#12 「その傷に、口づけを」
朝の陽差しが差し込む廊下で、リリィはふと足を滑らせた。
「きゃっ──!」
短い悲鳴と共に尻もちをつき、膝を擦りむく。
痛みよりも周囲の視線のほうが恥ずかしく、赤面しながら立ち上がると──
「まぁ……リリィさん?」
アリシア様の声が、鈴の音のように響く。
「そんな、膝を……。大丈夫ですの?」
ふわりと香る紅茶と薔薇の香り。アリシアはリリィの元へ優雅に歩み寄り、スカートの裾を汚すのも厭わずその場に膝をついた。
「すぐに手当をいたしましょう。わたくしの部屋で」
アリシアに手を引かれるまま、リリィはその美しさと柔らかな手の温もりに、何も言えず頷いた。
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アリシアの部屋。窓辺に置かれた白木の椅子にリリィを座らせると、アリシアは絹のような手つきで救急箱を取り出す。
「アルコールは少し沁みますけれど……我慢して、くださいましね?」
「う、うん……」
消毒液が触れた瞬間、リリィはビクリと身を震わせる。
しかしアリシアは──その震えさえ、まるで愛玩するかのように微笑んだ。
「この傷……リリィさんの体が、ほんの少し“壊れて”しまった……」
そう囁く声には、妙な艶があった。
包帯を巻く手つきは、異様なほどゆっくりで丁寧。
まるで傷そのものに陶酔しているかのように、何度も指先で触れ、柔らかく撫で──
「ねぇ、リリィさん……傷ついたあなたも、なんて美しいのでしょう……」
リリィは思わず身を引きそうになるが、アリシアの手がそれを許さなかった。
「もっと……壊したら、どれほど愛しいのでしょうね」
その瞳は──一瞬、赤く妖しく煌めいた。
リリィは何も言えず、ただ視線を逸らした。
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夜。
リリィがベッドで眠っていると、カーテンがふわりと揺れた。
月明かりに照らされたドアの隙間から、誰かが忍び込む気配。
「……リリィさん」
寝息を確認したアリシアは、ゆっくりとベッドに近づく。
その手には、いつものダガー《ルージュの杯》はない。
「ほんとうに……愛しい……」
その指がリリィの頬を撫で、熱を帯びた視線が降り注ぐ。
「あなたはまだ、知らないのですわね……この痛みが、どれほど快楽と隣り合わせなのかを」
アリシアはそっと、リリィの額に唇を寄せ──囁く。
「わたくしのものに……なってくださる?」
そして、音もなく口づけた。
その頬に、涙か汗か、ひとしずくが伝うのを拭いながら──
「リリィさん。あなたが傷つくたびに、わたくしの心はどんどん赤く染まってしまいますのよ……」
月明かりの下、微笑むアリシアの瞳は、狂気と愛情のあわいで怪しく燃えていた。