聖女は妹じゃない。祝福を搾取した毒家族を私が切ってざまぁ、騎士団長に溺愛される長女です
冷たい石の感触が、膝から骨へ染みていく。
王宮大聖堂。天井の高い白いドームの下で、私は壇下に跪かされていた。首ではない。鎖は胸元の拘束具に繋がれ、肩甲骨のあたりまで食い込み、呼吸を浅くする。
穢れを吸う器。そう呼ばれて、何年も私は黙ってきた。
壇上では、妹のフィオナが光の中にいた。
白い衣。真珠の髪飾り。涙で濡れた睫毛さえ、神々しい演出の一部みたいに揺れている。
民衆の歓声が、波のように押し寄せる。
聖女候補! 慈愛の乙女! オルネア伯爵家の誇り!
……誇り。私のいない場所で、私の時間だけが誇りに変換されていく。
「セレスティナ」
名前を呼ばれた。父、マルクス・オルネア伯の声。威厳のある響き。領民思いの伯爵、という仮面の裏の声。
私は顔を上げない。上げたら、視線の針に刺されてしまうから。
「儀式妨害の疑いがある。お前は黙って穢れを引き受けろ。家のためだ」
ここで否定すれば、私のせいで妹の式が乱れる。そう刷り込まれてきた。
だから、口が勝手に動く。
「はい。私は、家の都合で息をしてきました」
自分の声が遠い。感情のない返事。これが私の生き方だと、長く信じ込まされてきた。
ディオニス大神官が、ゆっくり聖遺物を掲げる。
銀の枠に嵌められた水晶。古い祈りの痕が刻まれている。認定式の中心。
そして、その水晶は……。
フィオナへ向かなかった。
光が、私の方へ、鎖越しに流れてくる。
最初は気のせいかと思った。次に、肌が熱を帯びた。三度目で、会場の空気が変わった。
どよめきが膨らむ。祈りのざわめき。驚愕のざわめき。
私は、怖くて手を引っ込めた。
すると聖遺物が追うように、光を伸ばした。
拘束具の金属が赤く光り、刻印が浮かぶ。次の瞬間、痛みもなく、焼け落ちた。
手の甲に、冷たい輪郭が現れる。花弁みたいな形の聖痕。
息が止まった。
「――神託に従い、聖女をここに示す」
ディオニス大神官の声は、石みたいに硬い。
その視線が、フィオナではなく私を射抜いた。
静寂。
次の瞬間、父の声が割り込む。
「待て! あれは危険だ! 穢れを吸ってきた器だ、汚染されている! 神殿規則に従い、拘束を強化しろ!」
父の指示に従うように、背後の神官が近づく気配がする。
私は、声が出ない。助けてと言えない。言った瞬間、罰が来る気がして。
そのとき。
黒い外套が視界を切り裂いた。
壇下へ降りてきた男が、私と神官の間に立つ。
王国騎士団長。式典警護の最高責任者。
ルシアン・グライツ。
噂でしか知らなかった。寡黙で冷たい剣。王の盾。
近くで見ると、氷みたいに静かな目をしていた。
彼は私を見下ろし、短く問う。
「名前は」
私は、喉が鳴る音すら恥ずかしい。
「……セレスティナ。呼ばれたこと、あまりありません」
言った途端、胸が痛んだ。自分の人生を、自分で傷つけたみたいで。
ルシアンは一度だけ眉を動かし、次に私ではなく、鍵を持つ神官へ手を伸ばした。
動きは滑らかで、問答無用だった。鍵が奪われ、拘束具の留め具が外れる。
「なら俺が呼ぶ。セレスティナ、俺の後ろから出るな」
背に隠された瞬間、視線の針が急に刺さらなくなった。
代わりに、彼の外套の匂いがした。革と鉄と、遠い雪。
父が壇上で笑みを貼り付けたまま叫ぶ。
「騎士団長! それは我が家の娘だ! 家督の――」
「公の場で拘束し、罪を被せた時点で、家の私物ではない」
ルシアンの声は低い。感情を抑えているのがわかった。抑えすぎて、逆に熱を感じる。
ディオニス大神官が杖を鳴らした。
「真偽の確定は明日の公開審問で行う。今夜、当人は神殿の保護下に置く。ただし――」
大神官の視線が、ルシアンへ移る。
「手続き上、確定前の聖女候補を囲う権限は神殿にない。今夜は、誰の手でも届きうる」
ぞくりとした。
つまり、父が連れ戻せる。妹が、私を黙らせに来る。
ルシアンの肩が、ほんのわずか硬くなる。
「俺が運ぶ」
「剣は抜くな。神殿内での流血は禁じられている」
「承知している」
承知している。その言葉の奥に、苛立ちが見えた。
彼は規則に縛られる。私は家に縛られる。
鎖の材質が違うだけだ。
***
夜の神殿回廊は、昼より冷えた。
灯りの間隔が広く、影が濃い。私の足音は小さく、ルシアンの靴音だけが確かだった。
「……怖いか」
歩きながら、彼が言った。
「怖い、です」
嘘がつけなかった。言えたことに、自分で驚く。
彼は振り返らない。
「怖いと言えるのは、強い」
「強く、ありません。私は……いつも、言えなくて……」
助けて、と。
言えないまま、何度も沈んできた。
「言えないなら、俺が先に言う。ここにいる。逃げ道も作る」
硬い言葉。なのに、妙に温かい。
その温かさに慣れていない私は、足が止まりそうになる。
角を曲がった瞬間だった。
影が三つ、滑り出てくる。神殿の黒衣に紛れた男たち。だが目が違う。祈りの目ではない。命令に従う目だ。
「お嬢様。お迎えに参りました」
先頭の男が、丁寧に頭を下げた。家令バルド。父の手足。
私は反射的に一歩下がる。
ルシアンが前に出る。
「通れない」
「騎士団長殿。これは家の問題で――」
「神殿の保護下だ。家の問題ではない」
バルドは笑った。口元だけ。
「では、手続きが整う前にお連れするだけです。争うおつもりは?」
男たちがじり、と距離を詰める。
ルシアンの手が腰に伸びかけ、止まる。剣は抜けない。規則。大神官の言葉。
そして、神殿の回廊には、見習い修道士がいた。荷を抱え、怯えて壁に張り付いている。
ここで血が出れば、その子が巻き添えになる。
ルシアンの目が、ほんの一瞬だけ曇った。
政治利用への恐れ。規則への怒り。守れないかもしれない恐怖。
彼にも、弱点がある。
私は、胸の奥が締め付けられた。
――また、誰かが私のせいで困る。
その瞬間、いつもの癖が顔を出す。黙って戻って、全部を終わらせよう、と。
でも。
見習い修道士の指が震えているのが見えた。
私のせいじゃない。私が戻っても、この子は怯えたままだ。私が戻れば、また誰かが命令で誰かを傷つける。
私は、はじめて、自分の足で前に出た。
「バルド」
家令の名を呼ぶと、彼が目を細めた。
「お嬢様。賢明です。さあ――」
「違う。……帰らない」
声が震えた。震えたのに、言えた。
男の腕が伸びる。
その瞬間、見習い修道士がよろけ、石段に膝をぶつけた。血が滲む。小さく痛みの声。
私は反射で手を伸ばした。
祈り方なんて、誰も教えてくれなかった。教える必要がなかったのだ。私はただ、家のために息をしていたから。
それでも、胸の奥の何かがほどける。
助けたい。
家のためじゃない。私のためでもない。
今ここで困っている人のために。
掌が温かくなる。
光が、私の指先に集まり、傷へ落ちた。
血が止まり、皮膚が閉じる。
見習い修道士が目を見開き、次に、涙をこぼして頭を下げた。
「……ありがとうございます……」
その声が、胸に刺さった。
ありがとう。私に向けられた言葉。家のための道具じゃない、私へ。
回廊の空気が、ざわりと揺れた。
遠くで、何かがひび割れる音がした気がした。石が裂けるみたいな、乾いた音。
バルドが顔色を変える。
腰の紋章石。オルネア伯爵家の証。そこに、細い亀裂が走っていた。
「な……」
彼は一歩下がる。男たちも、気圧されたように止まる。
私は、胸が苦しいのに、なぜか息が入った。
わかった。
祝福は、家の備蓄ではない。私の中から流れている。私の意思で。
ルシアンが、私のすぐ横で低く言う。
「……その選び方を見て、俺は決めた」
「え……」
「誰にも渡さない。だが、決めるのは君だ」
その言葉は、独占の告白みたいなのに、檻の匂いがしなかった。
初めて、私の意思を前提にしてくれる人の言葉だった。
バルドは唇を噛み、男たちを引かせた。
「……本日は、退きましょう。ですが、明日――」
「明日、私は話す」
私は言った。
心臓が跳ねる。怖い。けれど、もう戻らない。
ルシアンの目が、静かに細くなる。
驚きではなく、認める光。
「なら、逃げ道は俺が作る。君は、選べ」
彼が先に決める癖を、必死に抑えているのが分かった。
その不器用さが、なぜか嬉しかった。
***
翌日。
公開審問の場は、昨日よりも人が多かった。
民衆、貴族、神官。噂は早い。真の聖女が現れた、と。
壇上の中央に、聖遺物が置かれている。
私はそこへ向かう石段を、一段ずつ上った。足が震える。けれど、逃げない。
背後に、ルシアンがいる。
だが近すぎない。守る距離ではなく、隣へ行ける距離。そうしてくれている。
父は涙を浮かべ、哀れな父親の仮面で語り始めた。
「娘は、幼い頃より病弱で……穢れを吸う役目を自ら望みました。家は彼女を守ってきたのです。昨夜の混乱は、彼女を守るため――」
嘘だ。
でも、この場で怒鳴っても、私が悪者になるだけだと知っている。
妹のフィオナが、一歩前に出た。
昨日の光は消え、顔色だけが白い。それでも笑みを貼り付ける。
「お姉様は、心が弱いのです。だから穢れに触れてしまった。危険です。どうか、神殿はお姉様を隔離して――」
隔離。
つまり、黙らせる。
ディオニス大神官が私を見る。
「セレスティナ・オルネア。聖痕を示せ。お前が選ぶ権利を持つか、ここで確かめる」
私は手の甲を掲げた。
昨日より、輪郭がはっきりしている。怖い。けれど、これが私のものだ。
大神官が頷き、言葉を続ける。
「聖遺物に触れよ。誰が真に応えるか、民の前で示す」
私は一歩進み、水晶へ触れた。
冷たいはずの石が、温かい。
光が、すぐに溢れた。
会場の空気が甘くなる。花の匂いがする。誰かが息を呑み、祈りの言葉を漏らした。
次に、フィオナが手を伸ばす。
震える指が水晶に触れる。
光は、動かない。
水晶は沈黙したまま、冷たい。
フィオナの顔が固まる。
拍手も、歓声も起きない。代わりに、ざわめきが伸びる。細い笑い声すら混じる。
「そんな……私は……」
妹の唇から、か細い音が漏れた。
称賛が切れた瞬間に、彼女の中身が空っぽだと露出する。
父が慌てて声を張り上げる。
「聖遺物が故障している! 昨夜、穢れが――」
「故障ではない」
ルシアンが、初めて口を挟んだ。声は低いが、よく通る。
「昨夜、彼女は他者のために祝福を流した。今日、彼女は逃げずにここへ立った。聖女が誰か、これ以上の証明はない」
父が睨む。
ルシアンが睨み返さないのが、逆に怖かった。氷の静けさ。
ディオニス大神官が杖を鳴らす。
「次。祝福の契約先を宣言せよ」
「……契約先、ですか」
私は喉が渇く。
ここで間違えたら、また誰かの都合になる。
けれど、昨夜見た。私の光は、私の意思で流れる。私は選べる。
私は深く息を吸った。
民衆の顔が見える。困っている人。祈っている人。私を見ている人。
そして、伯爵家の紋章が刻まれた父の指輪が見えた。
その指輪に、私の時間が吸われてきた。
私は、言った。
「私は……祝福の行き先を、王都の施療院と、国庫の備蓄へ切り替えます」
ざわめきが大きくなる。
父の顔が引きつる。
「な、何を言う! 領地はどうする! 領民は!」
「領民は……巻き添えにしません」
私の声は、まだ震えている。
でも逃げない。
「伯爵領には三日分の恵み雨だけ流します。畑が枯れない最低限の雨です。けれど、オルネア伯爵家の紋章には、二度と繋げません」
言い切った瞬間、胸の奥の鎖が切れた気がした。
怖さが消えたわけじゃない。怖いまま、立っている。
父が壇上で取り乱す。
「この恩知らず! 家があってこそ――」
「家が、私の光を吸っていただけです」
私の口から、その言葉が出たことに驚く。
私は今まで、そんなことを考える余裕すら奪われていた。
聖遺物が、私の宣言に応えるように強く光った。
そして同時に。
父の指輪の紋章石が、ぱきり、と音を立てて砕けた。
会場のど真ん中で。隠しようのない、公開の破裂。
父が青ざめ、膝をつく。
フィオナは呆然と立ち尽くし、目の焦点が合わない。
ディオニス大神官が、淡々と読み上げた。
「オルネア伯爵家。聖女の祝福搾取、及び公開拘束の罪により、爵位停止。王国監督下に置く。審理が終わるまで、家の財と権限は凍結」
民衆のざわめきが、怒りと嘲笑に変わる。
父は、外聞に弱い。その弱点を、全員の前で突かれた。
私は、やっと息を吐けた。
勝った、というより、切った。
自分の人生から、不要な鎖を。
***
審問が終わり、神殿の奥へ案内された。
華やかな場から離れると、足が急に重くなる。震えが遅れてくる。今まで張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ。
ルシアンが、廊下の角で立ち止まった。
ここには誰もいない。灯りが一つ。静けさが一つ。
彼は私に向き直る。
昨日までの壁のような立ち方ではない。人として、対等に。
「……怖かったな」
「はい。ずっと……怖かったです」
私は笑えない。泣きそうになる。
でも彼は、慰めの言葉で蓋をしない。
「俺は、君を囲うつもりだった」
「え……」
「政治が動く。利用される。奪われる。だから先に檻を作って守ろうとした。……それは、俺の恐れだ」
騎士団長が、自分の弱さを言う。
その不器用さが、胸に柔らかく落ちる。
「昨夜、君が隠すより助けるを選んだのを見た。守るなら、檻ではなく、隣だと思った」
彼は一歩だけ近づいて、止まった。近づきすぎない。
「俺は君を囲わない。君が選んだ場所で、隣に立つ。選んでくれ」
その言葉は、命令じゃない。
お願いだった。
私は、心の奥でずっと嘘をついてきた。
私は価値がない。私は選べない。私は道具。
それが、嘘だと知ってしまった今、怖さは残っても、戻れない。
私は、小さく頷く。
「はい。今度は、私が決めます」
言葉が途切れそうになる。けれど、続けた。
「あなたの隣がいい」
ルシアンの眉が、少しだけ緩んだ。
氷が溶ける時の、微かな音みたいに。
「……ありがとう」
彼は私の手を取った。聖痕のある手。
そこに、許しを求めるように唇を触れさせる。熱が走る。甘い痛み。
私は、逃げない。
逃げない自分が、嬉しい。
***
その日の夕刻。
神殿の庭は、柔らかな光に満ちていた。
花壇の土に指を触れると、ひんやりとしている。ここには、伯爵家の紋章も、命令もない。
私は、息を整えて、小さく祈った。
家のためではない。民衆のためでもない。
私のために。
芽が、ぷつりと顔を出した。
白い小さな花が、ひらく。香りは淡い。誇示しない、控えめな奇跡。
「きれいだ」
ルシアンが言う。
「聖女の奇跡、だからですか」
「違う」
彼は首を振った。
「セレスティナの始まりだ。……俺はそれが見たかった」
胸が熱くなる。
私は、笑った。初めて、自分のために。
「じゃあ、これからも……見ていてください」
「見る。ずっと。君が望むなら」
彼は私の指先を持ち上げ、もう一度、口づける。
それは誓いというより、日常の約束だった。
私は思う。
奪われ続けた祝福は、もう搾取の道具じゃない。
私が選ぶ、私の光だ。
そして、その隣に立つ人がいる。
檻ではなく、隣に。
この先の不安は、ゼロじゃない。
でも、今は確かに甘い。
甘さに、罪悪感が混ざっていない。
私は花を見下ろし、そっと言った。
「ただいま。……私の人生」
読了ありがとうございます。ここまで一緒に歩いてくださって感謝です。
この物語は、誰かの都合の鎖を切って、自分の光の行き先を選び直す話でした。あなたの今日にも小さな花が咲きますように。
少しでも刺さったら、ブックマークと評価をぜひ。広告の下の☆☆☆☆☆からポチッと、ひと言感想も大歓迎です。次を書く力になります。




