13,月夜の怪盗の3つの目的
その優雅な動作に、目も、心さえも奪われてしまった人々の中で、いち早く我に返った者はドルーエだった。
「怪盗R!」
「お久しぶりです、ドルーエ警部」
「貴様っ!」
ドルーエが掴みかかろうと歩み寄ると、彼はサッと何かを突き出して、それを制した。
「それ以上近付かないでくださいよ。警部のおっかない顔に驚いて、手を滑らせてしまいますから」
それは怪盗Rの手の中で黒光りした。
彼の優雅な動作から想像できない物を唐突に出され、それが拳銃だと分かるのに、僕は時間を有する。
だが、事実、彼は拳銃を片手にし、その銃口をベッドに横たわっているマルキードに向けていた。
どんなに時間をかけて見定めても、それは現実に起こっている事らしい。
なぜ彼がこんな真似をしているのか、僕にはまるで分からなかった。
「貴様の目的はダイヤだろう。血迷ったか、怪盗R! ダイヤはここにはないぞ」
ドルーエの言葉に彼は、くくくっと笑う。
「ダイヤ? 今回は、ダイヤが欲しくて伺ったんじゃありませんよ。予告状にもちゃんと書いてあったでしょう?」
「貴様の予告状は、毎度、毎度、意味がわからん」
彼は再び笑った。僕はそんな彼をじっと凝視する。
散々説明され、怪盗Rの正体はルクレールだと納得したはずだったのに、どうしても目の前の怪盗とルクレールが同一人物だとは、僕には思えなかった。
そのしゃべり方。声音。ちょっとした仕草。まるで別人なのだ。
だから、こうして、平気で姿を晒すわけだと、感心さえする。
怪盗Rがいくつもの顔を持つ、変装の名人だという噂もあながち嘘ではないようだ。ルクレールを知る者の前にも、平然と怪盗としての姿を見せ、しかもそれがばれずにいるのだから。
脅えるマルキードと目が合ったドルーエは、舌打ちして、数歩後退った。
怪盗紳士と自称するだけあって、怪盗Rはこれまでに殺人を犯したことはない。だが、この先もそうであるとは限らない。現に、人質を取り、銃口を向けているではないか。
ドルーエは、もしもの時を考えて自分の拳銃の在処を手探りで確認した。
その時、数人の警官が息荒く駆け込んできた。
「警部、ドルーエ警部、大変です!」
「なんだ?」
苛立ちながら返事を返したドルーエの目は、食い付くように怪盗を睨み付けたままである。
「ダイヤが。ダイヤが……」
「なんだ! ダイヤがどうした!」
「盗まれました!」
「何!」
驚きのあまり振り返った彼は、知らせに駆けつけてきた警官を、信じられないものでも見るかのように見つめた。
「いったいどういう事だ?」
ドルーエは怪盗をギロリと睨み付けた。
「ダイヤには興味がないのではなかったのか?」
怪盗は肩を竦めた。
「興味ないと言った覚えはありませんね」
「貴様!」
「警部、いけません。人質が」
怪盗に掴みかかろうとしたドルーエをスタンダールが後ろから羽交い締めにする。
「もっと冷静になってください」
「ぬっ」
低く唸り、力を抜いた彼にホッとして、スタンダールも力を抜く。
「私はホールの様子を見に行ってきます。警部、冷静にお願いしますよ」
と強く言い放ち、スタンダールは知らせに来た警官たちと寝室を去っていった。
ドルーエは乱れた衣類を正し、再び怪盗と対峙する。
「貴様の目的は何だ?」
「目的? いくつかあるんですが……」
「いくつかぁ?」
ドルーエの声が裏返る。どうも彼は冷静とは言い難い。
その様子に怪盗は、くくくっと笑う。
「まずは返して貰う物を返して貰いましょうか」
銃口の先にいるマルキードを見下ろした。
マルキードは怯えながら頭を左右にブンブン振り回し、叫んだ。
「私は何も知らん! お前に返してやるような物など」
「時計ですよ。懐中時計です」
「懐中時計?」
「ええ、あなたが持っていらっしゃるのでしょう? 銀色の、裏に『A・L』と刻まれている……」
彼の言う懐中時計とは、どうやらジゼルを殺害した犯人の遺留品とされた懐中時計のことらしい。
確かにあれはフォークスが友情の証としてルクレールにあげた物で、ジゼルに奪われた物。返してくれと言うのは、間違いではない。
「あの、あの時計はお前の物だったのか?」
信じられないという顔で怪盗を見上げるマルキード。
「ええ。返していただけますか? あれは、私にとって、貴方のダイヤと同じくらい大切な物なんです」
「ダイヤと……」
頷く怪盗にマルキードは俯く。そして、この場にいるはずの執事に命じた。
「シャルダン、私の机の一番上の引き出しから、時計を持ってきてくれ」
だが、人々の群れから、誰一人動く気配しない。
「シャルダン? いないのか、シャルダン?」
先程よりやや声を張り上げる。すると、しばらくあって、遠くの方から返事が返ってきた。マルキードは先程の言葉を繰り返す。
「机の一番上の引き出しだ。時計を取ってくれ」
「はい」
低い声が静かに寝室に響いた。
隣の部屋からいくつかの物音がし、すぐにシャルダンが戻ってくる。懐中時計を手にして。
マルキードはそれを受け取ると、そのまま怪盗に突き出した。
「確かに」
怪盗はそれを受け取り、上着の内ポケットに丁重にしまう。
そんな二人のやり取りを籠の外で見ていたリリアーヌは、何やら全てを承知したような顔をして二人の前に躍り出た。
「つまり、その時計は怪盗R、貴方の物だったの? ――ということは、ジゼルを殺したのも貴方ってことなのね。なんて、恐ろしい」
彼女はハンカチを口元にあて、汚らわしいものを見るかのように怪盗を睨んだ。
それには、怪盗は肩を竦めて答えた。
「妙な言いがかりはよしてください。時計は確かに私の物ですが、私が彼女を殺して何の得になりましょう? 私ではありません」
「その時計は犯人の遺留品ですのよ。それが貴方のだと言うのなら、貴方が犯人だということになりませんの?」
怪盗Rは胸に手を置き、懐中時計を衣類の上から押さえつけた。
「夫人、そもそもこの時計が犯人の遺留品だということ自体が誤りなんですよ」
「なんですって?」
怪訝な顔できき返したリリアーヌに、怪盗は笑う。
「あなた方は私の言葉よりも、そこにいらっしゃる探偵の言うことを信じるのでしょう? 真実は彼に聞いてください」
怪盗の言葉にその場の者たちは一斉にフォークスを振り返った。
僕も、急に話を振られた上、面倒を押しつけられ、怒りゲージを上げた探偵に、恐る恐る目を向けた。
「こんなところで僕に演説しろとでも言うのか。……アルの奴、後で覚えていろよ」
ぼそっと吐き捨てるように呟いたフォークスの言葉は、おそらく僕にしか聞こえていなかったはずだ。
フォークスはステッキで、トントンと自分の肩を軽く叩くと、一同の顔をぐるりと見渡した。
「ご説明いたします」
彼はゆっくりと話し出した。
「まずジゼルの死因ですが、僕が見たところ、彼女の死因は毒針によるものです。殺害時に着ていた服にもそれらしき痕が見られました」
「毒針ですって? それでは、本当に自殺ではないの?」
聞き返したリリアーヌに向き直り、フォークスは続ける。
「その通り、自殺ではありません。他殺です。このことは少し調べれば分かること。もしも警察が調べていたら、今頃このような騒ぎになることもなかったでしょう。――しかし、当初この屋敷には警察は足を踏み入れることができなかった。ボードレール氏が拒んだからです」
娘は死んではいない、そう言って。
フォークスはマルキードをチラリと見やり、話を続けた
「死因が毒針であるのなら、これは事前に、彼女の洋服に毒針を仕込んでおけば良いもの。ジゼルが死亡していた現場にいる必要はない。いや、むしろその場にいない方が、都合が良い。そうだとは思いませんか?」
確かにそうだ。ジゼルが死んだ時その場にいた者がまず疑われるもの。いない方がいいに決まっている。
だからこそ、いつ彼女に刺さり、彼女を殺すか分からない毒針を殺害に使ったのだろう。
犯人にはジゼルがどこで死ぬか予想が付かなかった。だとすると――。僕はフォークスの次の言葉を予測しながら、口を閉ざして待った。
「もうお分かりですね。この事件に犯人の遺留品などあるはずがないのです」
言い切ってから、フォークスは、更に、と言い加えた。
「大方の者は懐中時計を上着の内側に仕舞います。そこは何かの拍子に落ちてしまうようなところではありません。万が一、落ちたとしても時計が落ちればそれなりに物音がしますよね? いくら殺人を犯し、精神が異常な状態にあったとしても、気付かないわけがありません」
――確かに。
ジゼルの部屋の床は全面板張りだ。
懐中時計ほどの重さがあるものが落ちれば、それなりに音がするだろう。
懐中時計を遺留品だとするのは、些か無理なことだったのだ。
「無実証明かな?」
怪盗は、くくくっと笑った。
だけど、と怪盗の笑いを遮ったのはリリアーヌだ。彼女は己の頬に片手を置いて、夫を見やる。
「それなら、なぜあなたはその懐中時計が遺留品だとおっしゃったの?」
夫人は首を傾げる。当然だ。僕だって分からない。マルキードは、懐中時計が遺留品だと、半年経ってから突然言い出したのだ。
フォークスがぐるりとステッキを回した。
「その理由は、懐中時計の裏に刻まれたイニシャルにあります。――その懐中時計は、どこぞのまぬけな怪盗がジゼルに奪われてしまった物だそうです。ですから、これはボードレール氏の勘違いなのですが、あなたはジゼルがイニシャル『A・L』の者に好意を抱いていると思い、その者を探し出そうとなさったのです」
後半はマルキードを見つめながら言い放たれた。
「一般的に、懐中時計は男性の持ち物です。少なくとも少女が持つような物ではない。それをジゼルが大切に保管していた。あなたが勘違いするのも止む得ないことだったでしょう」
フォークスが言葉を切り、少しの間、部屋はシーンと静まりかえった。その沈黙を破った者は意外にもマルキードだった。
「その通りだ。私はジゼルのその様子を見て、あの子は何者かに心を奪われているのだと思ったのだ。そして、懐中時計に刻まれたそのイニシャルこそ、その者のものだと」
フォークスは頷く。
「そして、もう一人、あなたと同じように考えた人物がいます」
誰だろう、と僕が息を呑んだ時、怪盗が低く声を響かせた。
「二つ目の用件に移ろう」
「二つ目?」
怪盗の言葉にドルーエは嫌な顔をした。
「警部、いつもお世話になっているお礼に一つ手柄を差し上げますよ。私に比べれば小物ですが、ここに盗人がいます」
「何?」
ドルーエは訝しげに怪盗を見やった。僕も驚き、ルクレールを振り返る。その彼はフォークスに視線を向け、フォークスは細い眉を歪ませながら口を開いた。
「――ところで。僕は、この屋敷に来てすぐにある人物をジゼル殺しの犯人だろうと確信しました。けれど、動機が分からない。そこでヒントとなったのが、オンディーヌの存在です」
ご存じですか、とフォークスはマルキードを見つめる。
「僕は昨日、とある街に行ってきました。海の近くにある活気に溢れた街でした。けれど、表通りの賑やかさに対して、裏通りにはゴミが溢れ、そのゴミに紛れて何人もの子どもが捨てられていました」
彼の声は静かに響く。そして、唐突に始められた話に誰もが戸惑った。だが、そんな中で唯一人、マルキードだけが幾度も頷いている。
フォークスは話を続けた。
「その街には小さな教会があり、近くに孤児院があります。数十年前その孤児院には、オンディーヌという美しい少女と、彼女と姉弟のように育った少年がいました。ある日、金持ちの男がやって来てオンディーヌを見初め、彼女を孤児院から連れ去りました。残された少年はその男を恨み、金持ちすべてを憎むようになりました。と同時に、彼は金持ちから宝石を盗むことに喜びを覚え、多くの盗みを犯すようになったのです」
フォークスはチラリと辺りに視線を滑らせ、瞼を閉ざす。そして、再び瞳を開いた時、言葉を紡ぎ出した。
「そして、その少年――いや、男は思い出したのです。数十年前、自分から愛しいオンディーヌを攫った金持ちの存在を。彼はその金持ちの家に入り込み、その家の秘宝を盗む計画を立てたのです」
もう『その金持ち』『その家』などという言い方は相応しくないだろう。金持ちとはマルキードことで、その家とはボードレール家のことだ。
そして、ボードレール家の秘宝とは、『セイレーンの涙』のことに違いない。
「男はオンディーヌを奪われた恨みを、ボードレール氏から秘宝を盗むことで晴らそうとした。ところが、ボードレール氏の手元に『セイレーンの涙』はない。聞くと、ジゼルに譲り渡されたのだと言う。そうして、彼はジゼルに近付いた」
「ところが、ここで男にとって誤算が生じる。ジゼルが彼に恋してしまったからだ」
フォークスの言葉に続いたのは、ルクレールの声だ。まさか、と、皆の視線が怪盗に集まる。
「ジゼルの恋心を裏付ける証拠はない。だが、彼女と私は友人でね。私は彼女から相談を受けていた。オンディーヌの面影で追っている相手に、自分だけを見て貰うにはどうしたら良いか、ってね」
「そんなジゼルの様子を見て、思い違いをした男が二人。一人はボードレール氏、そして、もう一人はその男。彼らはジゼルに秘密の恋人ができたのだと考え、男は彼女がその者に『セイレーンの涙』を渡したのだと考えた。ジゼルの身の回りをいくら捜しても、紫のダイヤなんて物、見つからなかったものだからね」
「そうこうしているうちに、ジゼルが死に、男はますますダイヤの行方が分からなくなった。そこに遺留品の登場。その裏に掘られたイニシャルこそ、ジゼルの恋する相手だと、彼は思ったのだろう」
さて、とフォークスは杖で床を突いた。
「ボードレール氏に、ジゼル殺しの犯人のイニシャルはA・Lに違いないから、村中のイニシャルA・Lの者を集めるように助言した者がいます」
マルキードは驚いた表情でフォークスを振り返った。その顔からして、もはやその人物に心当たりがあるようだ。
「その男もボードレール氏も、懐中時計が犯人の遺留品でないことは承知していた。けれど、ジゼルの想い人を見つけ出したいという思いは共通しており、ボードレール氏はその男の提案に頷いた」
かくして、パーティーは開かれた。
フォークスの話に納得して頷いたドルーエは、ところでと言葉を継ぐ。
「それで、その人物は、いったい誰なんだね?」
「それは……」
フォークスはぐるりと人々を見渡した。人々も固唾を呑んでフォークスの漆黒の瞳をじっと見つめ返す。いや、その中に一人だけ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返せない者がいた。
フォークスはその存在に気付き、わずかに笑う。彼はスッテキの先をスッと持ち上げて、その人物を指した。
「貴方です。ジョゼフ・シャルダン」
静かに響いた彼の声に誰もが耳を疑った。
シャルダンはボードレール家の優秀な執事だ。いつも禁欲的に黒いスーツを着込んでいる。
口数少なく、目立つことなく佇む様子は影のようで、気が付くといつの間に側にいる、そんな人物だ。
「シャルダンが?」
「まさか!」
信じられるわけがないとばかりに声を張り上げたのは、リリアーヌ。そして、シャルダンと親しい使用人たちだ。
だが、一番驚きの表情を浮かべたのは、名指しされた当の本人だった。