12,僕のものに手を出すな。ただし、僕は君のものを使う。
フォークスが戻ってきたのは翌朝になってからだった。それも、太陽が昇る直前。空と海との境界線がほんのりと赤みがかった頃だ。
当然、屋敷内は寝静まっており、呼んでも叫んでも玄関を開けてくれる者はなかったのだと言う。
それで仕方なく、気持ちよく眠っていた僕を、窓ガラスをガタガタ叩き、文字通り叩き起こしたのである。
フォークスは無事に部屋の中に入ることができて、めでたしめでたしだが、僕にとってはいい迷惑だ。
しかも、僕の災難はそれだけに止まらなかった。
疲れたと言って、フォークスは僕のベッドに潜り込んできたのだ。自分の寝室に行く気力もないと言って。
そして、更に、二人で寝るにはベッドが狭いと言い、僕を床に蹴り出した。
僕が文句を言うと、自分のベッドを使ってくれと言い、そのまま泥のように眠ってしまった。
仕方がなく、僕はフォークスの部屋に行き、彼のベッドで寝直すことになったというわけだ。
そんなフォークスが目覚めたのは、太陽が昇りきって、西に傾き、再び赤みかかったころだった。
これほど疲れてしまうなんて、いったいどこに行き、何をして来たんだろうか。
フォークスが目覚めるまでの時間、僕は何度かダイヤの様子を見にパーティーホールに足を運んでいた。
いつそこに行っても、ダイヤの回りには人が溢れていた。警官はもちろん、ダイヤを一目見ようとする者たちが人垣を作っている。
だが、肝心のダイヤはホールの中央、台の上の小箱の中だ。触れることも、見ることさえもできない。
だが、今のところ、確かにダイヤはそこにあって、怪盗はまだ現れていないようだ。
目覚めたばかりのフォークスに濃く入れた紅茶を手渡すと、僕は昨日会った出来事をポツンポツンと語り出した。
リリアーヌに言われてダイヤを探すことになってしまったこと。そして、見つけてしまったこと。
珍しくフォークスは黙って僕の話を聞いていた。漆黒瞳がじっと僕を映している。
僕の不用意な言葉で、人々が寄ってたかって、ジゼルの瞳を刳り抜いたこと。その浅ましさを言葉にしている内に、僕の目は熱くなった。視野がぼやけていく。
「よりによって、あんな場所で、あんな風に言うべきことじゃなかったんだ。せめて、君が帰って来るまで待っていれば良かった。なのに、僕が、ジゼルの瞳こそが『セイレーンの涙』だって言ってしまったから」
涙が零れた。ひどく熱い涙だ。
「イレーヌが泣いていたよ。僕のせいだ。ジゼルを……、ジゼルの体を傷つけてしまった。それに、マルキードがどんな想いで、あのダイヤを、死んでしまった愛しい娘に与えたのかと思うと……。その気持ちも、僕は、踏みにじってしまったんだ」
まるで黒い瞳に向かって懺悔しているかのように、僕はひたすら話し続けた。
その声が涙で言葉にならなくなってきた頃、ようやくフォークスが口を開いた。
「それは違うな。ジョン、君はそんなに賢くない」
言われた言葉の意味が分からず、僕は顔を上げ、フォークスを見つめる。
彼は、フッと笑って、僕に歩み寄った。
「君はまんまと利用されたのさ。怪盗Rとその一味にね」
「ルクレールに?」
信じられないという顔した僕の頬を、フォークスは優しく撫で、そっと涙を拭った。
「君にキャッツアイを見せ、ジゼルの瞳を連想させたのさ。ジゼルの瞳が例のダイヤだと言わせる為にね」
「そ、そんな」
――信じられない。いや、信じたくない。
「そんなことさせて、ルクレールに何の得があるんだい?」
「得? ――得の有無は分からない。だけど、あいつは優しい奴だから、きっと君以上に苦しんでいるはずだ。君に申し訳ない、と」
それでも、そうしなければならなかった理由があったのだと、フォークスは続けた。
「その理由が何であるのは、あいつ自身に説明させるとして……。あぁーっ!」
フォークスは拳を作り、唐突に叫んだ。
「アルの奴! 絶対に許せないっ。いくらジョンがバカで、間抜けで、扱いやすいからって、利用するなんて! 僕は絶対、アルのすることには手を貸さないと言ったんだ。それは当然、僕の玩具であるジョンにも当てはまることで……。それを勝手に、僕がいないのを幸いとばかりに、利用するなんて!」
――玩具?
自分の玩具を勝手に遊ばれて怒っている幼児、いや、フォークスは、その仕返し計画に燃え出した。
よく眠ったおかげなのか、元気がいい。
そんな彼の、玩具発言にドッと疲れを感じた僕は、彼を横目にそっとため息をついた。
▽▲
フォークスの本日初めての食事は夕食であった。一人分の食事の支度を済ませたネリーがフォークスの姿を発見し、嫌味を含めて言い放った。
「あら? フォークス様、戻っていらっしゃったの?」
僕が前もって話しておいたので、彼女はそのこと知っていたはずなのだが、昨日の朝食の事を思い出して、嫌味の一つくらい言いたくなったのだろう。
だが、すぐにもう一人分の用意をしてくれる。
「どこに行っていらしたんですか?」
フォークスのグラスに葡萄酒を注ぎながら、ネリーは尋ねた。
「それを君が聞いてどうするんだい? 主にでも報告するかい?」
「マルキード様は……」
「彼じゃない。本当の君の主だよ」
一瞬顔色を失ったネリーにフォークスはクスクス笑う。
「ご存じだったんですか?」
「いや、今、分かった」
「カマかけたんですね」
怒ったような、呆れたような表情をするネリー。僕は二人に会話に付いていけず、交互に彼らの顔を見た。
「いったい、なんのことだい?」
「何? 大したことではないよ」
フォークスは僕に向き直り、笑う。
「アルが僕に会いに来ないわけだってことさ」
「え?」
「よくもまあ、遠く離れたところにいるこの僕を、あの彼がこうも放っておけるものだと感心していたんだけどね。実はそうじゃなかったんだ」
「はぁ?」
「つまり、ネリーの本当の主はアルなんだ」
「はぁ!」
「アルは彼女に、僕たちの監視を命じたのさ。わざわざ数ヶ月前からこの屋敷に潜入させておいてね」
「監視だなんて、そんな大げさですよ。ただ見守っていろと言われています」
「逐一、行動を報告してか? それに、君だろ? リリアーヌに余計なことを吹き込んだのは。―ーアルも前もって吹き込んでいたのだろうけど、君が、予告状が届いてすぐあの御夫人に『都合良く探偵が屋敷に滞在しているから依頼してみたらどうだろう』とかなんとか言っただろう」
フォークスの言葉にネリーはただ笑った。それを肯定と見て、彼は仰々しくため息をつく。
「アルはあの時そうそう容易に出歩ける状態になかったはずだから、どうもおかしいと思っていたんだ。早すぎるってね。あの夫人がパーティーの出席者全員の名前と職業を把握しているはずがないし、僕の名前をアルから聞いていたにしても、それを早急に思い出せるはずがないんだ。これは誰かが耳打ちしたに違いなって」
――ネリーが怪盗Rの一味だったなんて。
その衝撃は少なくない。信じられなかった。
だが、思い返せば、昨日、ルクレールにあった時、彼はフォークスがいない理由を僕に尋ねてこなかった。彼なら一番先に聞いてきそうなものなのに。
今ならそのわけが分かる。彼は知っていたのだ。ネリーから伝え聞いていたから、僕に尋ねるまでなかったのだ。
ギョームといい、ネリーといい、怪盗Rは本当に手回しが良い。
▽▲
夕食を済ませた僕らは、相変わらず人垣を作っているパーティーホールに足を向けた。
正確にものを言えば、人垣はダイヤのすぐ回りにできているのではなく、ホールの入り口にできている。警察以外の者がホール内に立ち入ることを、ドルーエが禁じたのだ。
僕らは、遠巻きにダイヤを眺める人々を押し分けて、ドルーエを呼んだ。
彼はすぐに僕らの姿を認め、大股で歩み寄ってきた。
「これは、これは探偵殿とその助手殿。どうかなされましたかな?」
「怪盗はまだ現れていないようですね。警部のお働きを見学したいのですが、よろしいですか?」
表面上さわやかに微笑んだフォークスを、やはりニコニコと不気味に笑うドルーエがホール内に招く。
「もちろんですとも。大いに見学してください」
フォークスの後についてホール内に足を踏み入れた僕は、中央に置かれた台の上を見た。
やはり、昨夜のままに、どこにでもある小箱がポツンと置いてあった。
それを確認してから、ホールをぐるりと見回すが、こちらも特に変わった様子はない。
ギョームも、――いや、スタンダールも昨日同様、素知らぬ顔でドルーエの横にいる。
僕と目があった彼は、そっと、あくびをする真似をして見せた。そんな彼に僕は苦笑を返す。
こうして、ここでしばらく変化の訪れを待つことになったのだ。
▽▲
変わらぬ時は淡々と過ぎていく。人垣の中から、一人、また一人と消えていき、気が付くと辺りは重苦しいほどに静まりかえっていた。
壁沿いに立ち続けていた警官たちにも、疲れの色が表れ、その場にしゃがみ込む者も多い。
僕は、フォークスがぐるぐると振り回すスッテキの先をぼんやりと眺めていた。
時刻は二十三時五十五分。
あと五分で予告の時間が終わる。あと五分経って、なんの変化も見られなかったら、怪盗Rは現れなかったことになる。そして、ダイヤは守られたことになる。
そんなことを考えていると、突然、あのガラス張りの扉が開いた。
側にいた者たちは誰が開けたのかと、お互いにお互いの顔を見合わすが、誰一人開けた者はなく、扉は勝手に開いたのだ。
「風だろうか?」
フォークスを振り返ると、彼も怪訝な顔をしていた。だが、その隣でスタンダールが笑いを堪えているのが目に入った。
その笑いの意味を尋ねようと口を開いた時、夜空をも切り裂く悲鳴が館中に響いた。
「な、何事だ?」
その悲鳴はドルーエの予想外の場所から聞こえた。もちろん彼だけではなく、フォークスや僕にとっても予測外のことで、僕らは一瞬目線を交わし、悲鳴が聞こえた方に駆け出した。
「フォークス、今の……」
僕にはどうもその悲鳴がネリーのもののように聞こえたのだ。フォークスも同じ事を思ったのか、頷く。
「とにかく急ごう」
「うん」
ボーン、と低く、午後二十四時、同時に午前0時を知らせる時計の鐘の音が、どこからか響いてきた。
突線の叫び声に引き寄せられて、館中の者たちが次々と駆けつけてくる。
早くも眠りについていたのか、寝間着で駆けつけてくる野次馬。酒でも嗜んでいたのだろうか、赤い顔をした者。もちろん、ダイヤを心配していたのだろう、リリアーヌの姿もあった。
駆けつけた先は、思いがけず、マルキードの部屋であった。
初めて入った部屋に僕は辺りをぐるりと見回した。
そこは、意外にも、質素な部屋だった。それはもちろん、この屋敷の豪華さに比べれば、ということだが。
リリアーヌの部屋のように、誰それの名画、何とかの名作、すごく貴重な何々といったものが、ごった返している部屋とは異なり、質素。
――いや、違う。
質素と言うのは誤りだ。趣味が良いのだ。
おそらく、一つ一つの家具はどれも、僕が想像を絶するほど高価な物であるに違いない。
だが、高価だと言うだけで買い集めたのではなく、一つの物が他の物と違和感なく同じ空間に有り続けることができるように、考えられて買い集めたという感じがあった。
一見古めかしい机と椅子を始め、ほとんどの家具は木材の物ばかりだ。
金、宝石類は見あたらず、変わりに数々の骨董品が棚を飾っている。なんだかホッとするような、くつろげる空間だった。
僕らの後ろから数人の部下を引き連れて駆けつけたドルーエは、ずかずかと部屋の奥に入り込むと、そこに突っ立っている少女に歩み寄った。
「君、大丈夫かね? いったい、何があったって言うんだ?」
少女――ネリーは、じっと一点を見つめたまま黙っている。ひどく何かに脅えているような表情だ。
フォークスと僕もネリーに歩み寄ると、それに習うようにリリアーヌと野次馬たちも部屋に足を踏み入れた。
小刻みに震えるネリーの視線の先は、マルキードの寝室だった。
彼の寝室は、だだっ広い部屋に大きなベッドが一つあるだけの簡素なものだったが、
ゆうに人が出入りできるほど大きい窓から差し込む月明かりが、なんとも神秘的な雰囲気を与えている。
ジッと見据えたまま動こうとしないネリーを諦めて、一同はマルキードの寝室に踏み込む。
三日前よりも、さらに大きく丸い月に照らされた寝室の中は、明かりをつけていないのに十分に明るい。
今晩は満月だ。
僕はその明かりに引かれるように窓に目をやった。
すると、窓枠に軽く腰掛けた人影がその目に映る。月を背にしているため、はっきりとその顔は見えない。
ただ、黒いシルエットはくっきりとそこにあった。
シルクハットを被り、タキシードを着、膝裏まであるマントを羽織っている。
僕の胸の内で、『誰だ?』という疑問と『まさか!』という期待が交差した。
血が逆流しているかのように体が熱い。
その想いが僕だけのものではないことを、その場の緊迫した空気が知らせる。
息を呑んで、人々はそのシルエットを見つめた。
シルエットは、寝室になだれ込んできた人々の顔ぶれをぐるりと見渡し、ゆっくりとした動作で窓枠から降りた。
そして、
「こんばんは、皆々様」
と、上品にお辞儀をした。