#03 “壊したくない”という感情
リリィは夜も眠れなかった。
温室で交わされた言葉、あの瞳の赤い光、そして――
「わたくしのものになってくださる? それとも、切り落としましょうか♡」
その一言が、何度も脳裏で反芻される。
アリシアは本気だった。
あの柔らかい笑顔の裏に、確かな狂気が宿っていた。
けれど、リリィの心は恐怖だけで染まらなかった。
むしろ、それ以上に――惹かれていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
教室に入ると、アリシアはいつもと変わらぬ微笑みでリリィに声をかけてきた。
「ごきげんよう、リリィさん。昨晩はよく眠れましたか?」
リリィは答えに詰まりながらも、頷くしかなかった。
「そ、そんなに……眠れなかったかも」
「まぁ……それはいけませんわ。眠りは美しさと健康の源ですのに」
アリシアは、リリィの頬にそっと手を添えた。
「わたくしのものになると決めてくだされば、もっと安心して眠れますのに♡」
冗談とも、本気とも取れるその言葉に、リリィは頬を赤く染めた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、実技演習が行われた。
魔術障壁の展開速度を競う実践形式の演習。
リリィは他の生徒よりも劣っていた。
魔力は凡庸、構築速度も平凡。
そして、それを見逃さない生徒が、ひとり。
上級生の少女――ミレーヌ=ロッシュフォード。
「何よそれ? 障壁っていうより、透けてんじゃないの」
「ほんと、よくこんなんでこの学園にいられるわね」
ミレーヌの声に、周囲の生徒が笑う。
教師は見て見ぬふりだ。
リリィは俯き、声を発せなかった。
けれど――その隣で、別の誰かが笑っていた。
「ふふっ、そうですわね。確かに、障壁は透けておりますわ」
ミレーヌが振り向く。
そこには、アリシア=フィオレット=グランヴェール。
優雅な笑みを浮かべたまま、リリィの肩に手を置いていた。
「でも、あなたの心も透けて見えましたわ。ずいぶんと醜いですこと」
「……何ですって?」
ミレーヌの表情が歪む。
だがアリシアは微笑んだまま、軽く一礼した。
「授業の妨げになりますわ。ご自愛くださいませ」
その声音は優しいのに、教室の温度が数度下がったように感じられた。
ミレーヌは何かを言いかけたが、教師が戻ってきたことで黙り込んだ。
それを見届けて、アリシアはリリィにだけ向き直った。
「……ご安心ください。ああいう方は、あとで“ちゃんと”いたしますので♡」
その微笑みが、怖くて、でも嬉しくて、リリィの胸は締め付けられた。
◇ ◇ ◇
その夜、ミレーヌは姿を消した。
彼女の寮の部屋には乱れた形跡はなく、ただ一通の手紙だけが残されていた。
そこには震える筆跡で、こう記されていたという。
『ごめんなさい わたしは間違っていた もう、誰も傷つけたりしない』
その内容は、生徒たちに囁かれることになる。
まるで、誰かに“書かされた”かのようだったと。
◇ ◇ ◇
リリィはその夜、眠れなかった。
――嬉しかった。
――でも、怖かった。
――けれど、それでもアリシアと一緒にいたいと思ってしまう。
心が壊れそうになるたび、彼女の声が脳裏に蘇る。
「わたくしのものになってくださる?」
リリィは、胸元をそっと抱えた。
心臓が、アリシアに触れられた場所が、まだ熱を持っていた。
そして、その熱が、恐怖ではなく“幸福”のように思えてしまう自分を、
もう止めることができなかった。