第一章 崩落
八月の陽射しが、防塵マスク越しの呼吸を重くする。
桐生拓海は額を流れる汗を作業用手袋の甲で拭い、目の前に積み上がった石膏ボードの山を見つめた。築四十年、地上五階建ての雑居ビル。その三階部分の内装解体が、今日の現場だ。
「桐生ー、そっちの分別終わったか」
階下から野太い声が響く。現場を仕切る職長の村瀬だ。五十を過ぎた日焼けした顔に、いつもと変わらぬ厳しい目つき。
「あと十分で終わります」
拓海は声を張り上げて応えながら、手元の作業に集中した。剥がした石膏ボードを木製の枠材から丁寧に分離し、木くず用のコンテナへ投げ込む。石膏は石膏、木は木、金属は金属。混ぜれば「混合廃棄物」として処分費が跳ね上がる。分ければ、それぞれがリサイクル可能な「資源」に変わる。
解体の仕事を始めて六年。最初は何も分からず、ただ言われるままに瓦礫を運んでいた。それが今では、壁を見ればその向こうに何があるか、床を踏めばその下に何が埋まっているか、おおよその見当がつくようになった。
建物には記憶がある、と拓海は思う。
この雑居ビルも、かつては誰かの夢だったはずだ。一階のテナントスペースには飲食店の痕跡があった。厨房のダクト、油で変色した壁、床に残るタイルの跡。三階には小さな事務所がいくつも入っていたらしく、パーティションで区切られた空間の名残が、解体を進めるたびに顔を出す。
四十年分の営みを、俺たちは今、終わらせようとしている。
感傷ではない。ただの事実だ。古くなったものは壊し、新しいものに道を譲る。それがこの仕事の本質だと、拓海は理解していた。
「おい桐生、ちょっと来い」
村瀬の声が、今度は少し近くから聞こえた。階段を上がってきたらしい。拓海は手を止め、薄暗い廊下の先に立つ職長の姿を見た。
「どうしました」
「四階、見てくれ。壁の裏に配管が想定より多い。図面と違う」
古い建物ではよくあることだ。増築や改修を繰り返すうちに、元の図面とは似ても似つかない構造になっている建物は珍しくない。
四階に上がると、すでに壁の一部が剥がされていた。露出した空間から、予想外の太さを持つ配管が複数、壁の中を縦横に走っているのが見える。
「給水管と排水管、あとガス管もあるな。しかもこれ、現役か」
村瀬が顎をしゃくった。
「元栓は閉めてあるはずだが、念のため確認しろ。あと、ここ石綿の疑いがある。サンプル取って、分析結果が出るまでこのエリアは触るな」
「了解です」
石綿——アスベスト。かつて「奇跡の鉱物」と呼ばれた断熱材は、今や「静かな時限爆弾」として恐れられている。吸い込めば数十年後に中皮腫を引き起こす可能性がある。解体工にとって、最も警戒すべき存在の一つだ。
拓海は注意深く壁の断面を観察した。白っぽい繊維質の層が、確かにモルタルの裏に見える。
「村瀬さん、これ多分レベル3ですね。成形板タイプだと思います」
「お前もそう見るか」
「ええ。吹き付けじゃないから飛散性は低いですけど、湿潤させてから手作業で外した方がいい」
村瀬は無言で頷いた。その目に、かすかな満足の色が浮かんだのを拓海は見逃さなかった。
「お前、来月の技能講習、申し込んだか」
「車両系建設機械ですか。はい、申し込みました」
「受かったらユンボ任せるからな。いつまでも手元やらせとくのも勿体ねえ」
ユンボ——油圧ショベルの通称だ。解体現場の主役であり、オペレーターは現場の花形とも言える。拓海がこの仕事を続けてきた理由の一つが、いつかあの運転席に座ることだった。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早え。まずは試験受かってからだ」
村瀬はそう言って踵を返し、階段を降りていった。
拓海は改めて壁の中の配管を見つめた。錆びた鉄管、緑青を吹いた銅管、そして灰色の塩ビ管。それぞれが異なる時代に、異なる業者によって設置されたものだろう。建物の歴史が、この壁の中に地層のように積み重なっている。
俺の仕事は、この地層を読み解きながら、安全に、確実に、一つずつ剥がしていくことだ。
午後三時を回った頃、異変は起きた。
五階で重機を使った躯体解体が始まっていた。小型のバックホウが、コンクリートの壁を圧砕機で噛み砕いていく轟音が、建物全体を震わせる。
拓海は四階で、石綿サンプルの採取を終えたところだった。密閉した試料袋にラベルを貼り、記録用紙に必要事項を書き込む。
そのとき、足元がわずかに揺れた。
地震か、と最初は思った。だが揺れ方が違う。地震は波のように来る。これは、もっと局所的な、何かが軋むような——
天井から、砂のような粉塵がパラパラと落ちてきた。
拓海は反射的に上を見た。
亀裂が、走っていた。
コンクリートの天井に、クモの巣のような亀裂が広がり、その一本一本が見る見るうちに太くなっていく。
「——逃げろ!」
叫んだのは誰だったか。自分だったかもしれない。
次の瞬間、世界が崩れた。
天井が、いや、五階の床が、四階に向かって落ちてきた。コンクリートの塊、鉄筋、配管、壁材——あらゆるものが混然一体となって、拓海の頭上に降り注いだ。
走った。廊下の奥、階段口を目指して。
だが、遅かった。
背後から何かが激突し、拓海の体は宙に浮いた。壁にぶつかり、床に叩きつけられ、その上から瓦礫が覆いかぶさる。
痛みは、不思議と感じなかった。
ただ、重かった。
胸を圧迫する重量。呼吸ができない。視界が暗くなる。
粉塵の中で、拓海は最後に見たものを覚えている。
それは、自分の手だった。
作業用手袋に覆われた、傷だらけの、しかし確かに何かを掴もうとしている手。
何を掴もうとしていたのか。
分からないまま、意識は闇に落ちた。




