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清々しい風の吹く、日差しの痛い夏の朝。晴天に恵まれた今日は、多くの高校生にとっては憂鬱であり、わずかながら期待もある日だろう。
木の横をたくさんの学生たちが通っていく。1人で歩いて来る者、友達と和気あいあいとしながら歩く者、車に乗せてくれた保護者に手を振る者。それらをぼーっと眺めていると、隣の席に座っている大人しそうな男性の先生が何故か恐る恐る話しかけてきた。
「沙良君…本当に大丈夫なの……?」
この人が何を心配しているのかは聞かずともすぐに分かる。今日は夏休みが明け、二学期の始まる日。私はちょうどこの日にこの学校にて先生デビューをする。
先程〝聞かずとも分かる〟とは言ったが、思い当たる原因は複数もあり、この先生が何を心配しているのか特定できないので、私がこの問いかけに「よろしい、とは?」と返すと、先生はたどたどしく答える。
「……いや、別に反対している訳じゃないんだけど…ただ、とても新任の先生には荷が重いクラスだと思うんだよね」
なるほど、そっちですか。
私がこんな中途半端な時期に先生デビューをするのにはきちんとした理由が存在する。
私がこれから担任になるのは3年B組。生徒34名、3階の教室にあるクラス。他のクラスは極めて普通のクラスなのだが、実はそのクラスだけは超がつくほど治安が悪い、不良クラスなのだ。そのクラスの前の担任は生徒たちの仕打ちに遂に心が壊れたらしく、家から出られなくなったのだという。
新任の私がそんな危ないクラスの担任になる。この学校に勤めている先生達は、どうせこの人も耐えられなくなって終わるのだろう、と思っているに違いない。
心配そうに私に尋ねる先生に私は得意の笑顔を顔に貼り付けて、パソコンに目線を移しながら答えた。
「ご心配ありがとうございます。しかし、それには及びません。なにせ自分から立候補しましたし、責任を持って彼等の面倒を見ようと思っております」
そう強く言えるのにももちろん理由はある。それに、先生が家から出られなくなるほどとはどのくらいの仕打ちだったのか、個人的に興味がある。だから立候補をした。
パソコンの画面に並んでいる、たくさんの人間の名前を目で流し読みする。当たり前と言ってはいけないのだろうが、知っている名前は存在しない。
心配をしてくれているこの先生は、「君がそう言うなら…」とまだ気にかけている様子だが、私の見ている生徒の名前を覗き込みながら考え事をしているようだった。
しばらく眺めていると、ある生徒の名前に目がいったのか、先生が小さく「あ」と声を漏らす。
「どうかなさいましたか?」
「あぁ、いや、なんでもないよ。…おっと、僕は始業式の準備をするんだった。じゃあ僕は先に行くから。…君が女性だったら全力で止めていたところだけど………あの、沙良君、本当に気を付けてね」
そう言って席を立ち、たくさん物が入っている深緑色の鞄を持って職員室を出ていった。随分心配性なんだな、あの先生。
窓の外を見る。先程よりずいぶん学校に向かう生徒たちの姿は減っていて、騒々しかった外はものの数分でがらんとしていた。時計を見る。もう時刻は8時30分になろうとしている。二学期の始業式は9時から始まる。きっとその時ついでに新任の私が紹介されるだろう。
「なるべく早く行っておきましょうかね」
そう思い、私はパソコンを閉じてから職員室を後にした。
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生徒達はまだ教室で待機している。生徒達の出席確認をしてから始業式に臨むのだ。例の不良クラスがどうなのかは知らないが。私が出欠確認をする担当では無いのは確かだ。
あの教室に近いこの廊下には誰も居ないので、大人しく教室に居ると見た。流石に始業式は暴れないのだろうな、と、そう思っていた矢先、1つ先の角から騒音がすることにようやく気付いた。角を曲がった先には階段がある。その下には確か、掃除道具を入れているロッカーがあったはずだ。その騒音はロッカーに何か固いものがぶつかる音だと認識できた。ガタン、ガタンともカンカンとも取れるような騒々しく少々不快感のある音が辺りに響いている。音を出している人物は、かなりの確率でこの学校の生徒だろう。そしてその中でも多分3年B組の。
生徒達は出欠確認を取っている時間ではないのか?私の記憶が間違っていたのだろうか。私は小さく息を吐いてから、音の鳴る方に向かっていく。
「誰か居るのですか」
心に芽生えた少しの恐怖心を押し殺しながらそう呼びかけ、角を曲がった。その瞬間、体が一気に冷えた。バシャッと本来ならば心地よいと感じられる筈の音が響く。そのすぐ後に嘲笑うような、面白がるような笑い声が聞こえてきた。
「なんだこいつ、見ない顔だなぁ…って、おいおい!もしかして新しい担任ってこいつか!?」
「ちぇ、なんだよ男かよ〜」
「え、でもなんか女っぽくね??笑」
その言い方には腹が立つが、女性っぽく見えるのは認めている。自分の肩甲骨くらいまである黒髪(ところどころ黄色に染まっているが)を後ろで結っているのもあるが、顔立ちが女性っぽいらしいのだ。
しかし、〝女性っぽく見える〟と言われたことがあるだけで、素行や背の高さのお陰で女性と間違えられたことは無い。断じて無い。正直言われた時はショックだったし今でも根に持っているので女性いじりはやめてほしいものだ。
そしてどうやら私は頭から水をかけられたようだ。そこに居た人物がプラスチックのバケツを持っていたことでそう認識できる。今が夏でよかったと心底思う。冬だったら寒すぎて凍え死んでいただろう。
そして案の定水をかけてきた生徒は3年B組の者で、その胸元のバッヂを見ることで判別できる。人数は3人、いずれも男子だ。髪を黄色やピンクに派手に染めており、校則違反であるパーカーやピアスまで身につけている。典型的な不良で変な安心感まである。
多分ロッカーを叩いてこちらにおびき寄せ、その隙に水をかけたということだろう。そして、この人達の嫌がらせはこの程度では無いことは理解している。楽しむことを主にしている人達は始めからえげつない嫌がらせを使ってこないからだ。
私が新しい担任になるという情報をどこからか仕入れ、この行動に移ったのだと考えられる。これは私の様子見だと思った方が妥当だろうな。
前までの私なら何も言わずにやり返していたところなのだが、今の私は教師。そんなことをしたらすぐに問題になってしまう。初日からそんなことをしてしまえばすぐ教師の資格を奪われるのは目に見えている。まぁでも、相手が相手だから多少は緩和されるかもしれないが。
私は濡れてしまい、いつものツヤに更に磨きがかかった自分の長い黒髪を軽く絞って水気を取りながら、独り言をいうようにぼそぼそと言った。
「はぁ…困りましたねぇ。これから大事な式があるというのに、こんなにもビシャビシャに……」
髪を絞り終えたら今度はつけていた黒いネクタイを外し、髪と同様に軽く絞る。
「すみません、タオルを持ってきてはくれませんか?」
そこに立っている不良達に問いかける。私のその行動に驚いているのか、3人は只私をじっと見ていた。私がもっと慌てたり悲しんだりといった面白い反応をすると思ったのだろう。期待通りの反応が出来なくて私も悲しいですね…。
その中の一人が、何か口答えしようと小さく口を開いたと同時に、私は手にしているネクタイを鞭のようにして、その生徒の横目掛けて振り下ろす。
それは壁に当たり、バゴンッ!と到底ネクタイが出すような音とは思えないような爆音が私達の耳を劈いた。その衝撃で少し壁がへこんでしまい、思わず「あっ」と小さな声を上げてしまう。
それを見た3人はあからさまに血相を変えた。私を嘲笑うような態度だったものが、一気に恐怖へと変わった瞬間だった。
「いいから持ってきなさい。式に遅れます。」
私の声で我に返った一人が舌打ちをして走っていくのを、他の二人が追いかけるようにして去っていった。ガタンッとバケツが床に落ちた音がした。放り投げられたのだ。私はバケツを拾い上げながら、どうせタオルは持ってきてくれないのだろうなと、本日何回目かのため息をつく。
さて、この濡れてしまった服達を一体どうしようか。時刻は8時46分、式まではもう14分しかない。到底私の頭ではこの状況を打開する策が思い付かず、ネクタイを付け直しながらしばらくその場で考え込んだ。思いっ切り振り下ろした影響かネクタイはところどころ小さな穴を作っていたが、もうそれを気にしている余裕もない。せめてこのワイシャツだけでも着替えられればいいのだが…。
取り敢えず体育館に向かい、事情を説明しようと思ってその場を離れようとすると、後ろから何かを投げられた。しかしそれはとても柔らかいもので、ふぁさ、と私の背中に当たる。驚いて振り返ってみると、足元には真っ白なワイシャツが落ちていた。しかし肝心の投げた張本人が見当たらない。どういうことだろう、一体どこから来た物なのだろうか…誰かが悪ふざけをして落ちてきたものかもしれない。
得体のしれないワイシャツを手にして立ち尽くしていると、式10分前の合図となるチャイムが鳴りだした。私は後で謝ろうと思い、そのワイシャツに着替えて、代わりに濡れたワイシャツを窓前の手すりにかけてから、急いで体育館へと向かった。
式にはなんとか間に合った。ついた頃にはほとんどの生徒が体育館に並び終わっており、近くの親しい友達と雑談をして、時間が来るのを待っている。
先程の大人しそうな男の先生が私を見つけた途端にこっちだよ、と手を振ってくれた。
駆け寄ると、はい、と私に大きめのタオルを差し出してくれた。私が驚いているのを見て、その先生は笑い出す。
「なんで知ってるんだ、みたいな顔だね。教えてくれたんだよ、B組の生徒が」
「……3年、B組の?」
私は濡れた頭をタオルで拭きながら、確認するように聞いた。
「あぁ、君の今着ているワイシャツも、その子が差し出したやつなんだよ」
私はますます驚いた。確かにこのワイシャツはB組の人の物なのだろうなとは薄々感じていたが、まさか悪ふざけの類ではなく、本当に私に差し出してくれた物だったとは、と。
B組の噂があまりにも悪いもので盲目的になっていたが、どうやら全員が全員素行が悪いという訳ではないようだ。心の何処かで安心した自分が居ることにもまた驚く。後で感謝を伝えないとな、と思い、先生に差し出してくれた生徒の名前を尋ねた。
「………実は、口止めされててね…まぁでも、会ったらすぐ分かると思うよ。彼は他の子より一段と大人しい子だからね」
そうですか、と相槌を打ちながら拭き終えて用無しになったタオルを先生に返す。それからすぐに始業式が始まった。
全てを暴力で解決しようとする脳筋沙良先生。
次回にご期待ください。




