9.助っ人
「拓人!」
ジムの入口を入ると、今か今かと到着を待っていたらしい千尋が駆け寄ってきた。千尋が近づくと、朗は大げさにパッと手を上げて離れて見せる。
「遅いから、迎えに行こうかと思ってた」
「大丈夫だって。心配し過ぎ──」
と、立ち去りかけた朗が振り返って。
「さっき、危なかったよ。待ち伏せしてたの、そっち系の奴らだったし。俺がいなきゃ、拉致されてたかも。──気をつけた方がいいよ。拓人さん」
そう言って朗は去っていく。冗談めかしているようで、目は笑っていなかった。
千尋の警戒は増す。
「当分、ここにも来なくていい」
練習後、シャワーを浴び終えた千尋は、更衣室兼ロッカールームで、濡れた髪をタオルでふきながらそう口にする。
ジムからは、千尋と一緒に帰ることになるからいいが、ここに来るまでの道中が気になるらしい。駅からここへは人通りも少なくなる。それを気にしてのことだった。
「──仕方ないね…」
俺はため息交じりに返す。
ここに寄れないのはかなり残念だけれど、蒼衣の後ろにヤクザが絡んでくるとなると、そうも言っていられなかった。
千尋のスパーリングやトレーニングを見守るのは楽しみのひとつだったのだけれど──。
内心は嫌で仕方なかった。
千尋の濡れた金色の髪の先から雫が落ちる。
「蒼衣の奴、本当にしつこいんだ…。手に入れたいと思えばなりふり構わない。──けど何をしようと、あいつとよりを戻すことなんてない。それが分からないんだ。甘やかされて育ったせいで、ずっとガキのまんまだ」
「そうなんだね…」
千尋の言葉には納得できた。確かにわがままに育っただろう事はうかがえる。
「とにかく、当分ジムには近よるな」
「うん…」
「大学の行き帰りは俺がついていく」
「そっちも?」
思わず聞き返してしまった。千尋は頷くと。
「ここを張ってたって事は、そっちも危険だ。大学の行きは送って行かれる。帰りも大学に迎えに行く。工房長に頼めば中抜けもなんとかなる…。そのあと、仕事に戻ればいい」
「大丈夫だよ。なにもそこまでは──」
すると、千尋は俺の二の腕をつかんで引き寄せた。
「──甘く見るな。拓人はわかってない。ああいう奴らは手段を選ばない。とくに蒼衣の所の奴らは柄が悪い。──何かあってからじゃ遅いんだ」
流石に千尋の真剣な眼差しに、茶化すことなどできなかったが。
「──けど、大学の帰りは厳しいよ。千尋の仕事は早々中断できるようなものじゃないし。だいたい、場所も大学と方向が真逆だし…。無理はさせられないって。とにかく、人通りの多い道や時間帯に気をつけて──」
大学の友人らに事情を話して頼む手もあるが、万が一があって巻き込まれてはまずい。気軽に頼むことはできなかった。
「それだけじゃ、危ない。──ジムも当分休む」
「けど──!」
それでは試合に間に合わない。せっかく楽しみにしているというのに。声をあらげれば──。
✢
「俺なら行けるけど」
ふいにロッカーの向こう側から声がした。
ロッカー室はそれなりに広い。反対側にも続いている。そちらから声があがったのだ。
この声は──。
「いつから聞いてた。…朗」
千尋がすごむ。ほんとうに、いつからいたのか、まったく気配を感じなかった。
朗はひょこっと角から顔を出すと、手にした端末をひらひらゆらし。
「彼女が来るまでここで休んでたんだって。そっちが気付かなかっただけだろ? ──で、俺なら行きも帰りもオッケーだけど。なんせ、ご近所さんだし。あの辺、朝晩のジョギングコースだし。途中寄るくらいわけないよ。俺ほど頼れる奴はいないだろ? 千尋」
ニヤリと笑って見せる。千尋の表情はますます険しくなったが。
確かに、朗の住むアパートは通う大学と同じ方向だ。しかも俺たちが住む地域と同じ場所にある。
なぜ知っているのかと言えば、いつか帰るタイミングが重なったとき、途中まで半ば帰り道が一緒になったからだ。嫌った千尋が道を変えなければ、殆ど同じコースを辿ることになっただろう。
それに、朗は強い。強いことがイコール守れることにはつながらないが、普通の人間よりは頼りになるはずだった。けれど──。
「──お前、わかってんのか? マジでやばい連中だ。関わるべきじゃない」
千尋の言うことは当然だった。いくら強いからと言って、プロとなった朗を危険には巻き込めない。それに以前、朗と二人切りになるなと言っていたはず。簡単に応とは言わないだろう。
「なに、俺がそれで引くと思ってんの? 蒼衣がやばいのなんて承知ずみだって。それで俺に何かあったら──なんて気遣ってんなら、鳥肌もんだ。だいたい、他に頼るって言っても、事情を分かってて、腕も立つ奴なんて早々いないだろ? ──俺はすべて分かって言ってんの」
朗は飄々としている。千尋はしばらくそんな朗と睨みあっていたが、諦めた様にひとつ息をついたあと。
「…わかった。──拓人」
「うん?」
「俺が一緒に行けない時はこいつと一緒に行ってくれ。帰りはかならずだ」
「え? って、でも──」
「拓人、頼む」
真摯な眼差しで見つめられれば、なにも言えない。
「──分かった」
それを聞いて千尋は頷くと、今度は朗を振り返り。
「朗、許すのは送り迎えだけだ。──妙な気、起こすなよ」
念を押すのを忘れない。
「拓人さんが嫌がることはしないって」
言い換えれば、イヤと言わない程度に、何らかの行動を起こすということで。千尋はムッとした顔で朗を睨みつけたが。
「──それと、何かあっても、ぜったいやりあおうとするな。逃げろ」
「わかってるって。俺だってそれなりに場数踏んでるからな? 知ってるだろ?」
「……」
千尋は答えずただ朗を見返すだけだ。場数、とはそれなりに危ない橋も渡ってきた、と言う事か。朗はにっと笑むと。
「じゃ、そう言うことで。──拓人さん、連絡先、交換しよ。いままでこいつの所為でちっとも交換できたったからさ」
いそいそと端末を取り出す。気楽なその様子はまったくことの重大さを分かっていないようにも見えたが。
千尋の見つめる中、朗と連絡先を交換すると、
「じゃあ、また明日!」
そう言うと、遅れて迎えに来た彼女と帰って行った。
早速、明日から朗が迎えに来ることになる。千尋は忙しいため早朝出ていくからだ。
✢
「なんだか、へんなことになったね…」
すっかり帰る身支度を整えたあと、千尋を振り返る。着替えた濃紺のTシャツは、千尋のお気に入りで良く似合っていた。金色の髪が良く映える。
「あいつも、わかってんのか、わかってないのか…」
その髪をかきあげボヤいた。
「でもさ。千尋もやっぱり、朗のこと心配してるんだね? なんだかんだ言って──」
「拓人。それ以上、言うな。鳥肌立つ」
言う通り、Tシャツから出ている腕に鳥肌が立っていて思わず笑ってしまった。
「わかった。言わないよ…」
「拓人。俺の所為で面倒に巻き込んでごめん。近い内になんとかする…」
「大丈夫なの?」
「あいつに邪魔はさせない」
「うん…」
いったい、どうする気なのか。
あの蒼衣の話しぶりからすると、ちっとやそっとでひきそうにはなかったが。
それにもう一つ。
俺が気がかりなのは、千尋だった。
もし、子どもが欲しいと思っていたなら。
蒼衣の言葉が本当なら、千尋が欲しいものを、俺は与えることができない。千尋に諦めさせている可能性があるのだ。
だとしたら、俺は──。
けれど、千尋がどう考えているのか、それを聞くのが正直怖かった。
千尋の人生の邪魔はしたくない。
それが俺の今の考えで、ずっと変わらない思いだった。