第八章 風の精霊
粉塵が、問題になり始めたのは夏の盛りだった。
王都郊外の廃屋解体を進めていたとき、近隣の農家から苦情が入った。畑に灰色の砂が積もる。洗濯物が汚れる。子供が咳をするようになった。
「……まずいな」
拓海は現場を見渡しながら呟いた。
廃屋は半ば崩れかけた石造りの建物だった。かつては裕福な商人の別邸だったらしいが、持ち主が死んでから五十年以上放置され、今では壁の半分が崩落し、残った部分も風化が進んでいる。
問題は、この建物の壁材だった。魔導石灰と呼ばれる特殊な素材で、乾燥すると細かい粉末になって風に舞う。人体に有害ではないが、農作物に付着すると成長を阻害し、布に染み込むと洗っても落ちない。
「散水しても追いつきません」
リーネが報告書を手に言った。
「風が強い日は作業を止めるしかないですが、そうすると工期が大幅に遅れます」
「他の現場でも同じ問題が起きる可能性がある」
拓海は腕を組んだ。
解体作業に粉塵は付き物だ。日本では散水と養生シートで対処していたが、この世界にはビニールシートのような便利な素材がない。麻布を張ってみたが、目が粗くて粉塵を完全には防げなかった。
「何か、根本的な解決策が必要だ」
そう考えていたとき、新しい依頼が舞い込んだ。
依頼主は、王都から馬車で半日の距離にある領主だった。領地の森に古い魔導炉が放置されており、周囲の木々が枯れ始めているという。
「魔導炉……」
拓海は依頼書を読みながら呟いた。
魔導炉とは、魔石を燃料にして熱や光を生み出す装置だ。かつての貴族は、これを使って温室を暖めたり、鉱石を精錬したりしていたらしい。しかし、維持費がかかるため、時代とともに廃れ、今では放置されているものが多いという。
「処理の難易度は?」
「中程度です。魔導炉自体は壊せば終わりですが、炉心の魔石が残っていると、そこから魔素が漏れ続けます。炉心の状態を確認してからでないと、正確な見積もりは出せません」
「分かった。現地を見に行こう」
翌日、拓海とリーネは依頼主の領地を訪れた。
案内されたのは、領主館から森を抜けた先にある空き地だった。
そこには、確かに魔導炉があった。
高さ三メートルほどの円筒形の構造物。表面は錆びた金属で覆われ、ところどころに亀裂が走っている。周囲の地面は灰色に変色し、草一本生えていない。
だが、拓海の目を引いたのは、魔導炉ではなかった。
その周囲に広がる森だ。
木々は立ち枯れていた。葉は全て落ち、幹は灰色に変色し、まるで巨大な墓標が林立しているような光景だった。
「ひどい……」
リーネが息を呑んだ。
「魔素汚染です。炉心から漏れ出した魔素が、土壌に染み込んで、植物を枯らしています」
拓海は「廃棄物鑑定」を発動した。
【廃棄物鑑定 発動】
対象:放棄魔導炉(旧式)
構造:円筒型魔素燃焼炉。炉心に魔石を配置し、燃焼させて熱エネルギーを取り出す方式
状態:稼働停止後約80年経過。炉心の魔石が不完全燃焼のまま放置
汚染範囲:半径約200m(拡大中)
危険度:B(慢性的な魔素漏出。長期曝露で健康被害の可能性)
資源価値:C(炉体の金属は再利用可能。炉心の魔石は状態次第)
推奨処理手順:
炉心の魔石を安全に取り出す
炉体を分解し、金属を回収
汚染土壌を除去し、浄化処理
「炉心の魔石を取り出せば、汚染は止まる」
拓海は分析結果を頭の中で整理しながら言った。
「ただ、この森は——」
「もう、元には戻らないわ」
声がした。
拓海とリーネは振り返った。
誰もいない。
「誰だ」
拓海は周囲を見回した。木立の影にも、草むらの中にも、人の気配はない。
「ここよ」
声は、上から聞こえた。
見上げると、枯れた木の枝の上に、何かが座っていた。
それは、少女だった。
いや、少女のように見える何か、だった。
外見は十四、五歳ほど。銀色に輝く髪が風になびいている。瞳は空の色よりも淡い青。肌は透き通るように白く、木漏れ日が当たる部分は薄く透けて見えた。
そして、その背中からは、蜻蛉の羽のような透明な翅が生えていた。
「……精霊か」
拓海は呟いた。
この世界には、精霊という存在がいる。自然の力が形を持ったもので、風、水、火、土など、様々な種類がいるらしい。人間と契約を結ぶ精霊もいるが、野生の精霊は気まぐれで、人を助けることもあれば、害をなすこともあるという。
「そうよ。風の精霊。名前は——」
少女は首を傾げた。
「名前は、忘れちゃった。ずっと昔につけてもらったけど、呼ぶ人がいなくなったから」
「この森に住んでいたのか」
「住んでいた、というか……この森が、私だった。私がこの森だった。言い方が難しいけど、そういう感じ」
精霊は枝から飛び降り、ふわりと地面に降り立った。重さを感じさせない、羽毛のような動きだった。
「でも、この森は死んだ。あの塊——」
精霊は魔導炉を睨んだ。
「——あれが、私の森を殺した」
「お前は、大丈夫なのか。森が死んで」
「大丈夫じゃないわ。弱ってる。このまま何もしなければ、私もいずれ消える。でも、まだ死にたくない。だから、ここにいる」
精霊は拓海を見つめた。
その目には、好奇心と、かすかな希望の光があった。
「あなた、あの塊を壊しに来たの?」
「ああ」
「壊せる?」
「壊せる。それが俺の仕事だ」
「ふうん」
精霊は、ゆっくりと拓海の周りを歩いた。観察するように、品定めするように。
「変な匂いがする。この世界の人間じゃないでしょ」
「よく分かるな」
「風は何でも運んでくる。匂いも、音も、言葉も。あなたからは、この世界にないものの気配がする」
精霊は足を止め、真正面から拓海を見上げた。
「お願いがあるの」
「何だ」
「この森を、綺麗に終わらせて」
拓海は、その言葉の意味を考えた。
「終わらせる、とは」
「この森はもう生き返らない。私には分かる。だから、せめて綺麗に終わらせてほしい。汚れたまま朽ちていくんじゃなくて、ちゃんと片付けて、土に還して。そうすれば、いつか新しい森が生まれるかもしれないから」
精霊の声は、淡々としていた。
だが、その目の奥には、深い悲しみと、それでも消えない希望が宿っていた。
「……分かった」
拓海は頷いた。
「この森を、綺麗に終わらせる」
「本当に?」
「ああ。約束する」
精霊は、初めて微笑んだ。
それは、枯れ枝の隙間から差し込む一筋の光のような、儚くて美しい笑みだった。
「ありがとう。じゃあ、私も手伝う」
「手伝う?」
「風を操れるの。粉塵を抑えたり、高いところから物を落とさないように支えたり、できることはいろいろある」
拓海は、ふと先日の粉塵問題を思い出した。
「……風を操る、だと?」
「そうよ。どうしたの?」
「いや、ちょうど困っていたことがあってな」
こうして、風の精霊——後にシルフィと名付けられることになる彼女——は、桐生解体事務所の仲間に加わった。
森の解体作業は、三週間かかった。
まず、魔導炉の炉心から残留魔石を取り出した。不安定な状態だったが、ラウエル村での経験が活きた。慎重に、手順を守って、一つずつ処理していく。
次に、炉体を分解した。鉄と銅の合金でできた外殻は、ドルグが喜んで引き取った。「いい素材だ、何か作れる」と目を輝かせていた。
そして、最後に——枯れた木々を伐採し、汚染された土壌を除去した。
シルフィの力は、想像以上に役立った。
伐採した木を運ぶとき、彼女は風で支えて、安全に地面に下ろしてくれた。土壌を掘り返すとき、舞い上がる粉塵を風で抑え、周囲への飛散を防いでくれた。高所作業では、拓海が足を滑らせても、風のクッションで受け止めてくれた。
「すごいな」
作業の合間、拓海は素直に感想を述べた。
「お前がいると、効率が全然違う」
「そう? うれしい」
シルフィは無邪気に笑った。
だが、その笑顔の奥には、どこか寂しげな影があった。
「どうした」
「ううん、なんでもない」
シルフィは視線を逸らした。
「ただ……この森が、本当になくなっていくんだなって。分かってたけど、実際に見ると、やっぱり……」
「……すまん」
「謝らないで。これが正しいことなのは分かってる。汚れたまま放置するより、綺麗に終わらせた方がいい。頭では分かってる。でも——」
シルフィは、切り株の上に座り込んだ。
「——心が追いつかないの。ごめんね、変なこと言って」
拓海は、しばらく黙っていた。
やがて、シルフィの隣に腰を下ろした。
「俺の世界でも、同じことがあった」
「え?」
「古い建物を壊すとき、その家に住んでいた人が見に来ることがある。子供の頃に住んでいた家。親から受け継いだ店。思い出がたくさん詰まった場所。それが壊されていくのを、じっと見つめている」
拓海は、遠くを見るような目をした。
「楽しそうな人はいない。泣く人もいる。でも、最後には、みんな『ありがとう』と言ってくれる」
「ありがとう?」
「ああ。綺麗に終わらせてくれてありがとう、って。汚いまま放置されるより、ちゃんと片付けてもらえた方が、気持ちの整理がつくらしい」
シルフィは、黙って拓海の話を聞いていた。
「終わりは、悲しいものだ。でも、終わりがあるから、次が始まる。この森がなくなっても、土が綺麗になれば、いつか新しい木が生える。新しい森ができる。その始まりを作るのが、俺の仕事だ」
「……うん」
シルフィは小さく頷いた。
「分かった。分かったよ、たくみ」
「たくみ?」
「あなたの名前でしょ。桐生拓海。たくみ、って呼んでいい?」
「……好きにしろ」
「じゃあ、たくみ」
シルフィは立ち上がり、拓海に向き直った。
「私にも、新しい名前をつけて」
「名前?」
「さっき言ったでしょ、昔の名前は忘れたって。新しい私には、新しい名前が必要。たくみがつけて」
拓海は困惑した。名前をつけるなど、そんな大それたことはしたことがない。
だが、シルフィは真剣な目で待っている。
「……シルフィ」
「シルフィ?」
「俺の世界で、風の精霊を指す言葉だ。シルフ。その女性形で、シルフィ」
「シルフィ……」
精霊は、その名前を何度か口の中で転がした。
「シルフィ。私の名前。シルフィ」
そして、ぱっと顔を輝かせた。
「いい名前! 気に入った! ありがとう、たくみ!」
シルフィは嬉しそうに宙を舞った。銀色の髪が風になびき、透明な翅が光を反射してキラキラと輝く。
拓海は、その姿を見上げながら、小さくため息をついた。
仲間が、また一人増えた。




