1,天才は退屈に殺される
君が『悪』で、僕が『善』だなんて、
いったい誰が言ったんだい?
退屈を紛らわすために、あらゆる事件に首を突っ込んでいる、
ただそれだけの僕よりも、
欲深い者どもから金を巻き上げ、貧しい者たちに振る舞う君の方が、
よほど正義だと、僕は思うよ。
R・F
▽▲
彼は退屈を持て余していた。
そして、彼曰く、『退屈』というものは、人を殺すことができるらしい。
実際そうして死んだ者を僕は知らないが、目に見えぬ殺人鬼から逃れるために、彼は両腕一杯に新聞を買い占めて、僕を絶句させた。
面白い事件が起きていないかと、活字を貪り(むさぼ)読む姿は、薬の切れた中毒患者のように凄まじく、元がヴィーナス(美の女神)の息子のような容貌をしているだけに、その顔ときたら、彼の方こそ人を殺してきたみたいな酷い形相だ。
そんな彼と同じ部屋で過ごさなければならなかった数日間を、僕はこの先の人生において『牢獄看守の数日間』と呼ぶことを決めた。
ついに彼が力尽きたのは昨日のことだ。彼はベッドに倒れ込み、僕を呼んだ。
「ジョン、僕はもうだめだ。退屈に殺される。君は鈍感だから分からないかもしれないが、退屈ほど疲労するものはない。何もすることができないというのは、何かを過剰にしている時と同じくらい苦痛で、精神面ではむしろそれ以上の拷問なんだ。――ああ、ここから動けそうにない。指一本だって動かせやしない。それなのに、まさか君。君は僕にあのフランク教授の講義に出ろとか言うつもりではないだろうね。あの九十分間は体調がいい時でさえ苦痛なんだ。この僕の状態を見て察してくれ。とても出席できそうにないだろう? 僕は欠席するからね。君の方から教授にうまいこと言っておいてくれ。今日一日じっとしていることにしたんだ。だからいいかい? もし誰かが僕を訪ねてきても絶対に起こさないでくれよ。僕は重病だ。今にも死にそうなんだ。絶対だよ、ジョン。たとえ女王陛下の命令であろうと、君の友人の頼みを優先してくれ」
こんな風に言われては苦笑するしかない。もう勝手にしてくれと、こちらから頼みたい気分で、昨日一日、彼を放っておいた。
そして今朝、いかにも怠そうに彼は自室から出てきた。お気に入りの揺り椅子に腰かけると、わざとらしく大きなため息をつく。
「頭が重い。いや、痛い。肩が、背中が、腰が。……ともかくそこら中が痛い。あのベッド、僕にいったいどんな恨みがあると言うんだ?」
勝手に怒り出した彼に僕は呆れた。
「寝過ぎだよ。七時間から八時間が正しい睡眠時間だって本に書いてあったよ。それ以下ではちゃんと疲れが取れないし、逆にそれ以上では脳細胞が衰えてしまうんだって。それを君ときたら二十四時間、いや三十時間はベッドの中にいただろう?」
「小言は結構だ。頭に響く」
彼は眉を歪ませ、実に怠そうに額を抑えた。
「ああ、それと僕の机の上にある課題。あれ、君がやってくれ」
「はぁ?」
思いがけない言葉に僕が反射的に疑問の声を上げると、彼は更に眉を歪ませた。
「君が貰ってきたんだろ。君がやれ」
「何を言っているんだ。あれは君が昨日講義を欠席したから、代わりに貰ってきてあげたんじゃないか」
「あげただって? 恩着せがましい! 君は教授に僕のことをどう伝えたんだい?」
「風邪だよ。風邪をこじらせて寝込んでいるって」
「そうさ。それで、いったいどこの世界に風邪で寝込んでいる者に課題を出すバカがいる? 寝込んでいるんだ。やれるわけがないだろ。――だから、あれは君に出された課題だったのさ。勝手に僕の机に置かないでくれ」
そんなバカな話があるものかと僕は彼を睨んだ。悲しいことに、こんな時、睨むしか手がないのは、口論では彼に勝てないと分かっているからだ。
一年前のあの日、学生寮のルームメイトとして彼と知り合ったあの時から、僕は諦めることに慣れてしまっている。
そうでなければ、彼とはやっていけない。
彼、リチャード・フォークスは、僕たちの学年では少し浮いた存在だ。
二学年も飛び級した秀才であること。皆が認める美形であること。そして、もちろん、その毒舌ぶりも原因の一つだろうが、何よりも彼を周囲から孤立させているものは、彼の探偵業に他ならない。
皆の『探偵』に対する認識が低いため、何をしているのか分からないヤツだと思われているのだ。
対して彼は、己が周囲からどのように見られているかということに無関心だ。むしろ、静寂を良しとして、孤独を楽しんでいるところがある。
他者に歩み寄ろうという気持ちが指先程度もない彼は、ますます探偵業に没頭しているわけなのだが、困ったことに、彼への依頼はそう年がら年中来るというものではない。
そんな時こそ真面目に学生をしていれば良いものを、彼は退屈だと言って何もしようとしない。いや、何もしないどころか、僕に当たり散らすのだ。
「ジョン、君も暇な奴だな。僕に紅茶でも入れてくれないか」
一見頼んでいるようだが、これは命令だ。
「暇なものか。明日の講義の予習をしているんだ」
「それなら、なおさら紅茶を入れるべきだ。一息入れた方がいい。見えなかったことが見えて分かることもあるからね」
彼と言い争う気がない僕は、仕方なく席を立った。キッチンに立つと、彼のために食器棚からカップを取り出した。
特においしく入れようとは思っていなかったわけで、葉の量だって考えずに適当に流し込んでやった。湯だって、いつ沸かしたか分からないヤカンに入っていたもので、ずいぶんと冷めかかっているものを使った。
だから、彼が文句を言うだろうことは予測できていて、それに対する覚悟も十分にできていた。
それでも、実際言われてみると腹が立つ。
「まずい」
一言言い放った彼に、だったら自分でやれと思わず怒鳴りそうになった。いや、怒鳴っていたかもしれない。その時、ドアがノックされていなかったら。
「誰だろう? 朝っぱらから」
『朝』と言うが、今日は二人とも一時限目の講義がないので限りなく昼に近い。
「ジョン、開けてやってくれ」
言い捨て、そそくさと自室に戻った彼は、どうやら今日も風邪で寝込んでいることになっているらしい。
怒りよりむしろ呆れてその後ろ姿を見送ると、僕はドアを開けた。
「やぁ、ジャン。リシャールが風邪でまいっているんだって?」
そこに立っていたのは太陽みたいに明るい少年で、フォークスの数少ない友人の一人だった。
アルベール・ルクレール。
生粋のフランス人である彼は『リチャード』をフランス風に『リシャール』、『ジョン』を『ジャン』と呼ぶ。
フォークスとルクレールの仲は、僕が二人と知り合う以前からのもので、いわゆる幼馴染みだと聞いている。
だが、なぜ、イギリス人であるフォークスとフランス人のルクレールが幼馴染みなのかと言うと、実はフォークスの祖母もフランス人で、彼が幼少期のほとんどをフランスで過ごしたからだ。その時に、二人の家が隣同士だったとか。
それにしても、ルクレールを太陽と言うのならフォークスは夜空だ。それも真冬の雲一つとしてないような寒々とした空。
どうやって彼らの間に友情が成り立っているのだろうかと疑問に思うほど、二人は正反対な存在だった。
フォークスは同級生たちから孤立しているが、ルクレールはまるで人間磁石。常に人々の中心にいる。
すらりと背が高く、他の同級生たちよりも頭一つ分の差がある。誰よりも陽の光りを受けてキラキラと輝くプラチナブロンド。縹色の瞳は知的だ。
対するフォークスの髪や瞳は漆黒。世界中の闇を背負っているかのように黒い。
けれど、肌は陶器のようで、その黒と白の対比はハッとするくらいに妖艶だ。
そんな彼らは端から見て、特別仲が良いように見えない。月に数度、ふらりとルクレールがフォークスの部屋にやって来るくらいで、その他の交流はまったくないのだ。
しかも、二人は、ただ静かにお茶を飲んで時間を過ごすといった具合だ。
ふざけあったり、思いっきり体を動かして遊んだり、一緒に買い物に出かけたりといった普通の友達付き合いではない。
ルクレールの声を聞きつけて、フォークスが自室の扉を開いた。
「うるさい奴が来たな」
憎まれ口を叩きながら、彼は再び揺り椅子に腰を落ち着かせた。ルクレールは肩を竦めた。
「なんだ、ずいぶんと元気じゃないか」
フォークスのズル休みに気が付いて、苦笑し、持参してきたバラの花束をフォークスに投げやった。
バラはフォークスの膝の上に収まる。
「仕方のない奴だ。出席日数大丈夫なのか? 大概にしておけよ。本当に病気した時に困るだろ」
「君も夜遊びは大概にしとくんだな。妙な病気になるかもしれないよ」
バラを弄びながらフォークスは意味深に笑う。ルクレールは眉を歪ませた。
「ああ言えば、こう言う」
口調は怒っているようだが、本気ではない。どちらかと言えばルクレールは、フォークスの毒舌を好んで聞いてやっている。
彼に言わせると、憎まれ口もガキ臭くて可愛いのだそうだ。――なんて酔狂な。
ルクレールはソファに腰掛けると、足を組んで、実は、と口を開いた。
「俺も今日から風邪で寝込んでいることになっている」
「ふーん。どこか行くのかい?」
「まあな」
自分から振った話題だというのに、短い答えのみで黙り込んでしまった彼を、フォークスは訝しげに振り返った。
だが、すぐに、じっと自分を見つめている彼の瞳に気付き、手元のバラに視線を落とす。
悪戯なフォークスの指が鮮やかに赤い花びらを一枚、また一枚と摘んでは千切る。
くるくると、舞いながら落ちたその花びらは、花の一部だった時よりも美しく、妖しい。
触れるもの全てを己の色に染めようとしているかのように赤く、側にあるすべての者を酔わせてしまうほどに甘い香りを放っている。
「一緒に来てくれないか?」
しばしの沈黙後、ルクレールが言葉を放った。驚いて、フォークスは彼を振り返った。
縹色の瞳。そこからルクレールの真意を読み取ることは不可能だと悟ると、フォークスは苦く笑みを浮かべた。
「どういう風の吹き回しだい? 君が僕を誘うなんて。――それで? どこへ行くんだい?」
「我が母国、フランスさ」
「フランス?」
呟くように聞き返したフォークスに、ルクレールは頷く。
「俺の家の別荘がある辺りに――」
ルクレールの実家は指折りの金持ちで、パリ郊外にある巨大な本邸の他、フランス国内にいくつもの別荘を持っている。
フォークスが幼少期に住んでいたのは、ルクレール家本邸の隣だ。
そこでの思い出に何か嫌なものがあるらしく、フォークスはフランスと聞いただけで顔色を変えた。ルクレールの言葉を遮る。
「オルレアンでもマルセイユでも、どこにだって行けばいいだろ。いつものように一人で、勝手にどうぞ。だいたい僕は君のやることだけには関わらないようにしようと決めているんだ。君はろくなことをしないからね。面倒はごめんだよ。僕を巻き込まないでくれ」
ふいっと、フォークスは顔を背けた。
ルクレールはやれやれと頭を横に振る。
「まぁ、聞けって。お前の好きそうな話があるんだ」
そう言って、彼はフォークスが横目で自分をチラリと見たのを確認し、口元に笑みを浮かべ、続けた。
「半年前、ジゼルという名前の少女が死んだ。毒物による自殺だったらしい。その死体があまりにも綺麗だったもので、初め、誰もが彼女の死を受け入れられなかった。眠っているのだと思い、声を掛ける。体を揺する。だが、いくら呼んでもジゼルは目覚めず、次第に人々は彼女の死を認めていったんだ。――だが、たった一人だけ未だに認めない者がいる」
マルキード・ボードレール。
ジゼルの父親だ、と、彼は声を低めた。
「彼は、娘の埋葬を拒否し、死体をガラスケースに入れた」
「なんだって? 死体を埋めないで、ガラスケース? ……腐らないのか?」
「腐るさ。――皮膚は黒ずみ、内臓はドロドロだ」
「死んで半年も経てば当然だな。その腐った死体を見れば、そのマルキードとやらも娘の死を受け入れざるを得なかった。そうだろ?」
表情を歪めて発せられた疑問に、ルクレールは頭を左右に振った。
「いや。彼はジゼルの目覚めを信じて、その体を美しいままに保っている。崩れたところは蝋で塗り固め、補修しながらな」
「なんて男だ!」
ルクレールは話し上手で、予習をする振りをしながら二人の会話に聞き耳を立てていた僕も背筋をぞくぞくさせた。
彼がいつも多くの友人に囲まれているわけが分かった気がする。人の気を引き、楽しませる話し方だ。自然と耳が彼の声を拾ってしまう。
僕は教科書を閉じて、ルクレールの話に耳を傾けた。
「ところで、ここ最近、ジゼルの死体が消えるらしい。ガラスケースを抜け出して村を歩き回っているという噂だ」
「まさか!」
フォークスは呆れ顔になる。ルクレールも苦笑して、肩を竦めた。
「俺だって信じてはいない。だが、そういう噂が流れていることは確かだ。更に、マルキードが妙なことを言い出した。娘は自殺ではなく、何者かに殺されたのだ、と。――マルキードが言うには、ジゼルを殺した犯人は殺害現場に忘れ物をしたらしい。そして、その遺留品には、『A・L』と彫られていた。そこでマルキードは、イニシャルがA・Lである者を村中から集めることにしたんだ。生きていれば十八歳になるはずだった娘の誕生日に、 彼女のためのバースデー・パーティーと称してな」
そこでルクレールはいったん言葉を切った。
どうしたのだろうと僕が彼の方を見やると、彼は苦笑して上着のポケットから一枚の封筒を取り出した。
「愉快なことに、俺にもその招待状がきた。 マルキードが犯人探しのために人を集めるというのは、村では知らない者なんていないってくらいに有名な話になっている。そんな状況で、招待状を受け取っておきながら、パーティーに欠席したら、自分が犯人だと言っているようなものだ。だから、俺は何が何でもこのパーティーに出席しなければならない」
自分に殺害容疑が掛かっているというのに、彼はなんてことないように、へらへら笑って肩を竦めてみせた。
対して、なぜか大あわてをしたのは僕だ。
「大変じゃないか!」
ガタンと音を立てて椅子から立ち上がる。
「こんな所でのんびりしている場合じゃないよ! ちゃんと容疑を晴らさないと!」
突然の僕の大声に、ルクレールは一瞬、驚いた表情をしたが、すぐに悪ガキめいた笑顔に戻って口を開いた。
「そうさ、俺は一刻も早く容疑を晴らさなければならない。いや、晴らしたいのさ。そこで、リシャール、お前の出番だ。俺のために一緒に来てくれないか?」
「嫌だね。面倒だ。何で僕が君のために?」
事もあろうに、フォークスは即答した。
だが、そんな返答など予想内のことだったようで、ルクレールは怯まない。
「リシャール、俺はお前の親友だろう? それに、よく考えるんだ。死体が動くんだぞ? マルキードの言うとおりジゼルを殺した犯人がいるのだとしたら、その犯人は、半年前、どんなに調べても誰にも分からなかったんだ。それをお前がいとも容易く解決できたら、面白いと思わないか?」
「思わないね。馬鹿らしい」
フォークスの言葉に僕はぎょっとしてルクレールを見たが、彼は不機嫌になるどころか、相変わらず笑顔でフォークスの言葉を聞いていた。
「くだらない。こんなくだらないことは、これっきりにしてもらいたいね」
フォークスは、すくっと立ち上がった。そして、くるっとルクレールに振り向き、言い放つ。
「午後には出るだろ? すぐ支度をしよう。 君はそこのまずい紅茶でも飲んで待っていてくれ」
言い終わるか否かで、フォークスはものすごい勢いで自室に入っていった。
何やらガタゴトと物をひっくり返している音がする。
――な、なんだぁ?
呆気に取られてしまっている僕にルクレールは吹き出した。
「あいつ、素直じゃないだろ。 本当は、事件と聞いただけでウズウズするくせにさ」
そう言うと、例の紅茶が入ったカップに手を伸ばした。あわてて、僕は彼より素早くカップを取り上げた。
「入れ直すよ。これ、フォークスの飲みかけなんだ」
「だと思った。けど、別にいいさ」
彼は僕の手からカップを取ると飲んでしまう。
――彼が飲むことになると知っていれば、 ちゃんとおいしく入れたのに。
僕は後悔した。
しばらくして、大きなトランクを引きずってフォークスが現れた。そして、大げさに呆れた声を上げる。
「アル、君はよくそんなまずいものが飲めるな」
「お前が飲めって言ったんだろう。それに、言うほどひどい味じゃない」
「君は頭だけじゃなくて、味覚もおかしいのかい?」
さらりとひどいことを言ってのけたフォークスは、今度は僕の方に向き直り、 わざとらしく驚いた顔をする。
「なんだい、君はまだ支度をしていなかったのかい?」
本気で驚いたのは僕の方だ。
「君は僕の風邪がうつって寝込まなければならなくなったんだ。何をゆっくりくつろいでいるんだい?」
彼の口調から推測して、僕も一緒に行ってもいいのかい? と尋ねてみると、あたりまえじゃないかと笑われる。
「行かないのかい? 僕はてっきり君がアルの話を夢中で聞いているものだから、一緒に行くものだと思っていたよ」
「行くよ! 行きたい!」
思わずそう叫んでから、自分の野次馬根性にほとほと呆れた。自ら面倒なことに首を突っ込んでしまったのだ。
トラブル好きなフォークスの側にいると、関わらないようにしようと思っていても、いつの間にか、嵐の真っ只中にいたりする。
彼と同部屋になってしまったがために、何度大変な目にあったことか。
ただ一方的に面倒に巻き込まれたというのなら、苦情も言うだろうし、もっと彼を拒絶しただろう。だが、僕にはそれができないわけがあった。
一つには、後々後悔するようなことになるとしても、彼が難事件をいとも容易く解決する姿を見たいという欲求で、それは自分の知らない場所で彼が事件に巻き込まれることを許さないのだ。そしてもう一つは――。
「今回の事件はどうやら僕好みというよりも君好みの事件だから、君の小説ネタになると思うよ?」
フォークスがにやけて言うと、ルクレールは意外そうな声を上げる。
「へえ、ジャンは小説を書くのか?」
「推理小説さ。主人公は探偵で、医学の心得がある助手と難事件を次々と解決していく一連の小説なんだ」
そこまで聞くとルクレールも、ほぉーっと、にやけて僕に目をやる。
面と向かって話したことがなかったのに、とっくに本人が気付いていたのだと分かると、僕の顔の熱は上がった。
つまり、僕の書く小説の主人公はフォークスがモデルなのだ。僕は彼のせいで事件に巻き込まれる度に、その事件をネタにして小説を書いていた。
もちろん、事件の関係者のプライバシーを守る為に少しフィクションを加え、地名なども名前を変えている。
フォークスにかぎっては、年齢も三十歳半ばくらいで、本人よりいくぶんも大人っぽい。いかなる時でも冷静で、理屈屋だが、多くの人々を魅了するものをどこかに持つ、そんな人物になっている。
そして、何よりも顔を赤らめなければならない理由は、医学の心得がある助手とかいう存在だ。実は、僕は自分をその助手に重ねて書いている。
フォークスと対等でありたい。彼にとって意味のある存在になりたい。彼の仕事に少しでも役に立つ力が欲しい。それら僕の願いすべてを叶えた存在がそれだ。
おそらく、フォークスは僕の気持ちに気付いているに違いない。そう思うと顔の熱は収まりそうになかった。
フォークスは、どかりとトランクに腰を降ろし、意地の悪い顔で僕を見上げる。
「何をのたくさしているんだい? さっさと支度をしたまえ。汽車の時間に間に合わなくなる」
そう言うと、少し考えて、
「ところで、アル、何時の汽車だい?」
と、ルクレールの方に振り向いた。
すると、ルクレールは、フォークスの問いに即答せず、上着のポケットに手を入れると、 なぜかハッとしたような顔になり、視線を漂わせる。
少し離れたところの壁に、時計が掛かっているのを見つけると、ルクレールはそれをちらりと見て、まだ時間があるからゆっくりできると答えた。
その彼らしからぬ行動にフォークスも僕も、うっすらとした疑問を感じた。
だけど、僕の方は、それほど気に止めることなく、 荷造りの忙しなさの中で、忘れ去っていった。