えの時間に文句を言うのか、と思いながら、私はそれを最後まで読んだ。タイムラインに戻ると、知らない人の「自転車で歩道走る奴、全員死ねばいい」に、いいねが二万ついていた。
十二月の同期の忘年会は、駅前のあの居酒屋だった。遥を入れて三人吸うから、と幹事の須藤くんが加熱式タバコ専用の部屋を取っている。遥はほかの空いた席を通り過ぎて、私の隣に座る。大皿の唐揚げには、誰かが聞かずにレモンを搾っていた。乾杯が終わると、須藤くんが向かいの小池さんにスマホの画面を見せた。
「ちょっと前に燃えてた嫌煙の人、見た? 喫煙者は全員死ねばいいってやつ。あれ、絶対どっかの会社員だよ。昔の投稿、平日の三時ばっかりなんだって」
「見た見た。元ヤニカスの嫌煙が一番タチ悪いって、ほんとそれ。うちの会社にいたらきついわ」
「熊谷さんは? 吸う側として」
「私は、聞いてから吸うから」
須藤くんが手を叩くまねをした。遥は口の端だけで笑って、スティックを本体に差しこむ。何も聞かずに、それが震えるのを待って、口をつけた。正面を向いたまま吐いたものが、テーブルの上に広がって、私の取り皿のほうへ流れてくる。
トイレに立って、個室で新しいアカウントを開いた。
「同期が隣で」
そこまで打ってから、使っていない水を流した。




