7,無知でもいい。探求心があれば。
こちらの部屋の方が居心地が良いというわけではなく、単に自分たちに与えられた部屋に戻るのが億劫で、フォークスと僕はルクレールの部屋で昼食を取った。
そして、今、僕の視線の先には、くつろぐフォークスとルクレールの姿がある。
ソファに寝転んで新聞を読んでいるフォークス。その向かいでは、ルクレールがコーヒーを片手に、きちんとソファに座って本を読んでいる。
何とかという哲学者の本らしいが、興味のない僕には作者名でさえ記憶できないし、当然内容もさっぱり分からない。それを娯楽本と変わらない感覚で読めてしまうルクレールは凄い。
学友たちで、時計や腕輪同等のアクセサリーのように、やたらめたら分厚い哲学やら経済学やらの本を持ち歩いている者がいるが、ルクレールは彼らとは違った。
そういった本を持ち歩くことで自分を賢く見せようとしている彼らの中でも、まだマシな者たちもいるが、彼らともルクレールは違う。
まだマシな者たちは、それらの本に目を通して、さも分かったような素振りをし、同じようなレベルである者たちを集い、意味不明な討論を始める。
その中でも最もタチが悪い者となると、わけが分からないことこそ哲学なのだと、筋も何もない意味不明を追求したような本をめでたく出版してしまう。ルクレールはそんな彼らとは違うのだ。
どう違うのか、それについて僕に言い表せる言葉はないが、とにかく彼は本をアクセサリーにしないし、内容だってちゃんと把握している。その証拠に、彼が本の内容を噛み砕いて説明してくれると、僕にだって理解できる。
不思議なもので、あの堅苦しい文章が彼の口から飛び出るとなぜか興味深い話になってしまう。おそらくそれは、きちんと内容を把握していない者でなければできないことだろう。
また何よりも、分からないから教えてくれと頼まれて、すぐに教えることができるのも、彼が本当に内容を理解している証拠だ。
本をアクセサリー代わりにしているような者たちだとそうはいかない。分からないことを軽蔑し、
「あの本を読まないからだ。なぜ読まなかったんだい? ぜひとも読むべきだよ」
と言って、明確な答えをくれない。
だから僕は『分からない』と言う相手を選んで言っている。もちろん、それは家族や尊敬する教授、そしてフォークスとルクレールだ。
家族はもちろん、教授に限っては大抵の場合、逆に質問してやると大歓迎される。
ルクレールは丁寧に教えてくれるし、フォークスも『分からない』と言うこと自体を馬鹿にしたりしない。
「分からないことを分からないと言って何が悪い? 分からないくせに分かった振りする方が、自分や回りの者に嘘をついているわけだからよほど悪いじゃないか」
そう、彼なら言うだろう。
ただ、フォークスの場合、分からないものを分からないままにしておくことを嫌う。自分自身についてもそうだが、他人がそうしていても許せない。
そういったわけで、僕は先程からずっと今回の事件について頭を悩ませていた。少しでもフォークに追い付きたい一心だ。
僕の視線に気付いてルクレールが本から顔を上げた。
「どうかしたのか?」
「ちっとも分からなくて」
彼は苦笑した。
「そういう時は声に出して考えた方がいい。相手をしてやるから、俺に話しかけるつもりで今まで分かっていることを言ってみるといいさ」
「分かっていることって言っても…」
僕は僅かに考えて、一語一語選びながら声にしていった。
「半年前、マルキード・ボードレールの娘ジゼルが自殺した。けれど、本当は自殺ではなく、他殺で、服に付いていた毒針によって彼女は死んだんだ」
「毒針?」
「うん。さっきフォークスがジゼルの服に染みがあるのを見付けて、おそらく毒針だろう、って」
「ほぉ。それで?」
「調べれば他殺だって分かるはずのことなのに、自殺だと片付けられてしまっているのは、マルキードが警察に彼女の死を調べさせなかったから。――そして、半年経って、ジゼルが夜な夜な彷徨い歩いているという噂が流れ、マルキードも突如として犯人捜しをし始めた。手がかりは遺留品の懐中時計」
そこに刻まれていた『A.L』という文字に従い、イニシャル『A.L』の者が集められた。
だが、肝心の懐中時計は、実は、死ぬ一週間くらい前にジゼルが奪い取ったルクレールの持ち物。つまり、犯人の遺留品ではなかった。
「ジゼルはマルキードが愛人に生ませた娘で、リリアーヌとは血が繋がっていない。セルジュとは異母姉弟だ」
「俺が聞いた話では、ジゼルの母親は彼女を生んだ時に亡くなったそうだ。だから、ジゼルはリリアーヌに育てられた」
「それじゃあ、ジゼルとリリアーヌの仲は良かったってわけかい?」
「セルジュが生まれるまではな。実の子ができれば、どうしたってそちらの方が可愛くなる」
「セルジュとの姉弟仲は?」
「良かったさ。ジゼルは弟を可愛がっていたし、セルジュもジゼルを慕っていた」
母親が良く思っていない相手に対して、子も同様に悪く思ってしまうのは、仕方がないことだ。子にとって母親は大きな存在であるし、特に幼い子にとっては絶対だ。
だが、どうやらセルジュはリリアーヌの想いに囚われることなく、ジゼルに接していたらしい。
ルクレールが不意にフォークスの方へ目を移した。つられて僕もフォークスに振り返る。
僕らが話し込んでいる間に彼は眠ってしまったようだ。
うつ伏せに寝転んでいる彼の腕はソファから滑り落ち、手にしていた新聞紙はバラバラになって床に散らばっている。
僕もそうだが、フォークスは昨夜ほとんど寝ていない。色々考え事をしていたようで、ずいぶん遅くまで部屋に明かりが灯っていた。
寝不足の状態で寝転がっていれば、自然と瞼が落ち、意識を手放してしまうのも仕方がないだろう。
ルクレールはやれやれといった風に頭を横に振った。
「リシャールは人前じゃ絶対寝ない奴だったんだけどな」
「そうなのかい?」
「ああ、人の気配がするとすぐ目が覚めてしまうと言っていた。それに慣れない場所では寝ても、眠りが浅い、って」
「フォークスはそんなに神経質な奴じゃないよ。寮の僕たちの部屋では、どこだって寝るし。この間は入り口近くで床に転がっていたよ。僕がどんなに揺さぶっても起きないし、放っておくと丸一日は起きないんだ」
「……それ、本当にリシャールの話か?」
「うん、そうだけど?」
「そうか」
ルクレールはフォークスの寝顔を見下ろして苦笑する。
「リシャールの奴、ジャンには相当心を許しているんだな」
心なしか、その声に寂しさのようなものが含まれているように思えた。
――それは、そうだろう。
僕はルクレールからそっと目を逸らした。
以前のフォークスは、友達どころか話し相手さえ、ルクレール以外にはいなかったような有様だった。
人間嫌いもいいどころで、犬や猫はもちろん、その他の動物すべてと植物さえ、側に置こうとしない。
とにかく自分以外の生き物が側にいるということが煩わしいのだ。
そんな彼をルクレールがどれほど心配に思ったことか。
フォークスの祖母が亡くなり、彼のイギリス行きが決まった時、一緒について来てしまったほどだ。
だが、フォークスは彼の心配をよそに僕と出会い、何とかうまくやっている。
良かったと言うべきであり、心から安心するべきなのだが、なぜか寂しい感じがするルクレールなのだ。
そんな彼の想いを汲んで僕は目一杯に首を振った。
「そんな大層なもんじゃないんだよ。フォークスにとって僕は……空気、そう、空気みたいなもんなんだ。いてもいなくても同じと言うか、いても気にしないし、いなくてもどうでもいいという感じだよ」
どうでもいいだなんて、自分で言っていてなんだか悲しくなってきたが、ルクレールが苦笑してくれたことによって救われる。
「空気はなければ困るな。確かにあっても目に見えないし、あることが当然のように思ってしまっているから、気に留めることはないかもしれないが、ないと生きていけない。ジャンがリシャールにとってそういう存在になってくれたことを俺は嬉しく思うよ。本当に。感謝している。ありがとう、ジャン」
「ルクレール……。」
困ったような複雑な顔を向ける僕に彼はきれいに微笑んだ。