始まりの海で、あなたと永遠を
漆黒の闇が、ゆっくりと視界を覆っていく。
冷たい。息ができない。喉の奥まで苦い塩水が落ちてくる。
遠ざかっていくのは、船上パーティーで輝いていた煌びやかな船の灯り。そして私、子爵家令嬢セレナ・ブランシェを甲板から突き落とした、異母妹の優越感に満ちた笑顔だった。
(ああ、私……ここで死ぬのね……)
冷遇され続けた18年間だった。母が亡くなり、継母と妹が家にやってきてから、私の居場所はどこにもなかった。せめて誰の邪魔にもならないよう、おとなしく生きてきたつもりだったのに。
私の意識は、冷たい海の底へと溶けるように途切れた。
——はずだった。
「……おい。起きろ、人間」
鼓膜に届いた、低く掠れた声。
ハッと目を開けると、そこは水の中ではなかった。
代わりに視界に飛び込んできたのは、古い木製の天井と、鼻をつく潮と木材の匂い。そして、目の前に立つ一人の男だった。
窓から差し込む月明かりを背にして立ち尽くすその男の姿は、息をのむほど美しかった。
乱れた銀髪に、闇夜に光る金色の瞳。軍服のような漆黒の上着を羽織り、腰には古風な剣を差している。だが、その肌は生者とは思えないほど青白く、どこか浮世離れした冷たさを纏っていた。
「……私、生きて……?」
「死んではいない。俺が拾い上げたからな」
男は冷淡な声で言い捨てると、腕を組んで私を見下ろした。その瞳にはあからさまな不快感と警戒心が宿っている。
「お前、名は?」
「……セレナです。セレナ・ブランシェ」
「セレナか。俺はヴァンだ。この『黒鱗号』の船長をしている」
「くろ、うろこ号……?」
黒鱗号、そして船長。彼の言葉を口の中でなぞりながら、私は眩む頭で理解する。
木材のきしみ、身体に伝わってくる不規則な揺れ、そして鼻をつく潮の香り。ここは、海に浮かぶ船の中なのだろうか。
ヴァンと名乗った男は、心底忌々しそうに息を吐いた。
「ハッ、災難だな。生きた人間を乗せるつもりなど毛頭なかった。海中で妙に光るものがあるから、珍しいお宝でも沈んでいるのかと引き上げてみれば……光っていたのはネックレスで、くっついてきたのは冷たくなったお前だ」
彼は私の胸元で輝く、母の遺品の宝石を一瞥する。
「……なんだその顔は。自分が今、どこにいるのか分かっていないようだな」
顎で指し示された窓の外を見るために、私は重い身体を起こし、這うようにして窓辺へ寄った。
そして、息を飲んだ。
推測通り黒鱗号は海を進んでいたが、その光景は私の知っているものとは違っていた。船体は所々が透け、青白い光を放っている。甲板では、人の形をした黒い影のようなものたちが、黙々とロープを引いていた。
「ここは……」
「幽霊船だ。ここにいるのは俺と、俺の意思で動く従者ども。声も命も持っていない。……ここは本来、お前のような生の温もりを持った人間が踏み入る場所ではない」
「それじゃあ、貴方は……」
「……俺もまた、呪われた魔物だ」
呆気に取られる私の姿に、ヴァン様は眉間へ深い皺を寄せた。
そして、私の濡れた身体を一瞥すると、舌打ちをしながら着ていた上着を脱ぎ、私の頭から乱暴に被せてきた。上着からは、ほのかに潮の香りがした。
「……着てろ。風邪を引かれたら胸糞が悪い」
「あ……ありがとうございます、ヴァン様」
礼を言うと、彼は「なんだこいつ」と言いたげに苦々しい顔で私を凝視した。
「怖がらないのだな。幽霊船だと聞いて発狂するかと思ったが」
「……私を殺そうとした人間より、命を拾ってくださった貴方の方が、ずっと温かいですから」
私の言葉に、ヴァン様は金色の瞳をわずかに見開いた。だが、すぐにフンと鼻を鳴らして背を向ける。
「勘違いするな。お前を助けたのは気まぐれだ。それに……お前がここにいられる時間には、限りがある」
ヴァン様は振り返ることなく告げた。
「1ヶ月。それが、生きた人間が霊力の強いこの船に滞在できる限界だ。それを過ぎれば、お前は人間の理性を失い、永遠に海を彷徨う狂った魔物となる」
「……魔物、ですか」
「そうだ。そして、人間として陸に戻るには、お前がこの船に拾われた始まりの海域である必要がある」
ヴァン様は振り返って私を見下ろし、どこか言い聞かせるように言葉を続けた。
「その機会はたった一度きり……ちょうど1ヶ月後、潮の流れが一周してお前を拾ったあの海域を通る時だけだ。それまでは……勝手に生きろ」
冷たい言葉。けれど、私にかけられた彼の上着は、優しく肩を包み込んでいた。
♢♢♢
幽霊船での生活は、思いのほか穏やかだった。
『勝手に生きろ』と言われた私だったが、子爵家で冷遇され、使用人以下の扱いを受けていた私にとって、身の回りのことを自分でするのには慣れていた。
居食住の提供をただ待つ気は毛頭ない。お世話になる以上、自分にできることで恩を返したかった。
私は手に入れた古い雑巾を手に、甲板の拭き掃除やロープの整理を手伝い始めた。
最初は気にする素振りも見せずただ黙々と船を動かし続けていた従者たちも、私の慣れた手つきに感心したように作業スペースを譲ってくれるようになった。
言葉は交わせなくとも、真摯に向き合えば彼らも私を邪魔者としては扱わない。
しかし、一つ問題があった。それは食事だ。
従者たちはもちろん、魔物であるヴァン様は食事を必要としない。当然、この船には食料の備蓄などなかった。
一晩経ってお腹が鳴り、ヴァン様に「何か食べるものはありますか」と尋ねてみたものの、厨房で渡されたのは、古びた壺に入った僅かな塩と、干からびた乾燥野菜だけ。
(うん、まあ……飢え死にするよりはマシよね!)
自分の食事が用意されていないことが当たり前だった私は、諦めるどころかすぐに腕をまくった。
本で読んだ知識を思い出しながら、船の隅から使えそうな糸と針金を見つけ出すと、手際よく仕掛けを作り海へと垂らす。令嬢らしからぬ逞しさでじっと海面を見つめていると、運良く丸々と太った魚が針にかかった。
「よっ……と!見事な大物!」
勢いよく釣り上げた魚が甲板で跳ね、私は思わず笑みをこぼした。
さっそく厨房へ持ち込むと、乾燥野菜と塩、そして捌いた魚を鍋に放り込み、じっくりと火にかける。やがて潮の香りと魚の旨味が混ざり合った素晴らしい匂いが立ち込め始めた。
「よし、美味しそうにできた!」
木の器にホクホクと湯気が立つスープを盛り付ける。
すると、背後から低い声が響いた。
「……お前、そこで一体何をしているんだ」
振り返ると、ヴァン様が腕を組んでドアの枠に寄りかかっていた。私の手に持つスープと誇らしげな顔を交互に見比べ、彼は心底信じられないものを見るような顔をしている。
「何って……お夕飯の調達と調理です。ヴァン様も、いかがですか?」
私がにっこりと笑って器を差し出すと、彼は眉間を押さえ呆れたように息を吐いた。
「……お前、図太いな。命からがら拾われた身で、よくもまあそこまで逞しく生活環境を整えられるものだ」
「生憎と、冷遇には慣れておりますので!ほら、ヴァン様も一口どうぞ」
匙にスープをすくい、彼の口元へと躊躇なく突き出す。
「お前、俺に向かってなんという不敬を……!」
ヴァン様は引き気味に顔をそむけようとしたが、私の真剣な眼差しに気圧されたのか、諦めたように溜め息をつくと口を開いた。
そして、スープを一口飲んだ瞬間、金色の瞳が驚きに大きく見開かれた。
「……ヴァン様?」
「……食の味など、何百年ぶりだ……?」
彼の手が、かすかに震えていた。
「温かい……味がする。スープの塩気も、魚の旨味も……わかる」
「え?」
「本来、魔物には味覚がないんだ……お前、何か妙な魔法でも使ったのか?」
「失礼ですね!ただ心を込めて作っただけですよ」
彼は信じられないといった様子で自分の手を見つめ、それからスープをじっと見つめた。そして、どこか照れくさそうに顔を背けると、ボソリと呟いた。
「……美味い。お前が作ったから、美味いのか」
その言葉に、今度は私の胸が跳ねた。
それ以来、ヴァン様は時折、近くを通る島に寄ってくれるようになった。
幽霊船や船員の姿は、船に迎え入れられた者や死の間際にある者など、特殊な条件が揃わなければ認識できないらしい。そのため、堂々と沿岸に船を停め、私を買い出しへと送り出してくれるのだ。
そして、「監視だ」と言いながらヴァン様も付いてきてくれる。
「おい、あの野菜を買え……ポトフが食いたい気分だ」
「ふふ、わかりました。じゃあ今日の晩御飯に作りましょう」
周囲の人々には私が一人で話しているように見えてしまうため、不審に思われないよう小声でやり取りする。
こんな調子で、ヴァン様の希望通りに食材を買い揃えていくのだ。
そして、買い出しの帰りがけになると、毎回決まって『あのくだり』が始まる。
立派な仕立屋の前に差し掛かると、背後から不機嫌そうな低い声が耳元に届く。
「……この店に入るぞ」
「えっ?ですが、私はお金もありませんし、今の服で十分です」
「黙って入れ。俺の船に乗っている以上、見苦しい格好をするな」
(また始まった……)
始まりは、元々着ていた服がすっかり痛んでしまったため、何か代わりになるものはないかと尋ねたことだった。それからは島に寄る度に服屋に連れていかれるようになった。服はもう十分だといつも辞退するものの、結局ヴァン様に押し切られてしまう。
不器用極まりない言い訳をしつつ、なんだかんだと私に新しい服を選ばせようとするヴァン様。
毎回繰り返されるこのお決まりのやり取りに、彼の優しさを感じて、私は口元が緩むのを必死で押さえていた。
♢♢♢
買い出しで手に入れた食材の仕込みを終え、風に当たろうと甲板へ出た時のこと。
それまで燦々と降り注いでいた太陽の光が、唐突に掻き消えた。見上げれば、まるで墨を流したかのような濃密な黒雲が空を覆い尽くしていく。潮風は氷のように冷たくなり、海面からは禍々しい気が立ち上り始めた。
「……何……!?」
驚く私の前に、すっと黒い影が立ち塞がった。普段は淡々と作業をこなすだけの従者たちが、怪異から私を守るように囲う。
「ちっ、鬱陶しい奴らが来たか」
ドアが勢いよく開かれ、ヴァン様が甲板へと躍り出た。
黒い海面からうごめくように這い登ってくるのは、深海に潜む魔物たち。ヴァン様の持つ金品や宝を狙って集まってきた凶悪なものたちだ。
「部屋に入っていろ!」
ヴァン様の鋭い一喝に弾かれたように、私は急いで船内へと駆け込み、扉を閉めた。けれど、外で激しい金属音と地鳴りのような咆哮が響き渡る中、じっとしていられるはずもない。私は息を殺し、通路の小窓から外の様子を覗き込んだ。
漆黒の剣を振るい、群がる魔物を次々と切り伏せていくヴァン様。その圧倒的な強さに息を呑む。
けれど、一頭の巨大な魔物が弾き飛ばされた衝撃で、私のすぐ横にあったドアが凄まじい音を立てて吹き飛んだ。
「きゃっ……!?」
鋭い破片で腕を切ってしまい、たらりと朱い血が床に垂れ落ちた。
そして、白煙と木片が舞い散る中、剥き出しになった室内へ別の魔物が飛び込んでくる。
魔物は私を見つけると、裂けた口を歪めてニヤリと不気味に笑った。
向けられた凶悪な殺気と、振り上げられた鋭い爪。直面した死の恐怖に全身の血が引き、膝がガタガタと震えてその場にへたり込んでしまう。逃げなければいけないのに、腰が抜けて指一本すら動かすことができない。
魔物が私に向かって足を踏み出した、その時。床に垂れていた私の血を踏みつけた。
——ジュッ!
「ガァアッ!?」
まるで強酸にでも触れたかのように凄まじい煙が上がり、魔物の足裏が溶け出した。激痛に狂ったような悲鳴を上げ、魔物がその場に怯む。
「……俺の船で、何をしている」
魔物越しに聞こえた、氷のように冷たい声。そして同時に、魔物を一刀のもとに両断していた。
「ヴァン様……!」
「無事か!」
普段の冷徹な姿からは想像もつかないほど焦惑した顔で、ヴァン様が駆け寄ってくる。
私の無事を確かめるように見つめる彼の瞳に、安堵の色が浮かんだ、その一瞬の隙だった。
ズバッ、と生々しい嫌な音が響く。
壊れたドアの隙間から這い出てきた敵が、無防備になったヴァン様に背後から切りかかったのだ。
「ヴァン様っ!!」
「……くっ、鬱陶しい……!」
背中から漆黒の血を撒き散らしながらも、ヴァン様は顔色ひとつ変えず、背後の敵を振り返り様に叩き切った。
そして、残った魔物たちを凄まじい攻撃で一掃し、なんとか敵を追い払ったのだ。
しかし、船に静けさが戻った途端、ヴァン様の膝がガクリと折れた。
「ヴァン様!」
駆け寄った私の腕の中に、彼の大きな体が倒れ込む。不死身とはいえ、負った傷はあまりにも深く、重症だった。
「……何の、真似だ。言ったはずだぞ、俺は魔物……心配は無用だ」
荒い息を吐きながら、虚ろな目で私を見上げたヴァン様は、それだけ言うと意識を失ってしまった。
私は何故か溢れ出てくる涙を流しながら、彼の体をしっかりと抱きしめた。
従者たちの手を借りて、彼を部屋のベッドへ運び込む。
私は買い出しの際に買っておいた薬草と布を引っ張り出し、指先を震わせながら手当てを始めた。
背中の傷は痛々しく、不死身の彼であっても苦痛に眉をひそめるほどだった。
(もっと傷の手当てや医療の知識があれば……!)
無力さに悔し涙が滲む。傷口を清めて薬を塗り、包帯を巻くことくらいしかできない自分が情けなくて仕方がなかった。
それからヴァン様は丸三日間、一度も目を覚まさなかった。
私は彼の傍で看病を続けたが、ついウトウトしてベッドの脇に突っ伏したまま寝てしまっていた。
ふと頭に温もりを感じて意識が浮上した。まるで幼子を慈しむように優しく、ポンポンと頭を撫でられているような違和感。
「あ……」
目を開けると、ベッドの上で上半身を起こしたヴァン様と正面から目が合い、慌てて飛び起きる。
「ヴァ、ヴァン様……!すみません、私、寝てしまって……!」
必死に頭を下げて謝る私を、ヴァン様はどこか呆れたような、けれど温かい眼差しで見つめていた。
彼は自分に巻かれた歪な包帯と、ベッド脇のテーブルに置かれた薬、そして準備された替えの包帯へと視線を滑らせる。
「……本当にお前は、おもしろい奴だな」
ふっと、ヴァン様の唇が柔らかい弧を描いた。
いつもの不機嫌な顔ではなく、穏やかな笑顔。
初めて見る彼の微笑みに、胸が跳ね上がるような衝動を覚え、顔が一気に熱くなった。
(……やだ、私、どうしてこんなに鼓動が……)
自分の動揺を悟られないよう、私は視線を泳がせながら努めて平然を装って問いかけた。
「怪我の状態はいかがでしょうか……!?何か、お腹に優しい食事でもご用意しましょうか!」
「あんな切り傷、どうということはない」
ヴァン様は吐き捨てるように言うと、巻かれていた包帯を無造作に引きちぎった。
「えっ、だめです、まだ……」
制止しようとした言葉が喉で詰まる。
あんなに痛々しく裂けていた背中は、跡形もなく綺麗に塞がり、元通りの傷一つない肌に戻っていたのだ。
「そんな……あんなに深い傷だったのに……」
「言っただろう、俺は魔物だ。傷などすぐに塞がる」
呆然とする私に、ヴァン様は当然のように鼻を鳴らす。
分かってはいたけれど、やはり彼は魔物なのだと思い知らされる。
「……だが」
彼は気まずそうに少しだけ視線を逸らし、口元をへんの字に結んだ。
「……食事は、頼む」
魔物で、強くて、不老不死の船長様。けれど、私にだけ見せてくれるこの愛おしい不器用さに、口元が綻んでしまうのを抑えられなかった。
「ふふ、はい!すぐに作ってきます!」
私は弾むような足取りで、彼の部屋を後にするのだった。
♢♢♢
幽霊船での生活もあと僅かとなった頃、私は夜の甲板へと足を進めた。
潮風が心地よく頬を撫でる。
見上げると、吸い込まれそうなほど美しい星々が夜空一面に広がり、海面を煌めかせていた。
「……綺麗」
甲板の柵にそっと手をかけ、息を吐く。
「……風邪引くぞ」
背後から届いた低く静かな声に振り返ると、そこにはヴァン様が立っていた。月の光を浴びたその姿は、相変わらず浮世離れして美しい。
「腕の傷はもういいのか」
「えっ?あ、はい!少し掠っただけですから、もうすっかり!」
「たくっ……自分より他人の心配ばかりしおって」
ヴァン様は呆れたように息を吐きながら、私の隣へと歩み寄り、共に夜空を見上げた。
「……あの、ヴァン様。少しお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだ」
「あの襲撃の時……私の血を踏んだ魔物の足が、ジュッと溶けたように見えたです。……あれは、一体何だったのでしょうか」
私の問いに、ヴァン様は少しだけ目を細め、静かに口を開いた。
「……魔物や邪物にとって、人間の生き血は猛毒だ。触れれば焼き尽くされる」
「そう、だったのですね……」
合点がいき、納得の吐息を漏らす。その横顔を、ヴァン様はじっと見つめていた。
「……そういえば、ずっと気になっていた。お前はなぜ、あんな海の真ん中に沈んでいたんだ?」
ヴァン様の問いに、胸の奥がキュッと痛んだ。
忘れてしまいたい、けれど消えない過去。私は夜空の星を見つめたまま、ぽつりぽつりと絞り出すように語り始めた。
「……私の実家は子爵でした。優しかった母が病死した後、父は以前から不倫関係にあった継母と妹を家に連れてきたんです。その日から、私の世界は一変しました」
冷たい部屋に押し込められ、使用人以下の扱いを受ける日々。果てには、唯一の婚約者までも妹に横取りされ、邪魔者の私は冷たい海へと突き落とされたのだ。
「冷たくて、暗くて……息をするのすら辛い毎日でした」
あの家で生きていた頃の私は、ただ生き延びているだけの、空っぽな人形だった。
昔を思い出し、自分の腕をぎゅっと抱きしめる。涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
すると、ぽん、と頭に心地よい重みが降ってきた。
見上げると、ヴァン様が不器用に、けれど包み込むように優しく、私の頭をポンポンと撫でていた。視線はどこか気まずそうに海へと向けられている。
「……下らん奴らのために、涙を流す価値などない。お前はもう、あんな場所に捕らわれる必要はないんだ」
「ヴァン様……」
ぶっきらぼうで、けれどどこまでも温かい言葉。
たった1ヶ月弱の、この幽霊船での生活。
魔物になるかもしれないタイムリミットに怯え、邪悪な魔物に襲撃されることもあるような、命がけの日々。
なのに、どうしてこんなにも心が満たされ、温かいのだろう。
不気味で恐ろしかった不老不死の船長様。
けれど彼は、私に綺麗な洋服を買い与え、私の料理を美味しいと言いながら食べ、そして命の危険に晒された時は身を挺して守ってくれた。
誰かに大切にされることが、こんなにも心を満たしてくれるのだと、私はこの船で知ったのだ。
(私……ヴァン様のことが、好きなんだわ)
自分の胸にそっと手を当てる。
深く息を吸い込むと、確かな恋心が胸の中で芽吹き、愛おしさが全身を満たしていくのが分かった。私にはもう、陸の上に帰りたい場所なんてなかったのだ。
けれど、愛おしさが募れば募るほど、残酷な現実が胸を刺す。
潮の巡りが一周する、あとわずかな日々。
私が落ちた海域に到達した時、この船を降り、人間としての生活に戻らなければならない。さもなければ、理性を失った魔物になってしまうから。
「帰りたく……ないよ……」
ヴァン様に聞こえないようポツリと溢れた本音は、夜の静かな潮騒の中へと切なく消えていった。
♢♢♢
ついに、この日が来てしまった。私が人間として陸へと帰る、運命の日。
船は小さな港町の沖合へとたどり着いた。そこは私の実家から離れた、のどかで穏やかな町だ。
「ここで船を降りろ」
甲板で、ヴァン様は冷ややかに告げた。
彼の前には、船から陸地の桟橋へと架けられた長いタラップが伸びている。
「ここならお前の実家の手も及ばん。……数ヶ月は不自由なく暮らせる金をやるから持って行け。人間として、好きに生きろ」
手渡されたズシリと重い革袋。
ヴァン様は一度も私の目を見ようとせず、海へ視線を向けたままだ。最後まで不器用な彼の優しさに、目頭が熱くなる。
胸を刺すような痛みを堪え、私は静かに頷いた。彼に迷惑をかけてはいけない。
私は言われるがままに足を進め、陸へと続くタラップへと手をかけた。
けれど、足場に片足を乗せた瞬間、胸の奥から溢れ出す問いかけに、どうしても先に進むことができなくなってしまった。
(本当に、このまま行ってしまっていいの……?人間として生きることが、私の幸せなの……?)
一度降りてしまえば、二度とこの船には戻れない。ヴァン様とも永遠にお別れだ。
私は踏み出していた足を引くと、弾かれたように振り向き、ヴァン様のもとへと駆け寄った。
「ヴァン様……私、戻りたくありません!あなたと一緒に……」
「……っ、バカを言うな!」
ヴァン様の怒声が甲板に響き渡った。金色の瞳が、悲痛に揺れている。
「あと数分で1ヶ月が経つ!そうなればお前は理性を失い、醜い魔物となって永遠に苦しむことになるんだぞ!俺と同じ呪われた世界に引きずり込めるわけがないだろう!」
「……っ、ヴァン様と過ごしたこの一ヶ月が、私の人生で一番幸せだったんです!」
「行け!!」
ヴァン様は、私の肩を掴んで強く陸地の方へと押し返した。
「二度と戻ってくるな。お前など……最初から拾わなければよかった」
吐き捨てられた言葉。けれど、私の肩を掴む手が震えているのを、私は見逃さなかった。
(ウソつき……)
私は唇を強く噛み締め、涙を拭った。これ以上彼を困らせたくない。
私は背を向け、タラップへと足をかけた。
一歩、二歩。
階段を踏みしめるたび、ヴァン様との思い出が蘇る。料理の味に驚いていた顔。不器用な言い争いをした買い出し。夜の甲板で優しく頭を撫でてくれた大きな手。
(さようなら、私の大好きな船長さん……)
あと数歩。
このタラップを降り切り陸地へ足を踏み出せば、私は人間として平穏な未来を手に入れる。妹たちのいない、自由な世界で生きていける。
——最後の、一歩。
私の靴が、地面へ触れようとした、瞬間だった。
グオオオオオオオオオッ!!!!
地鳴りのような咆哮が海を揺らし、私はタラップの手すりにしがみついた。
突如として海面が爆発するように弾け、漆黒の巨大な触手が、幽霊船を取り囲むように現れたのだ。
「なっ……!伏せろ、セレナ!」
ヴァン様の叫び声の後、激しい衝撃が船体を襲い、幽霊船のマストがバキバキと音を立てて折れる。
「ヴァン様!?」
振り向いた私の視界に飛び込んできたのは、折れたマストの下敷きになり、巨大な触手に足をとられて海の底へと引きずり込まれていく彼の姿だった。
「くっ……!逃げろ、セレナ!早く陸へ行け!振り返るな!!」
ヴァン様は血を吐きながらも、ただ私だけを見つめて叫んでいた。
あと一歩、脚を伸ばせば、私は助かって人間として生きられる。
私は、陸地を見つめた。安全で温かくて、けれど、ヴァン様のいない退屈な世界。
(……そんなもの、いらない!)
私は誰かに与えられた幸せを生きるために助けられたんじゃない。自分の大切なものを、自分の手で守るんだ。
あの夜、ヴァン様が教えてくれた言葉が脳裏に蘇る。
『魔物や邪物にとって、人間の生き血は猛毒だ』
(私に……今の私にしかできないことがある!)
「セレナ……!?」
私は陸地に踏み出しかけていた足を引くと、躊躇なく背を向けた。そして、タラップを全力で駆け戻った。
「来るな!!」
「嫌です!あなたを置いて逃げるくらいなら、死んだ方がマシです!」
甲板にたどり着いた私の足元に、ヴァン様が衝撃で落とした漆黒の剣が転がっていた。
私はその剣を拾い上げると、刃を自分の左腕に力任せに押し当て、深く引き切った。
「くっ……!」
溢れ出す朱い血。しかし、痛みを感じる間もなく、私は荒れ狂う海へと迷わず飛び込んだ。
冷たい海水が全身を包み込む。泡立つ水中の中、海流に逆らって目を凝らす。
深い海の底へと引きずり込まれていくヴァン様と、彼に強固に巻きついている巨大な触手。
(届いて……っ!)
私は必死に腕を動かし、ヴァン様のもとへと潜降した。
驚愕に目を見開く彼を目の前にして、私は切りつけた左腕を伸ばすと、彼に巻きついている触手へ、溢れ出る自分の血を強く擦り付けた。
——ジュウウッ!
人間の血に触れた瞬間、魔物の触手は激しく溶け出していった。
「ガアアアアッ!?」
海底を揺らすほどの悲鳴を上げ、魔物の触手は激しい泡を吹き散らしながらヴァン様を解放した。
彼はすぐさま私の腰を引き寄せると、力強い腕で私を抱きかかえて海面へと一気に浮上した。
水面から差し込む光が、少しずつ近づいてくる。
彼の腕に包まれて安堵の笑みを浮かべた、その時だった。
ドクンッ、と全身の血が逆流するような、痛烈な衝撃が胸の奥を貫いた。
(……あ……)
終わりを告げる刻の針が落ち、絶望的なタイムリミットが到来したことを、身体中の細胞が告げていた。
(ああ……体が……)
視界が歪み、全身の骨が組み替わるような激しい痛み。人間の理性が剥がれ落ちていくような感覚。これが、魔物化。
ヴァン様の腕の中で、私の意識は急激に暗闇へと呑み込まれていく。
「セレナ……!セレナ!!」
海面へと顔を出した瞬間、ヴァン様は私を抱きしめたまま悲鳴を上げた。
「くそっ……!俺のせいだ……俺がもっと早くお前を陸へ届けていれば……!俺のせいで、お前を醜い魔物に変えてしまった……っ!」
私を強く抱きしめながら、自らを激しく責めるヴァン様。
理性を失っていく恐怖が私を襲う。けれど、私は最後の力を振り絞り、彼の背中にギュッと腕を回した。
(いやだ……もっと、もっとヴァン様と一緒にいたい!)
心からそう祈った時、眩い輝きが、海を満たした。
痛みが、恐怖が、すうっと消え去っていく。
同時に、私の肌はまるで深海を写し取ったかのように美しい透明感のある淡い青色へと変わり、指先や足首には繊細な透かし彫りのような美しいヒレが伸びていた。
「……ヴァン、様」
そっと目を開けると、ヴァン様は息を呑み、言葉を失って私を見つめていた。
「な……んだ……これは……」
自ら血を流し、命を賭して愛する者を護ろうとした決意。それが呪いを凌駕し、私を恐ろしい魔物ではなく、まるで海を統べる美しい女神のような存在へと変貌させていた。
「私、魔物になっても……ヴァン様のことが分かります。あなたのことが……大好きなままです」
私は青く染まった手で、そっと彼の頬を撫でた。
「バカな……本当にお前は、どこまで俺の常識を壊せば気が済むんだ……」
ヴァン様は呆れたように小さく笑うと、私を強く、強く抱きしめ返してくれた。
胸に溢れる温もりに浸っていた時。
「グオオオオオッ……!!」
触手を焼かれて激怒した巨大な魔物が、水面を大きく爆発させて再び姿を現した。
魔物は血走った目をギラつかせ、無防備なヴァン様と私の背後から、触手を振り下ろそうと迫ってくる。
「私、あの魔物を許しません!」
私はヒレを力強く振って海を滑り、魔物の目の前へと躍り出た。全身から溢れ出る新たな力に応えるように、高く掲げた青い両手を前に突き出す。
次の瞬間、海面が激しくうねり、巨大な水の柱が立ち上がった。そして、そこから鋭利に研ぎ澄まされた水流の槍が何本も生成され、襲いかかる魔物へと一斉に突き刺さる。
激しい衝撃音とともに、魔物は水底を揺るがすほどの断末魔を上げた。
黒い血を海に撒き散らしながら、今度こそ二度と浮き上がれない深海の底へと、魔物は引きずり込まれるように沈んでいった。
海に静寂が戻る。
海面に浮かぶ私を、ヴァン様は大切に抱き上げると、静かに幽霊船の甲板の上へと下ろしてくれた。
そして、ヴァン様は私に向き合い、絞り出すような声で呟いた。
「どうして戻ってきた……。人間として生きられたのに。ドレスを着て、美味しいものを食べて……幸せになれたはずなのに……!」
「私の幸せは、ここにあります」
涙ぐむ彼に、私は目を細めて優しく微笑んだ。
「ここには……私を誰よりも大切にしてくれて、美味しいと言って私の料理を食べてくれる、愛しい船長さんがいます」
「セレナ……」
「私は自分で選んだんです。魔物になってでも、あなたの隣にいることを」
ヴァン様は絶句し、それから自分の負けを認めるように、愛おしさに満ちた苦笑を漏らした。
そして、大きな手で私の頬を包み込むと、温かい口づけを落とした。
海の冷たさを忘れてしまうほど、深く、愛を確かめ合うような接吻。
ゆっくりと唇が離れると、ヴァン様は不敵で、けれどどこまでも優しい笑みを浮かべて私の額に己の額を重ねた。
「……もう二度と、放してやらないぞ。陸へ逃げようとしても、世界の果てまで追いかけて海に引きずり込んでやる」
「ふふ、望むところです」
終わりを迎えるはずだった、一ヶ月の航海。
けれど私は、終わりを投げ捨てて、永遠を選んだ。
「そういえばヴァン様、お腹が空きませんか?島で買った食材がまだ残っていますよ」
「ああ……お前の作った飯が食いたい」
「ええ、喜んで!」




