4,『大』がつくと、一味違う
客室に戻ったフォークスと僕は、ネリーに入れて貰った紅茶を飲みながら、それぞれの表情を付き合わせていた。
「いったいどうしたって言うんだろう?」
ソフォーに深く座り、眉をひそめた僕は腕を組んでいる。
「あのカードに何が書いてあったんだろう?」
君には分かるかい? とフォークスの方に目をやると、彼は、何がそんなに気に入らないのか、相変わらずムスっとしている。
しかも、僕の問いに答えようとする様子がない。こんな時は何を言っても仕方がないので僕も黙っていることにした。
しばらく重たい沈黙が続いたが、それは、不意にドアがノックされる音で破られた。横目でフォークスを見やると、彼は僕が応じるのが当たり前だというように微動だにしない。
しかたなく、僕はドアの外に向かって返事をし、開けてやった。
「失礼致します」
廊下にいたのはネリーだった。
「あのう。フォークス様は探偵だと伺ったのですが、本当でしょうか?」
その唐突な質問に僕は一瞬言葉を失った。
「えーと、一応そうだけど……?」
しどろもどろに答えた僕の背に、フォークスのステッキが食い込む。
「一応とは何だ。僕は立派に探偵だ!」
自分の話題だと気付いて、思考の世界から帰って来たらしい。フォークスは腰に両手を当て、少し首を傾げて僕の背後に立つ。
――立派に探偵って。
背中の痛みにその場にしゃがみ込んで、フォークスを見上げる。
微妙に機嫌が治っているのが不思議だ。僕をど突いて、回復したのだろう。いい迷惑である。
「フォークス様を名探偵だと見込んで、リリアーヌ様からお話があるそうです。ぜひ、リリアーヌ様のお部屋にいらして下さい」
リリアーヌ様とは、リリアーヌ・ボードレールのことで、彼女はマルキードの妻だ。先程の華やかなドレスが脳裏に甦る。
『名探偵』という言葉に、更に機嫌を良くしたのか、フォークスはパチンと指を鳴らした。
「伺いましょう」
ネリーはあからさまにホッとした。
では、こちらにいらして下さい、と言って、フォークスをリリアーヌの部屋に案内する。当然、僕もついて行く。
フォークスを名(!)探偵と見込んで話があるといえば、それは事件の始まりを告げる。野次馬ジョン・コールが黙っているはずがないのだ。
▽▲
「お連れしました」
ネリーに促されてリリアーヌの部屋に入ると、背後で扉が閉まる音が聞こえた。振り返ると、ネリーの姿がない。どんな些細な音も漏らすまいとする扉が固く閉ざされていた。
「お待たせして申しわけございません。僕がリチャード・フォークスです」
僕にしてみれば不気味でしかないような笑顔で彼は部屋の主に深々と頭を下げた。
リリアーヌはパーティーで着ていたドレスとは違うが、やはり華やかな服を身に付け、ソファにゆったりと腰掛けていた。
僕らの姿を認め、夫人はゆったりとソファから立ち上がった。
「そう、あなたが噂の名探偵さん? 思っていたよりもずいぶんお若いのね」
フォークスを品定めするかのように上から下までジロジロと見回す。
「噂と言いますと?」
フォークスはそんな彼女の視線を無視する。彼女は再び腰を下ろすと、フォークスにも自分の向かいに座るように勧めた。そこで僕の存在に気付く。
「そちらは?」
「彼は僕の友人で、優秀な助手。ジョン・コールです。彼も同席して構いませんか?」
フォークスに優秀な助手だと言われて、僕は恥ずかしいやら、照れくさいやらだったが、僕の存在の有無などリリアーヌにはあまり関係がないらしい。
「どうぞ」
短い答えを貰って、僕はフォークスの隣に座った。フォークスが先程の質問を再び繰り返した。
「自分がフランスまで伝わるほどの探偵だなどとは思えないのです。失礼ですが、どなたから僕のことをお聞きになったのですか?」
「息子の良き友人、アルベール・ルクレールからです」
ぴきっ。
フォークスの表情が怖いように固まる。
「アルベールは、よく我が家に遊びに来てくれるものですから、気心が知れていて、わたくしにとって息子同然ですの。その彼が優秀な探偵と言ったあなたを信頼してお願いがあります」
フォークスはガリガリと頭を掻いた。
「いいでしょう。ご用件をうかがいます」
そう、フォークスが承知したにも関わらず、夫人は妙な沈黙をつくった。彼女はこの期に及んで、この若すぎる探偵にすべてを任せて良いものか迷っているようだ。
いくら息子同然のルクレールに『名探偵』だと言われていても、実際目の前にしているのは十六歳の少年だ。迷うのは仕方ない。
そして、その、依頼者の迷いはいつもフォークスを不快にさせる。
「ジョン。君の小説の中の僕だったら、こんな気持ちになることはないのだろうな」
この後、何度となく彼はそうぼやくことになるが、この時の彼は、まだおとなしく沈黙に耐えていた。
「実は」
意を決し、リリアーヌが話し出す。
「予告状が届いたのです」
「予告状?」
「ええ、先程のパーティーの最中に」
――まさか。
僕は思わず息を呑んだ。そうして、思った通り、マルキードに大声を上げさせたカードこそリリアーヌの言う予告状だったのだ。
「これを」
夫人が差し出したものをフォークスが受け取る。僕もそれをのぞき込むと、そこには『十五日の晩、海の娘たちの涙を拭いに参上します。その際は凍りついた時間を解かして見せましょう。 怪盗R』と書かれていた。
「怪盗ローズ!」
気が付くと僕は大声を上げ、立ち上がっていた。
「なんだいローズって?」
座れとフォークスは僕の袖を軽く引く。さすがに一人大騒ぎしすぎたと思い、僕はすごすごと席に着いた。
だけど、この興奮は収まりそうにない。
「知らないのかい、フォークス。今、フランスを騒がせている大怪盗だよ」
「へー、大怪盗ねぇ」
『大』というところに強いアクセントをつけてフォークスは僕の言葉を繰り返した。
「だが、ジョン。本人は『R』と名乗っているじゃないか。それを勝手に『ローズ』と改名するのはどういう了見だい?」
「知らないよ、僕が名付けたわけじゃない。だけど、案外、本当に『ROSE』の『R』かもしれないよ。だって、彼は毎度予告状にバラを添えていくんだ。今回だってバラの花びらが添えられていたじゃないか」
「あれは添えられたんじゃない。ばら蒔かれたんだ。まぁ、それは後で直接本人に聞くとして……。ボードレール夫人、少しお尋ねしますが、この予告状の内容に心当たりはありませんか? 怪盗は一体何を目的としているのでしょうか?」
怪盗からの予告状であるからには何かを盗むと言うことを記してあるはずなのだが、『海の娘たちの涙を拭いに来る』では、不明確過ぎて何ことだかさっぱりだ。
リリアーヌは唐突に口を開いた。
「あなた、セイレーンをご存じ?」
「え?」
フォークスが僕を振り返る。それを受けて、僕は夫人に向かって頷いた。
「ギリシア神話でてくる、あれですよね。海神フォルキュスの娘たちで、美しい声で人を惑わせるとか言う」
「それがどうかしましたか?」
「我が家に『セイレーンの涙』と呼ばれる紫のダイヤがあるのです」
「紫の? 紫のダイヤなんて聞いたことがない。そんな物が存在するなんて!」
僕の言葉に夫人は深々と頷く。
「実は、私もまだ見たことがないのです。いえ、ですが、確かに我が家にあるのです。きっと夫がどこかに隠し持っているのでしょう」
夫人はフォークスに深々と頭を下げた。
「どうか、お願いです。怪盗の手から『セイレーンの涙』を守ってください」
ところが、フォークスは彼女に冷ややかな目を向ける。
「これは奇妙なことですね。あなたは一度も見たことのない物を必死で守ろうとなさっている」
「それは……」
夫人が息を呑む音が聞こえた。
「夫が不甲斐ないからです。もうご存じかと思いますけど、夫は半年前に娘を亡くしています。名前はジゼルといって、夫が愛人に産ませた子です。ジゼルが死んでからというもの、夫はすっかり鬱ぎ込んでしまって」
忌々しそうに彼女は口を開いた。
どうやら、ジゼルはリリアーヌの娘ではないらしい。すると、ジゼルとセルジュは異母姉弟ということになるのか。
「夫はジゼルを溺愛していました。我が家の大切な秘宝『セイレーンの涙』をジゼルに渡した程です。けれど、ジゼルは亡くなりました。おそらく『セイレーンの涙』は夫の手元に戻っているはずです」
いいでしょう、と、フォークスが立ち上がる。
「お受けしましょう」
つられて夫人も立ち上がり、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
少し遅れて僕も席を立つが、それにしても、どうも腑に落ちない。
怪盗Rは、有るか無いかもはっきりしないダイヤを、はたして盗めるのだろうか? リリアーヌでさえ、その在処を知らないと言うのに。
そして、フォークスはダイヤを無事守り抜くことができるのだろうか。
――いったいどうやって?
あっさりと依頼を受けてしまったフォークスの計り知れない横顔を見ながら、僕はため息をついた。
▽▲
リリアーヌの部屋を出て、ネリーの案内で用意された客室に戻ろうとした途中、何人かの警官と擦れ違った。
「あれは?」
「セルジュ様が呼ばれたようです」
窓の外に目をやると、さらに大勢の警官がいる。
「ずいぶんと大げさな警戒態勢じゃないか」
『セイレーンの涙』がよほど大切な物だということと、怪盗Rの凄さが分かる。
紫のダイヤという世にも珍しい物は言うまでもなく、怪盗Rは未だかつて失敗のない大怪盗だと聞く。これくらい当然なのかも知れない。
そんなことを思っていると、不意に僕の視界が陰った。
「貴方が探偵さんかね?」
ガラガラ声が頭の上から振ってきて、僕は驚き、見上げる。ヨレヨレのスーツをきた大男が僕の目の前に立ちはだかっていた。
「いえ、探偵は彼です」
びくつきながらフォークスを指すと、彼はギョロリとフォークスに目を移す。
「ほほう。これはまた、ずいぶんと若い」
「どちら様ですか?」
人前では猫を被るようにしているフォークスは、恐ろしいほどさわやかに尋ねた。
「おっと、これは失礼。自分はドルーエ警部であります」
そう言って形通りの敬礼をすると、彼は髭の伸びかかった顎に手をやり、ジョリジョリ触りながら、再びフォークスを上から下まで無遠慮に眺めた。
何でもドルーエとかいうこの男は、怪盗Rを追い続けて早四年、彼からの予告状と聞けばフランスの端から端まで、何が何でも真っ先にすっ飛んで行くという執念の持ち主だ。
今や、『怪盗R』と言えば『ドルーエ警部』と言われるほどだと聞く。
「いやー、しかし、本当にお若い。おいくつですかな?」
「怪盗を捕まえるのに、僕の年齢を知る必要がありますか?」
「いやいや、必要ありませんなぁ」
彼は誤魔化すようにガハガハと大声で笑った。明らかにフォークスのことをよく思っていない。何も知らないガキは引っ込んでいろ、とでも言いたげである。
「ボードレール夫人に何やら依頼されたようだが、怪盗は自分がこの手で捕まえるんで、まあ、貴方の出番はないでしょう。怪盗Rのことはお気になさらず、パーティーを楽しんでくれていて結構ですぞ」
――なんて失礼な刑事なんだ。フォークスの名探偵ぶりを知りもしないくせに!
ぶん殴ってやりたい衝動をなんとか抑え、さぞかし怒っているだろうと思われたフォ-クスを横目で確認した。だが、以外にも彼は僕よりもはるかに冷静であった。
「では、僕がパーティーを心の底から楽しめるように、警部の方針をお聞かせ下さい。どのように怪盗を捕らえるのですか? ダイヤの在処はご存じなのでしょう?」
フォークスがそう尋ねると、ドルーエの笑顔は急激に凍りついた。だが、それも一瞬で元通りの自信に満ちた顔に戻った。
「ダイヤの在処? そんなもの知る必要はない! 怪盗R、奴を捕まえさえすればいいのだ。奴が現れたところ、そこがつまりダイヤの在処。奴さえ捕らえればダイヤも無事。万事解決だ!」
再び豪快に笑い出したドルーエに、ほとほと呆れる。
確かに怪盗Rさえ捕まえられれば万事解決かもしれない。だが、どうやって?
怪盗Rは十五日、つまり三日後と日付は指定してきたが、時刻までは明確に指定していない。晩とだけ、曖昧に記したのみだ。姿を現す場所についてだって、ダイヤの所在が分からなければ分からないではないか。
それでは、捕まえられるものだって、捕まえられっこない。
この広い屋敷中を一晩中監視し続けるなど、不可能に近いだろう。
それより、ダイヤを探し出し、ダイヤを見守り続ける方がよほど効率的ではないか。怪盗Rは必ずダイヤを盗みに、ダイヤのある場所に姿を現すはずなのだから。