16,君は君、俺は俺。そして、彼は彼
ルクレール家に戻り、一息入れたフォークスは、唐突にイギリスに帰ろうと言い放った。
用は済んだわけだし、これ以上授業を欠席するのも気が引けたので、僕も賛成する。
持ってきた物はわずかで、荷造りと言ってもそう時間はいらない。難なく終わらせて時計を確認すると、まだ正午前だった。僕は鞄の上に腰を下ろした。
とたん、大きくあくびが出る。それもそのはず。昨夜は馬車の中で寝たのみだった。
ジゼルを弔い、ルクレール家に戻ってきたのは、太陽が昇りきった後だった。
さんさんと、照り輝く太陽を横目にベッドで寝る気になれず、コーヒーを啜ることにしたのだ。
二度目のあくびをし、勢いをつけて僕は立ち上がった。
▽▲
荷物を手に外に出ると、ルクレールが用意したのだろう、馬車が止まっていた。
「ジョン、遅い」
馬車に荷物を積み込んだフォークスがステッキを片手に言い放つ。
「君のせいで、ロンドンに着くのは夜中になりそうだ」
「ごめん」
こういう時は、とにかく早めに謝った方が良い。更に付け加えて文句を言おうとしたフォークスの口を塞ぐように、僕は短く謝罪の言葉を述べた。
そして、自分の荷物も馬車に積み込む。
「あれ?」
馬車の中を見て、僕は首を傾げた。馬車の中には、今まさに積み込んだ自分の鞄とフォークスの鞄が隅の方に置いてある。だが、もう一つあるはずの鞄がどこにも見あたらないのだ。
「ルクレールは? まだなのかい?」
振り返りざまにフォークスに尋ねると、彼は、さあね、と肩を竦めた。
その時、噂をすれば……というやつだ、ルクレールが姿を現せた。だが、その姿を見て、僕はもちろん、フォークスも絶句する。
彼のその格好はどう見ても外出向きの格好ではなかった。
そして、鞄の代わりに手にしていたものは、大きなバラの花束で、それをバサァッとフォークスに投げやった。
その粗雑な扱いに赤い花びらが散る。
「どういうつもりだ」
花束を両手で受け取ると、フォークスはキッとルクレールを睨んだ。だが、彼は怯んだ様子もなく、低めの声で言い放った。
「俺は、行かない」
「何?」
「ここに残る。ここ、フランスに」
――なんだって!
僕は耳を疑った。驚きのあまり声さえでなかった。口をパクパクさせ、フォークスを振り返ると、彼はぎゅっと唇を噛み締めて、じっとルクレールを睨んでいた。
「ロンドンの霧の多さには、いい加減うんざりしたんだ。やはり、俺の国は、ここ、フランスだ。それに、リシャール、お前にはもう俺は必要ないだろ?」
感情のない言葉が寒々しく辺りに響き渡った。
そして、それに対するフォークスの答えも凍り付くようなものだった。
「勝手にすればいいさ。僕には関係ない。君の好きにすればいいだろ? 今までだってそうだったじゃないか。何を今更、僕に断りを入れるんだい? 第一、僕がいつ君を必要した? 端っから必要なかった」
言い放つと、フォークスは花束を片手で握り締めて、ルクレールの脇を通り抜けた。
「フォークス、どこへ?」
「忘れ物!」
すかさず尋ねた僕に怒鳴り声を上げると、彼は屋敷の中に姿を消す。
バタンと閉まった玄関をしばらく唖然と見つめていた僕だったが、ふと思い出したようにルクレールを見る。
すると、彼も僕に振り返って、苦笑した。
その笑みがとてもきれいで、ひどく寂しそうだった。
泣きたくなったのは、傷ついたはずの彼ではなく、それを見つめる僕の方だ。
僕にも分かった。フォークスにひどい言葉を言わせたのは、彼自身だ。
ロンドンの霧の多さにうんざりしたなんて嘘だ。さも今までフォークスには自分が必要だったかのように言えば、フォークスはそれに反発して、ああ言うのは明白だった。
わざと言わせたんだ。彼から自分を引き離すために……。
そして、そのことをフォークスも分かっていた。忘れ物だなんて嘘だ。今頃、ルクレール家の屋敷のどこかで、一人物思いに更けているのだろう。
「ルクレール。君はそれでいいのかい?」
不覚にも涙が零れた。彼は苦笑する。
「俺を必要とする奴は他にも大勢いるんだ。必要としていないリシャール一人にいつまでも構っていられない」
「フォークスは君を必要としているよ」
「いや」
ルクレールの黒髪が、悪戯好きな風に吹かれて左右に揺れ動いた。
「今のリシャールが必要としているのは俺じゃない。お前だよ、ジャン。俺は今まで、あいつが、あまりにも人に馴染まないものだから、俺がいつも側にいてやらなきゃと思っていた。だから、イギリスにもついて行った。――けど、違ったんだ。俺が側にいるから、あいつは他の誰とも仲良くなろうとしない」
僕は黙って彼を見つめた。彼の言葉は口から放たれたと同時に大気に溶けていく。まるで儚い。
「寮の部屋も違うし、授業もほとんど同じにならなかった。その上、俺は仕事のために度々どこかに出かけなきゃならない。そうなると、逢える時間もずいぶんと減ってしまった。始めは不安で堪らなかったよ。俺がいない時間、あいつは何をしているんだろう、ってな。妙な薬に手を出しているんじゃないか。きちんと食事を取っているだろうか。夜はちゃんと寝られているんだろうか……」
「妙な薬については、ちょっと……だけど、ちゃんと食べてるし、寝過ぎなほど寝ているから大丈夫だよ」
僕の言葉に彼は苦笑する。
「ああ、そうだな。リシャールは大丈夫だった。ジャンという友達も自分で作れたし。俺の心配なんて全部取り越し苦労だった」
その寂しそうな表情に、僕は慌てて言い加える。
「けど、やっぱり、フォークスには君が必要だよ。なんだかんだ言って君を一番頼りにしているんだ。だから、ずっと側にいてあげてよ。仕事って、怪盗のこと? それをやめたら、ずっとイギリスにいられるのかい? フォークスの側に……」
「怪盗をやめる気はない」
きっぱりと言い放つルクレールに僕は涙を拭い、しっかりと見つめ返した。
分かっていた。彼が怪盗をやめられないということは。
「この家も他の別邸も、俺の父親がどこからか盗んだ物を売り払ってできた金で建てたものだ。そして、ルクレール家で働く者たちは皆、同様の金で働いてくれている。俺を育てた金もそうだ。父親が死んで、収入源がなくなると、使用人たちは皆、俺に期待の目を向けた。早く大きくなって立派な怪盗になってくれと言われて育ったんだよ、俺は。そして、皆の期待通りの怪盗になった俺は、ルクレール家の使用人に払う給料以上の金を手にできるようになった。それで、孤児や貧しい者たちにその金を分けてやることにした」
ルクレールは僕から目を逸らし、遠くの方を見つめる。そこにはいくつかの民家がまばらに見えていた。
「俺の金で、子どもの首を絞めずに済んだと泣いて喜ぶ夫婦がいた。何日も物を食べていないという孤児はこれでパンが買えるとお礼に笑顔をくれた。分かるだろ? 俺を必要としてくれる者がこの国には溢れているんだよ」
彼は息を重たく吐き出した。
「俺はリシャール一人を特別に扱えない。たとえリシャールが俺の腕の中にいて、今にも泣きそうな顔をしていても、俺の目の端で泣いている奴がいれば、俺はそいつに駆け寄って手を差し伸べる。リシャールを特別扱いできない。そうしたいという気持ちはあるんだ。だから、余計に苦しい」
そうしたいという気持ちの表れは、おそらく、バラの花にあるのだろう。
唯一の特別扱い。フォークスだけに与える赤バラ。
けれど、ルクレールにはそれだけの特別しか、フォークスにしてやれない。
「ジャンはリシャールの側にいてやってくれ」
「そりゃあ、僕はそのつもりだけど。けど……」
「ジャン。俺は別にリシャールと縁を切るなんて言ってないぞ。そんなに悲痛な顔をしないでくれ」
「だって」
「俺はリシャールの親友をやめる気はないし、これからもあいつは俺にとってこの世で一番大切な奴だよ」
ルクレールは僕に漆黒の瞳を向ける。そして、見惚れてしまうほど、きれいに微笑む。
「ずっと側にいることが大切することとは違うだろ? 友情のあり方だって、人それぞれに違っていいんじゃないのか?」
そういえば僕は元々、二人の友情について疑問を持っていた。
普通の友人関係のように常に一緒に行動したり、ふざけあったり、出かけたりしない二人なのである。それは、端から見て、特別に仲が良いように見えないほどだ。
普通、友人同士ならばこうするものだろうと僕が思うようなことをいっさいしない二人を見ていると、思わず首を傾げたくなる。
「人それぞれ違うっていうのが、よく分からない」
「だろうな」
ルクレールは苦笑する。
「その昔、この世界には唯一絶対の神がいた」
「え?」
いきなり何を言い出すのかと、ルクレールを見上げる僕に、彼は唇の端を上に引く。
「唯一人の神が決めた正解はただ一つだ。友情とはこうあるべきだ。神がそうだと決めたことを、人間は常識だと言って、普通はこうするべきだと言い放つ。海の果てには怪物がいる。太陽は地球の周りを回っている。人間は神が自身の姿に似せて造った。一昔前までは、それらは常識だったんだ。だが、地球は丸く、海には果てがない。太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球の方が太陽の周りを回っている。一昔前の常識が誤りだったということは、今や誰もが知っている。――さて、ジャン。君は信じないかもしれないが、ダーヴィンの説によると、人間は猿から進化したらしい」
「なんだって、猿?」
「なかなかおもしろい説だろう? 実に興味深い。だが、重要な点はその説を信じる、信じないというところではない。人間が猿から進化しただなんて言えるのは、その人が神の存在を信じ切れないようになっているからだ。当然だな、地球は丸いんだからな。昔むかしに、そうだと神が定めたことが、科学によって一つずつ誤りだったとされてきている。神の存在そのものを疑いだす者が現れても仕方がない」
「ルクレールも、神はいないと思っているのかい?」
「いないとは思っていない。むしろ、一人しかいないとは思えないんだ。俺は、神って存在は一人の人間につき、一人いると思っている。つまり、一人一人に自分だけの神がいるんだってこと。それは、自分だけの正解があるということだ」
「自分だけの?」
「さっきも言ったとおり、科学が進歩して、いろんなことが分かってきた。分かってきたことが増えるにつれて、人々は唯一絶対の神に疑問を持つようになった。その疑問はこれからますます大きく膨らんでいく。そうして、いずれ唯一絶対の神は死んでしまうだろう。その代わりに誕生するのが……」
「自分だけの神?」
「そうだ。そういう世界がいずれ来る。近いうちに必ず。俺とリシャールは、ただ、少し早かっただけだ。だから、理解されない。けど、俺もリシャールもジャンだけには分かって貰いたいんだ」
僕は大きく頷いた。
――そうか。それでだったのだ。
『普通、何々すべきだ』という類の言い方をしたから、フォークスはむきになって言い返してきたのだ。
君の『普通』を僕にまで押し付けないでくれ、と彼は言いたかったのだろう。
君に『正義』があるように、僕にも『正義』がある。君の『神』と僕の『神』は、まるで別のモノなんだよ、と。
「二人は離れていても、親友なんだね?」
「ああ」
「わかった」
納得して再び頷く。
そんな僕の耳に、カチャリと軽い音が聞こえてきた。
振り返るとフォークスが玄関の扉を開けて外に出てきたところだった。
その表情はさっぱりとして、先程の怒気はない。
「忘れ物は見つかったか?」
ルクレールの問いにフォークスは苦笑して首を左右に振った。
「見つからなかった。見つけたら、君が持っていてよ」
ルクレールは微笑んで頷く。
それから、短い別れを言い、フォークスと僕は馬車に乗り込んだ。
▽▲
ゆっくり、ゆっくり、馬車は走り出す。次第に小さくなっていくルクレールの姿。彼の家。小さな村。波のざわめき。
僕はそれらを何度も何度も振り返り、消えて見えなくなってしまうまで見つめた。
「やっぱり、寂しいよ」
「何?」
「ルクレールがいないと寂しいって言ったんだ。フォークスは寂しくないのかい?」
「まったく」
そんなはずはないと言い返そうとした僕に、彼は手の内で弄んでいた花束を僕の鼻先に突き出す。
甘いバラの匂いが僕の鼻腔をくすぐった。
「すごい臭いだろ? バラの匂いって、アルの匂いっぽいよね?」
「……」
「アルって、何考えているんだか分からないよ」
花束を自分の胸の中に戻すと、フォークスは窓の外を眺めながら、大きくため息をついた。