第二章 異世界の草原で
風の匂いがした。
土と、草と、どこか甘い花のような——解体現場にはあり得ない、清冽な空気が鼻腔を満たす。
拓海は目を開けた。
青い空が、視界いっぱいに広がっていた。
雲一つない、どこまでも深い青。見たことのない青だ、と拓海は思った。東京の空は、どんなに晴れた日でも、どこかくすんでいる。こんな透明な青は、記憶にない。
体を起こそうとして、全身が軋むのを感じた。痛みはない。ただ、長時間同じ姿勢でいた後のような、関節の強張りがある。
ゆっくりと上半身を起こし、周囲を見回した。
草原だった。
見渡す限りの緑。腰ほどの高さの草が、風に揺れて波のようにうねっている。遠くに山が見える。雪を被った峰が、空の青さの中で白く輝いている。
拓海は、自分の体を見下ろした。
作業着を着ている。汚れた作業ズボン、安全靴、そして——手袋は片方だけ残っていた。
崩落の記憶が蘇る。落ちてくる天井。叩きつけられる衝撃。瓦礫の重み。
俺は、死んだのか。
そう思った瞬間、頭の中で声がした。
『ようこそ、異世界の旅人よ』
声は、耳から聞こえたのではなかった。脳の奥底で直接響くような、不思議な感覚。
「誰だ」
拓海は立ち上がり、周囲を見回した。だが、どこにも人影はない。草原と空と山だけが、どこまでも続いている。
『私は名もなき神。この世界の調停者だ』
「神だと?」
『驚くのは無理もない。だが、長く説明している時間はない。君に伝えるべきことを、簡潔に伝える』
拓海は黙って耳を傾けた。状況を把握できていない以上、情報を集めるしかない。
『ここは君の世界とは異なる世界——テルミナと呼ばれる地だ。君は、崩落事故で命を落とした。そして私が、君をこの世界に呼んだ』
「呼んだ? なぜ俺を」
『この世界は、滅びかけている』
声に、わずかな苦悩の色が混じった。
『かつてこの世界には、魔素と呼ばれるエネルギーが循環していた。大地から生まれ、生命を育み、やがて大地に還る。その循環が、今、崩壊しつつある』
「循環の崩壊……」
『古代の遺跡、放置された魔王城、有害な魔素を垂れ流す廃坑。それらが世界中に存在し、大地を蝕んでいる。だが、この世界の者たちには、それを『処理する』という発想がない。倒す、封印する、逃げる——それだけだ。壊して、分けて、浄化するという概念が、存在しないのだ』
拓海は、その言葉の意味を咀嚼した。
処理するという発想がない。
それは、かつての日本にも存在した光景だ。解体工事がミンチ解体と呼ばれ、建物を無差別に破砕して混合廃棄物として捨てていた時代。分別という概念がなく、不法投棄が横行し、環境が汚染されていった時代。
「それで、俺に何をしろと」
『君の持つ技術を、この世界に伝えてほしい。壊し、分別し、再資源化する。その技術こそが、この世界を救う鍵となる』
「俺はただの解体工だ。手元の」
『だからこそ、だ。剣で斬ることも、魔法で焼くこともできない。だが、君には別の力がある。見極め、分解し、再生に導く力が』
頭の中で、何かが弾けるような感覚があった。
視界の端に、薄青い光の文字が浮かび上がる。
【スキル取得】
分別解体 Lv.1 対象物の構成素材を識別し、最適な分解手順を導き出す。
廃棄物鑑定 Lv.1 素材の価値・危険度・再利用可能性を瞬時に判定する。
重機召喚 Lv.1 前世で扱った建設機械を魔力で召喚する。(現在召喚可能:ミニバックホウ)
構造看破 Lv.1 建造物の構造的弱点と崩壊パターンを見抜く。
「これは……」
『私が君に与えた力だ。君の経験と知識を、この世界で使える形に変換した。使い方は、自然と分かるはずだ』
拓海は自分の手を見つめた。何も変わっていないように見える。傷だらけの、労働者の手だ。
「もし俺が、断ったら」
『断る選択肢も、ある。その場合、君は魂の漂流者として、虚無の中を永遠に彷徨うことになる。決して楽ではないが、強制はしない』
「……選択の余地がないじゃないか」
『そうかもしれない。だが、私は君を選んだ。君の仕事への姿勢を、見ていた。終わりを、きちんと終わらせようとする、その誠実さを』
拓海は、深く息を吸い込んだ。
草原の風が、作業着の裾を揺らす。遠くで鳥が鳴いている。見たことのない、どこか寂しげな声で。
死んだという実感は、まだない。だが、ここが元いた世界ではないことは、体が知っていた。空気の密度、光の角度、重力の引き方——全てが微妙に異なっている。
「分かった」
拓海は呟いた。
「やることは、前と変わらない。壊して、分けて、次に繋げる。そういうことだろ」
『……ありがとう』
声に、安堵の響きがあった。
『この先に、人の住む村がある。まずはそこで、この世界のことを学んでほしい。私からは、これ以上の助力はできない。だが、君なら——』
声が、急速に遠ざかっていく。
『——この世界の、終わりを、きちんと終わらせてくれると、信じている……』
そして、静寂が訪れた。
拓海は一人、草原の真ん中に立っていた。
空は相変わらず青く、風は相変わらず爽やかに吹いている。だが、今の自分がどれほど異常な状況にいるのか、ようやく実感が追いついてきた。
異世界。
転生。
スキル。
漫画や小説でしか聞いたことのない言葉が、今、現実として目の前にある。
拓海は一度、深く息を吐いた。
そして、歩き出した。
村があるという方角——太陽の位置から推測して、おそらく東——に向かって、草原を横切る。一歩一歩、確かな足取りで。
考えるのは後だ。まずは情報を集める。状況を把握する。それから、できることを、一つずつやっていく。
解体の仕事と、同じだ。
現場に入ったら、まず全体を見る。危険箇所を確認する。手順を決める。そして、一つずつ片付けていく。
この世界でも、やることは変わらない。
拓海はそう自分に言い聞かせながら、未知の世界への最初の一歩を踏み出した。




