14,探偵だけは驚かない
彼は一瞬顔色を失う。だが、すぐにもとの無表情に戻りギロリとフォークスを睨み付けた。
「何を根拠に私だとおっしゃるのですか?」
「証拠が必要だということならば、お見せしますが……」
「ぜひ」
どんなに睨まれても怯むことのないフォークスは、ついっとシャルダンから目を逸らし、ドルーエに振り返った。
「警部、彼の部屋を調べさせて下さい。特に彼のベッドの下を。少し力を込めると外れる床板があるんですよ」
フォークスに頷いたドルーエはすぐに部下をシャルダンの部屋に向かわせた。そして、怪訝な顔をフォークスに向ける。
「いったいそこに何があるんだね?」
「彼のコレクションですよ。失礼ながら、先日、勝手に入らせていただきました」
ふふっ、と笑うフォークスだが、何げに笑い事では済まされない事をやっている。
「そうしましたら、見つけるべくして見つけてしまいました。数々の宝石を。――ところで、ボードレール夫人」
フォークスはリリアーヌに振り返った。急に話を振られた彼女は困惑しながらも彼の声に耳を傾ける。
「夫人はよく物をなくされるでしょう? それも高価な宝石を」
「ええ。それが何か?」
「それもそのはずなのですよ」
首を傾げるリリアーヌにフォークスは笑って言った。
「彼が盗んでいるのですから」
言葉を失った夫人はフォークスを見、続いてシャルダンを振り返った。シャルダンは無表情のまま、黙ってそこに立っている。フォークスは、ふっと眼を細めた。
「さて、証拠ですが。貴方は皆より少し遅れてここに来ましたね」
フォークスはステッキで自分の肩を軽く叩く。そんな彼を横目で僕は、はてと考えた。
そう言えば、マルキードがシャルダンを呼んだ時、彼はすぐに返事をしなかった。それは、しなかったのではなく、できなかったのだ。
つい十数分前のことなので、記憶に新しい。確かに彼はその時その場にいなかった。
「遅れて来た。それがどうしたと言うのですか? 私はすでにあの時間、部屋で休んでいました。悲鳴が聞こえ、すぐに目が覚めましたが、まさか寝間着のまま駆けつけるわけにもいかず、着替えをしていたのです。ですから、多少遅れてしまったと言うだけのこと」
「へえ、お休みになられていたんですか? それは優秀な執事らしくない。主の秘宝が盗まれるかも知れないと言う時に呑気に寝てしまえるほど、どうしょうもない執事を演じていたわけではないでしょう?」
フォークスがくすくす笑った時、彼が待っていた物が到着した。
「警部、こんな物が!」
シャルダンの部屋を調べに行った警官が戻ってきたのだ。しかも、その手には小箱を持って。
「まさかそれは……」
小箱を受け取ったドルーエは恐る恐る蓋を開く。すると、中には二粒のダイヤが静かに収まっていた。
「『セイレーンの涙』がなぜ? なぜ彼の部屋にこれが?」
ドルーエは中のダイヤを見せるように小箱をフォークスの方に傾けて、彼に振り返った。
「わけは簡単です。悲鳴が聞こえ、我々がホールから出た隙に、彼がダイヤを盗んだのです」
「しかし、ホールには部下を何人も残していた」
「それが何か? ホールに残ったのは、予想外の出来事に浮き足立った下っ端の警官たち。警官服を着、どさくさに紛れてしまえば、実に簡単なことでしょう」
ドルーエは舌打ちをした。そして、手錠を手にシャルダンに大股で歩み寄った。
シャルダンの手首でカチャリと音がする。
その音を聞いて僕は、ほっと息を吐いた。事件は全て解決されたかのように思えた。
だが、僕は肝心な存在を失念していた。未だマルキードに拳銃を向けている人物の存在を。
彼はコホンと咳を一つ付いた。
「そろそろ腕が重くなってきたので、三つ目の用件を言わせて貰いますよ」
苦々しく笑い、シャルダンの身柄を部下に引き渡したドルーエに、すうっと腕を伸ばした。
彼が指差した先にあった物は、どこにでもありそうな小箱だった。ドルーエはどきっとして小箱をしっかりと持ち直した。その様子に怪盗は、くくくっと笑う。
「警部、そのダイヤ、偽者ですよ」
「何だと?」
「よく見てください。ただのガラス玉ではないですか?」
その言葉に驚いたのはドルーエだけではなかった。リリアーヌもちろん、僕さえも驚いて、怪盗と小箱を交互に見た。
「そんな馬鹿な!」
ドルーエは食い入るように小箱の中を見つめた。紫色に輝く二粒は彼の顔を小さく映している。
「『セイレーンの涙』がジゼルの瞼の中にあるという推理は、実におしいものでした。正解は、瞼の中にある物ではなく、瞳だったんですよ」
なぞなぞのような怪盗の言葉にドルーエは首を傾げる。
「瞼の中にある物は瞳だろう。これは、ジゼルの瞳だったものだぞ」
その通りだと僕も思う。瞼の中にある物が瞳――眼球でなければ、何だと言うのか?
確かにジゼルの目を刳り抜いたのだ。それが、偽者のであるはずがない。
そう思った時、ふと僕はフォークスに言われた言葉を思い出した。
ルクレールが僕に、ダイヤの在処はジゼルの瞼の中だと言わせたのだという、今朝言われた言葉だ。
あの時の口調からして、フォークスもジゼルの眼球が本当の『セイレーンの涙』ではないと思っているかのようだった。
僕はフォークスの横顔をちらりと盗み見、それから、怪盗に向き直った。
「じゃあ、本物のダイヤはいったいどこにあると言うんだ?」
「本物か」
怪盗も僕に振り向く。そして言い放った。
「ホンモノはない」
「え?」
「今はないと言うべきか、元からなかったと言うべきか……」
曖昧な言い方をする怪盗に僕は首を傾げる。
すると、適切な言葉を探しあぐねている怪盗の代わりに、探偵が口を開いた。
「それについては、元々の持ち主に聞いてみるといい」
彼はステッキの先でマルキードを指した。
突然話を振られた彼は慌てふためき、その場から逃げ出そうとまでしたが、そのこめかみにコツンと重い物を突き付けられて項垂れる。
そんな様子を目にして、彼の妻が黄色い声を張り上げた。
「あなた、もう白状なさって下さい。『セイレーンの涙』とはいったい何ですか? 本当に実在するのですか?」
マルキードは光のない瞳でリリアーヌを見上げた。そして、首を振る。
「まあ! ダイヤは実在しないと今更言うのですか? 散々私たちを振り回しておきながら、今更、ダイヤはないですって? そんなことが許されるとでも思っているのですか!」
リリアーヌの声に耳がキーンと鳴る。
「落ち着いてください、夫人。まずはボードレール氏の話を聞きましょう」
年若い探偵に宥められて、リリアーヌはようやく息を整えた。
そうして、人々の視線を集めたマルキードは観念したようで、ポツリポツリと言葉を吐き出した。
「『セイレーンの涙』は、ダイヤモンドでも、他のどんな宝石でもない。オンディーヌの紫の瞳のことだ。そして、ジゼルの瞳のこと」
信じられないという、人々の無言の叫びを感じて、フォークスはマルキードにゆっくりと歩み寄った。
フォークスは、月明かりのベールに飲み込まれ、僕を含めた他の者たちの位置から、その表情は逆光で見えなくなってしまった。
彼はベッドに横たわるマルキードを見下ろした。
「ボードレール氏、貴方はずいぶんとたくさんのアンティークをお持ちだ。さぞかし、古代文化に詳しくいらっしゃるのでしょう? 特にギリシアなどの……」
そう言って、言葉を切ったフォークスは僕に振り向いた。
「ジョン、あれを何と言ったかな? 美しい声で人々を惑わせるとかいう? ギリシア神話に出てくる妖女」
わざとらしい問いに、今更何を言っているんだと僕はため息をつく。
「セイレーンだろ?」
セイレーンは海神の娘たちのことで、一人ではなく二、三人いることから複数形でセイレーネスと呼ばれることが多い。
その容姿については、様々な説がある。イギリスでは半人半鳥であるとされ、フランスでは人魚だとされている。
どちらにせよ、海の孤島で人骨に囲まれて棲み、近くを通りかかる船の乗組員を歌声で魅了し、難破させてしまう妖女だ。
フォークスの意図が読めず、怪訝な顔をする僕。だが、すぐに、なるほどと低く唸った。
つまり、古代ロマン好きなマルキードは、孤児院でオンディーヌを見初めた時のことを、セイレーンの逸話に喩えたのだ。
「オンディーヌか。確か同じ名前の物語があったな」
「ジロドゥの戯曲だ。オンディーヌという水の精霊が人間の青年に恋をする話だ」
僕が言うと、フォークスは頷いた。
「オンディーヌはドイツ語でウンディーネとも言う。このウンディーネの容姿は人魚のようだと聞きます。オンディーヌの名前と、彼女を見初めた孤児院が海に近かったことから、海の娘――セイレーンと連想した。違いますか、ボードレール氏?」
彼は頭を左右に振った。違わない、と。
そんな彼にフォークスは、ところで、と再び話題を変えた。
「セイレーンという名前は、ギリシア語の『縛る』『くっつける』などの意味を語源としているそうですね。貴方は本当にロマンチストだ。オンディーヌとジゼルの瞳を『セイレーンの涙』と称したのは、本来ならば人間を惑わし、思い通りに操る側であるセイレーンを、貴方は束縛してしまっていたからでしょ? 自由を奪われた彼女たちの悲しみを『涙』と称した。違いますか?」
マルキードの返答はない。
「僕は昨日、オンディーヌの墓にも訪れたんですよ。いえ、以前彼女の墓があったところと言い直しましょうか? 十数年前、彼女の墓を見つけた貴方は、すぐに彼女を掘り起こし、ボードレール家の墓場に移したのでしょう? 彼女の墓跡はまだそのままに残っていましたよ。それで、一度掘られた跡を見つけました」
――墓を掘り返して、埋め直しただって?
僕はギョッとしてマルキードを見やった。彼は俯いている。
「束縛はオンディーヌよりむしろジゼルの方が強かったのではないでしょうか? 僕は最初から貴方に疑問を抱いていました。ジゼルの死を認めていないと言いながら、彼女の遺体をガラスケースに飾っている。まるで人形を飾るかのように。もしも貴方が本当に彼女の死を否定するのでしたら、ガラスケースではなく、生前そうしていたようにベッドに寝かせるべきだったのではないでしょうか?」
――言われてみればそうだ。
ガラスケースに入れられたジゼルは、もはや生きているとは言い難く、むしろ最初から生きていなかった物のようだった。
「貴方がジゼルを溺愛するばかりに、彼女を屋敷から外に出さなかったと聞いています。これはイレーヌから聞いた話です。ジゼルは友達もできず、毎日一人で自分の部屋に籠もっていたそうですね。娘が部屋に籠もってばかりいる。そのことは普通の親なら悩みの種になるところだ。しかし、貴方にとっては好都合だった。ジゼルを誰の目にも触れさせずにしまっておける」
フォークスの鋭い目がマルキードを見据えた。
――異常だ!
僕は心の内で叫ぶ。
――娘を部屋に閉じ込めておいて、喜んでいるなんて!
信じられなかった。子を溺愛する親など、いくらでもいる。だが、マルキードは、彼の愛は、狂っている。
――そうだった。埋葬を拒否し、娘の遺体を蝋漬けにして保管していると聞いた時に気付いていたはずだったのだ。普通ではないと!
再び、フォークスが話し出した。
「ジゼルを閉じ込め、満足していた貴方だったが、ある日、彼女が何者かに恋をしているらしいと気が付いた。この時、貴方は、もはやジゼルを自分の娘とは思っていなかった。成長と共にオンディーヌに似てくる彼女を、まるで己の妻のように扱いだしていた」
リリアーヌの顔が強ばる。そうして、そのことが真実なのだと知れた。
「ジゼルの何者かへの想いに、貴方は裏切りだと感じたのです。自分を裏切ったジゼルが許せず、また、自分以外の者を映し出す彼女の瞳が許せず、貴方はジゼルへの殺意を抱いた」
僕は驚いて、フォークスとマルキードを交互に見つめた。そして、フォークスの唇が、僕の予想通りの答えが発する。
「自分の物でなくなるのなら、いっそう消してしまおう。殺してしまおう。そう思った貴方は、ジゼルの服に毒針を仕込んだのです」
静かに響いたフォークスの声は、人々の頭の中では何度もこだまして鳴り響いた。
――ジゼルを殺した真犯人がまさかマルキードだったなんて。
それは信じがたい真実だった。
フォークスは哀れみの色を浮かべた瞳で彼を見下ろした。
「貴方は愚かな人だ。ジゼルの遺体を見て、後悔しても遅い。彼女は死んでしまい、それを生き返すことは不可能なのです。いくら貴方が悔やんでも死体は死体だ。それが動くことはもう二度とない!」
フォークスの杖が床を付いた。彼は一つ息を吐いて、言葉を続けた。
「先程、貴方は言っていましたね。懐中時計に刻まれたイニシャルの持ち主こそジゼルの想い人だと思ったと。そう思っていた貴方は、犯人を捕まえる為にA・Lのイニシャルを持つ者を屋敷に集めようというシャルダンの策に乗った。――その真意は、ジゼルの想い人を自分の目で見定めること。場合によっては、ジゼル同様殺してしまおうと思っていたのでしょ?」
全てを言い当てられて観念したのか、マルキードは俯いた顔を更に下方向に動かし、頷いた。
それを見て、フォークスは重たい息を長く、ゆっくりと吐き出す。安堵したように……。
だが、まだ終わっていない。
「大変です! ジゼル様が!」
悲鳴に近い叫び声を上げて、人々の集まる部屋に飛び込んできた者があった。イレーヌだ。
彼女はマルキードの寝室の入り口までたどり着くと、その場に膝を着いて倒れ込んだ。
「何事ですか?」
彼女を助け起こそうと、ドルーエは歩み寄る。その足にすがるようにイレーヌは声を張り上げた。
「ジゼル様のご遺体がないんです!」
「は?」
「私が少し目を離していた隙にジゼル様がいなくなってしまったんです!」
人々は、皆、耳を疑った。何を言われたのか、即座に理解できなかった。
そんな中、くくくっと笑い声が静かに響いた。驚いて振り返ると、怪盗が一人で笑っている。
「警部、最後の用件を済ませてもよろしいですか?」
「何?」
ドルーエが聞き返すと、彼は、すうっと腕を真っ直ぐにイレーヌの方に伸ばした。いや、彼女ではなかった。彼女の後ろに佇む人物に伸ばしたのだ!
彼が指し出した手の先に目をやった人々は、驚きのあまり言葉を失う。
そして、ある者は気絶し、また、ある者はその恐ろしさのあまり逃げ出した。
僕もまた、その人物を言葉なく、凝視していた。
黄金色の髪は腰まで、純白のドレスは足首まである。顔は、鼻下まで伸びた前髪でよく見えないが、異常なほど白い。
そう、まるで、蝋のように……。
「ジゼル」
それは誰が言い放った言葉だったのか。
恐怖に顔を引きつらせたリリアーヌだろうか?
顔色蒼白なイレーヌか?
少なくとも僕ではない。僕は言葉さえ失っているのだから。
「ジゼル」
それは、ベッドの上で上半身を起こしたマルキードのものだった。
ジゼルは髪をふわり、ふわりと風に遊ばせながら、一歩一歩しっかりとした足取りで、怪盗に差し出された手に近寄る。
人々は逃げるように、彼女の道をあけた。
ふわり、ふわり。白いドレスが揺れ動く。月の欠片が彼女の髪を流れる。
それは幽霊とか、ゾンビとかいうモノの類とはほど遠い。きれい。美しい。いや、神秘的。不思議な感じだった。
半年も前に死んだはずの少女が目の前にいて、しかも自分の足で歩いている。
僕は何度も瞬きをする。こんなことがあって良いはずがなかった。
人々が固唾を呑んで見守る中、ジゼルは怪盗の手に自分の手を近付ける。
だが、怪盗の手を取る前に、チラリとマルキードに冷たい視線を投げやった。
「ジゼル。ああ、生き返ってきてくれたのか」
ジゼルがやっと自分を見てくれたと素直に喜んだ彼は、その視線にすがった。
だが、彼女はそれを鼻で嗤う。
「さようなら、お父様」
それは少女にしては低い声だった。そして、ひどく冷たく、残酷だった。
彼女の手をうやうやしく取った怪盗は、そのまま腕の中に彼女を引き寄せて、その腰を抱いた。
「海の娘の凍りついた時間、ご覧の通り、解かしてみせた」
そう言ったかと思うと、怪盗は素早く拳銃をしまい、窓枠に駆け寄った。
そして、ジゼルもろとも闇の中に姿を消したのだ。