11,正しくない道具の使い方
はたして、僕が言い終わるのが早かったのか、彼らが駆け出したのが早かったのか。我先にとジゼルの部屋に駆けつけた者たちは、イレーヌの悲鳴も制止も聞かず、ジゼルの眠るガラスケースに詰め寄った。
僕は早くも後悔していた。自分の言葉がこれほどまでに影響力を持ったのは初めてだった。
重い音と共に、ガラスケースの蓋が横に滑らせるように開けられた。
異様な臭いが漂う。得体が知れないモノが腐った臭いと、それを紛らわせる為の臭い。そして、咽に焼きつくような蝋の臭い。
ハンカチを口元に当てたリリアーヌが無言でシャルダンを見、顎をしゃくった。
シャルダンは無表情のまま僅かに頷き、手袋をした手をジゼルの顔にゆっくりと近付けた。
いくつもの瞳が固唾を呑んで見守る中、シャルダンの手はジゼルの右目の睫毛を摘むようにして、その瞼を持ち上げた。
「紫」
誰かが呟いた。いや、誰もが心の内で呟いたのだ。
「これが『セイレーンの涙』なのか?」
ジゼルの瞳として収まっていた物は、きれいな球体にカットされた紫色のガラス玉のように見えた。
――これが?
僕は一瞬思考が停止した。
ジゼルの瞼を開いたら、見慣れたダイヤの形をした紫の物が中に入っていると心の底で思っていたからだ。
それは、例えば、ダイヤを含めた宝石類が、店に並んでいるような姿そのままで、鉱山で発見されるのだと信じているようなもので、一般人がダイヤらしいと思うような姿になる為には、そのようにカットしなければならないのだということを失念していた。
――では、やはりこれが『セイレーンの涙』なのか。
僕が考え込んでいるうちに、シャルダンの手は左目をもこじ開けていた。そちらにも同様の物が入っていることが確認される。
確認されれば、次の行動は決まっていた。
「何かないかしら? 細い棒とか」
キョロキョロと辺りを見回す彼らに、僕は、さぁーっと血の気が引く思いがした。
彼らが次に起こす行動は十分に予想できていて、そして自分にはその行動を止める力がないのだ。
恐ろしさに膝が笑う。まさか、自分の言葉一つでこんなことになるとは。
「これはいかがですか?」
シャルダンが指し示したのは、銀色の小さいスプーンだった。
それは生前のジゼルの物で、彼女の机の上にカップと共に置いてあった物だ。
「それでどうなさるのですか?」
青ざめた顔のイレーヌは、シャルダンの手からスプーンを取り返そうと震える手を伸ばした。だが、彼は素早く身を翻す。
ますます顔色を失ったイレーヌは、おそらく、そのスプーンで彼らがこれから何をするのか、ちゃんと承知しているようだった。だが、どうすることもできない。
彼女は、永遠に眠り続けるジゼルのために、毎日毎日、飲まれることのない紅茶を用意してきた。
本来なら、ジゼルが飲むであろう時間に紅茶を入れ、受け皿に角砂糖を二つと銀のスプーンを添え、彼女の机の上にそっと置く。そして、夕刻には、冷めきったコーヒーとそれらを片付けるのである。
そんな彼女のジゼルへの想いの象徴であるそれを、シャルダンの手によって汚されようとしているのだ。それも、ジゼルさえも傷つけて……。
「あら、いいんじゃない?」
リリアーヌは執事を労うように微笑んだ。そして、再びジゼルに向かって顎をしゃくる。
シャルダンは長い指を持て余すかのように小さなスプーンを手にして、その丸みを帯びた先端をジゼルの顔に近付ける。
そして、先程と同じように瞼を開き、いよいよその先端が目の中に差し込まれたのだ。
僕は自分の目に痛みを感じたような気がして、グッと目を閉じた。だが、本当に痛みを感じているのは目ではない。胸だった。
いくらジゼルが死んでいるからって、眼球を刳り抜くなんて。いや、亡くなっているからこそ、その体を敬うべきで、こんな行為が許させるわけがない。
僕は固く唇を噛み締めた。
自分のせいでこんな事になってしまって、それを止めることさえ敵わなかったのなら、せめて、全てを見届けなければならない。そう思い、瞼をこじ開けた。
すると、ちょうど、シャルダンが手にしたスプーンをぐるりと回し、ダイヤを穿り出したところだった。
取り出されたダイヤは、先程のコーヒーの受け皿に置かれ、彼はもう片方の目に取りかかった。同様に、ぐるりと回し、穿る。
コトンっと軽い音を立てて、もう一つのダイヤも受け皿の上に置かれる。
「これが……」
「『セイレーンの涙』」
眼球を失ったジゼルはもはや人々の関心を失い、その視野からも意識的に外されていた。
彼らは二つの小さな球体が入った受け皿を尊い物のように持って、臭いのきつい部屋から足早に出て行く。残された者は、ジゼルの傍らにしゃがみ込んだイレーヌだけだった。
彼女のすすり泣く声が耳に痛い。
僕は頭を勢いよく何度も左右に振ると、先に出ていった彼らを追いかけた。
▽▲
彼らが向かった先はリリアーヌの部屋であった。彼女は二つの球体をきれいに洗わせると、それらを手袋越しに摘み、自分の額の高さまで持ち上げ、満足げに見入った。
「ほほう、これがボードレール家の秘宝ですか」
「なんて素晴らしい」
「カットし直したとしても、これはかなり大きいダイヤですぞ」
どこでどう伝え聞いたのか、暇を持て余した金持ち客がハイエナごとく集まってきていた。
彼ら相手に夫人はますます得意げになって、声高らかに言った。
「そうですとも。これが我がボードレール家の秘宝『セイレーンの涙』ですの。今までにこれほど素晴らしいダイヤを、みなさん、見たことがありますか? ああ、なんて美しいの」
僕は金持ちたちが作る人垣の中に入り込めず、また、部屋の中さえ入り込むことが敵わず、遠巻きにその様子を眺めていた。
その時、視界が陰る。
予感がして見上げると、思った通り、ドルーエがそこに立っていた。
「この忙しい時に、何を騒いでいるんだ。まったく金のある連中は理解し難い」
僕に話しかけているわけではなく、単なる独り言のようだが、その割には大きな声である。
だが、得てして、独り言とは本当に一人の時は声に出して言わないものである。そこに誰かがいるから、声にするもので、その本心は人に聞いてもらいたいのである。よって、声の大小はこの際問題ではない。
僕は横に立つ男を少し見上げて、聞き返した。
「そんなに忙しいんですか?」
すると、それまで僕の存在など無視しているかのようであったドルーエは、僕にジロリと目を向け、答えた。
「あたりまえだ。怪盗Rが現れるまでにそう時間がない」
「ですが、予告では明日と……」
「馬鹿者!」
ガラガラ声で怒鳴られて、僕はびくりと肩をすくめた。それを見て、彼は決まり悪く咳を一つ付く。
「君の言う明日というのは、寝て起きた次の日のことかな?」
「違うんですか?」
「君にとって一日は二十四時間じゃないのかね?」
質問に質問を返し、さらに返されて僕は、はっとする。
「午前0時から午後二十四時までです」
「その通り。今回の予告状には時刻が記されていなかった。よって、二十四時間のいったい何時、奴が現れるか、わからんのだ」
「警部はずっと見張られるのですか?」
「むろん」
言い切ったドルーエに僕は絶句する。
そんな僕に構わず、更に彼は、
「もっとも、肝心のダイヤがみつかったのでな。当初より楽ができそうだわい」
と、ガハガハ笑った。
そして、人垣を押し分け、ずかずかと部屋の中に入っていく。
「ボードレール夫人、それが噂のダイヤですか?」
僕も慌てて彼の後を追う。
「そのダイヤ、ご存じのように、怪盗に狙われておりましてね。我々が責任を持って怪盗の手からお守りいたしますんで、ちょっとばかし、お預けください」
ドルーエは使い慣れないのか、妙な敬語でリリアーヌに一方的に話しかけた。
「せっかく見つけた、大切なダイヤを怪盗なんぞに持って行かれたくはありませんでしょう?」
「え、ええ」
彼の勢いに圧倒され、それでも気のなさそうに頷いた夫人は、ドルーエの手に二粒のダイヤを手渡した。
「必ず……」
「はい、必ず守り抜きます。どうぞご安心を」
ダイヤを失って急に意気消沈したその場を後にしたドルーエは、その足でパーティーホールに向かった。もちろんそこは、最初の晩にパーティーが行われた場所である。
なぜ、こんな場所に? と思いながら後をついてきた僕は首を傾げる。だが、すぐにそのわけが分かった。
広く、見晴らしの良いホールに数十人あまりの警官が壁に沿うようにずらりと並んで立っていて、ホールのどこにも隠れる場所はない。
ドルーエの姿を認め、数百に警官が一斉に敬礼をする。
その様は何とも言い難い。軍隊のように規律正しく、もしかしたら、怪盗の一人や二人捕まえるなど容易いことなのではないだろうかと思ってしまうほどだ。
僕が一人で感心していると、こちらに駆け寄ってくる者があった。
「警部」
ずいぶんと若い刑事だ。もしかすると、僕と同じ年なのではないかと思えるほど、若い。
ドルーエは彼の姿を認めると、眉を顰めた。
「なんだね? スタンダール君」
「警部、ずっとダイヤを握り締めているつもりですか? 普通のダイヤだって、そりゃーないですよ。まして、それは普通ではないんですからね」
容姿もさることながら、口調も少年のようだ。
――刑事の童顔って、仕事に差し支えないのかな。
そんなことをぼんやりと考えていた僕だったが、ふと、気付く。どこかで見たような顔だ。
「これに入れてください」
スタンダールがドルーエに差し出したのは小さな小箱。どこにでもあるような宝石箱だった。
「これに入れるのかね? 君だって、こんな普通の箱を用意するではないか。もっとマシな物はなかったのかね?」
「なかったから、これなんですよ。早く入れてください」
二十歳は年上であろうドルーエに対し、この若い刑事は怯むことを知らない。まるで対等の友人のように話す。
――なんて気さくな……。あれ? こんな感じ、どこかで。
僕は、ああっと心の中でそっと声を上げた。
――ギョームだ! ギョームに似ているんだ!
一度そう思うと、スタンダールがルクレール家の庭師の息子、ギョームにしか見えなくなってきた。
「あ、あのう、ドルーエ警部」
「なんだね?」
ダイヤを小箱に入れながら、僕に振り返りもせずにドルーエが答える。
「彼は? ずいぶんと若いように見えるんですけど?」
「君の上司よりマシだと思うがね?」
ホール中央には両腕で抱えるほどのサイズの台が設置されて、ドルーエはその台のもとにゆっくりと歩み寄った。
いくつかのライトがそこに集中し、その場所だけ異様に眩しい。彼は小箱を台の上に置いてから、僕を振り返った。
「スタンダール君は異例の若さでパリ大学を卒業し、刑事となった。まあ、エリートだ。そこらのただ若い奴らとは違う」
ドルーエが言う『そこらのただ若い奴ら』の中には、おそらくフォークスも含まれているのだろう。
カチンと頭にきた僕が何か言い返してやろうと口を開きかけた時、それより早くに差し出されてものがあった。
視線を落としてそれを冷静に見ると、スタンダールの手だった。
「よろしく、ジャン」
彼は唇の端の片側を軽く持ち上げて言った。つられて手を出し、彼と握手を交わした僕だったが、はたと記憶を巻き戻す。
――なんだって? ジャン?
彼に名乗った覚えはない。しかも、ジャンと。
――まさか!
勢いよく顔を上げ、スタンダールの顔を見返す。
――本当にギョームなのか?
問いかける目を向けると、彼は僕だけに分かるほどわずかに肩を竦めた。それはまるで、秘密な、と言っているかのようだった。
やはり、エリート刑事スタンダールというのは偽りの姿なのだ。
ギョームに、いや、怪盗Rにまんまと騙されているドルーエが滑稽で、僕は心の内で嘲笑う。フォークスをバカにした分だけ大いに。
そうとも知らず、ドルーエは、たった今、フォークスがいないことに気が付いたように声を荒げた。それがまったく、わざとらしい。
「今日は、とんと探偵殿のお姿をお見かけしないが、どうかなされたのかな?」
「フォークスは調べたいことがあると、外に出かけています」
「出かけている? 今に怪盗が現れるというのにかね? まさかとは思うが、恐ろしくなって逃げ出したのでは?」
意地の悪い顔で、僕を見下ろすドルーエ。
「違います!」
――ああっ、もう。なんて嫌な奴なんだろう。フォークスを馬鹿にするなんて許せない!
憤った僕。だけど、次の瞬間、はっとしてドルーエの顔を見上げた。彼も僕を見つめており、にやりと笑うと、ついっと目を逸らした。どこか遠くを見つめる。
「あいつだけはわしの手で捕まえたいのだよ。あいつ――怪盗Rだけはな」
「ドルーエ警部?」
彼は瞳を伏せた。
「怪盗Rは妙な奴でな。わしは怪盗Rのような怪盗を他に知らない。そもそも怪盗って奴は一種の愉快犯と言えて、盗み自体を目的としていないのだよ。その目的は世間を騒がせること、自分に注目を集めること、警察とやり合ってスリルを味わうことなど様々だが、それらの目的の為には盗みにはいる前に予告状を出さなければならない。これがただの盗人と怪盗との違いだ。盗人の目的は一つ。金だ。盗む物自体に何らかの執心があって一時的に盗人になる場合もあるが、多くの盗人は生活に困って、他人の家に入る奴らだ。だから、奴らは金目の物であれば見境なく盗む。家に入ってから盗む物を探すのだから、予告状を出しようがないし、出さない方がより安全に盗めるというわけだ」
僕が彼の言葉に頷いたのを確かめて、ドルーエは言葉を続ける。
「怪盗Rを妙な奴だと言うのは、奴が怪盗らしくないからだ」
「らしくない?」
「ああ。どうやら奴は『怪盗』と言うよりも『盗人』に近いように、わしには思える。わしはな、奴が愉快犯だとは思えないのだよ。奴には奴なりの理由があるような気がする」
「理由ですか?」
「奴が盗みに入る家は、必ずその土地一、二を争う金持ちで、何らかの黒い噂がある家ばかりだ。汚い手で財を得たとか、その土地の貧しい者たちに辛くあたっているとか。奴はそういった金持ちたちの一番大切にしている物を盗んでいく。それが金目の物だろうと、なかろうとな。まあ、そのついでなんだろう。ちゃっかり、金目の物も盗んで行くが」
ドルーエは苦笑した。
「だから、奴が盗みに入ると、その土地の、特に下級層の者たちが祭りのように騒ぎ、喜ぶ。怪盗Rが自分たちの仕返しをしてくれたと言ってな。しかも、少しずつだが、貧しい者の手に金を分けてくれる。こんなありがたい怪盗が他にいるかね? 貧しい者たちにとっては天上で見守っているだけの神より、よほど縋れるのだろうよ。あげくは、奴に協力して、匿ったりするのだからな」
ドルーエの語る怪盗R像は、僕の知るルクレール像と一致していた。
なぜルクレールは怪盗などやっているのだろうかと、正体をうち明けられた時、疑問に思っていた。
――『善』の道を突き進む、太陽みたいな彼がなぜ?。
だけど、自分の欲の為ではなく、貧しい人たちに恵む為の資金が必要だったから盗みに入るのだと言われれば、なんて彼らしいのだと心から思う。
感心さえする。
「奴は愉快犯じゃない。怪盗とは言い難いのだよ。だが、もちろん盗人とも違う。予告状は出すわ。予告以外の物も盗むわ。世間を大いに騒がす困りものだが、必要に迫られてやっている。怪盗の中の怪盗であり、最も怪盗らしくない怪盗だ」
僕は黙って頷いた。
「奴が予告状を出すのは、警察に喧嘩を売る為じゃない。盗む家に対する礼儀のつもりなんだろうな。その証明になるかどうか知らんが、奴が初めて出した予告状にはこう書かれていた。『明晩二十四日、貴方の指輪をいただきに伺いますが、どうぞお構いなく』ってな。まったくふざけた奴だ」
そう言って笑うドルーエは、さすが怪盗Rを長年追いかけているだけある。本当に怪盗Rのことを良く知っている。
そんなドルーエだからこそ、聞いてみたいと思った。
なぜ、そこまで彼に関わるのか。なぜ、彼を追うのか。
「警部は彼を……。彼は本当に悪人だと思いますか?」
不意の問いかけにドルーエは黙って、首を横に振る。
「だったら、なぜ、彼を捕らえようとするのですか?」
「奴が怪盗で、わしが警察だからだ」
「確かに、盗みは良くないことだと思います。けれど、彼は自分の欲の為に盗みを働いているのではなく、貧しい人の為に……」
「盗んでいることに変わりはないと思うがね」
「けど!」
ドルーエは再び、今度はゆっくりと首を振る。
「先程の答えを変えよう」
彼は僕から目を逸らす。遠く、ガラス張りの扉の方に目をやる。扉の外はバラ園だ。気が狂いそうなほど広く、遠くまで赤い絨毯が敷き詰められている。
「奴が怪盗だからとか、わしが警察とかだからではない。わしは奴とゆっくり話してみたいのだよ。直接、会ってな。奴は頭がいい。世の中に思うこともあろう。こちらが考えもしないことを考えているかも知れん。思いがけない意見が聞けそうな気がするのだ」
ドルーエは苦笑する。
「それでも、お互いの立場はどうにもならん。わしが奴を捕まえんことにはゆっくり話などできんだろうな。そうなると、ますます、今のわしの最大の望みは、奴と酒を交わしながら、世の中の不条理さを議論することになる。もちろん、鉄格子越しでな」
ガハハハハと大笑いする彼に、僕もつられて淡く笑った。
叶うと良いですねなんて、ルクレールの友人の一人として、口が裂けても言えないが、彼の為に、いつの日か、そんな些細な願いが叶っても良いのではないかと、少しだけ思った。