8.気配
朗がなにを言いたかったのか、千尋は聞こえないふりをして、きちんと理解していたようで。
練習が終わり、その帰り道。
「拓人」
「なに?」
千尋はつないでいた俺の手を引き寄せると。
「…蒼衣には近付くなよ」
「やっぱり…朗が言ったの、本当なの?」
いい噂を聞かない。それはどう言うことなのか。千尋は眉間にしわを寄せつつ。
「…あいつの親、ヤクザなんだ」
「ヤクザ…?」
その言葉を聞いて、驚きはしたものの納得した。自分に声をかけてきた時の蒼衣は、『普通の女の子』ではなかったからだ。
「あいつの親父、付き合ってた頃は下部組織だけど、それなりの規模の組の構成員だった」
「構成員…」
「真砂さんに最近、どうなってるか調べてもらった」
「真砂さんに?」
千尋は頷く。
真砂とは、保護司をしている人物で、千尋の後見人をしていたこともある。元ヤクザのため、そちらにもツテがあるのだろう。
俺たちの事も知っているし、何より千尋のよき理解者で。いっとき、千尋が好意──と言っても、尊敬に近いものだったらしいが──を向けていた人物でもある。
「…そうしたら、父親が組長になったって。もともと、蒼衣が付き合う相手もそっちの関係者ばっかりだったからな。──昔、付き合ってた時、そう言う奴らと関係断ち切ってやりたくて、すぐにじゃないにしろ、結婚したいって言った」
「そう、なんだ…」
『結婚』までのいきさつが知れた。
けれど、返事をしながら、喉が張り付くほどからからになっていたのに気が付く。思った以上に緊張していたらしい。
夏の湿った風が、二人の間を通り過ぎて行った。
「十六才のガキが思いつく事なんて、その程度だ」
千尋は苦い顔をするが。
真剣、だったんだな…。
その言葉を聞いて、蒼衣から聞いた時よりもショックを受ける自分がいた。過去の事とは言え、本人の口から聞くと現実味が増す。
「彼女とは、同い年?」
「そうだ…。昔はもう少し可愛げがあった。…けど、今じゃ面影もない。結局、あいつは自分がかわいいだけだった。十六才でスカウトされて、モデルになったばっかで…。噂になるのが嫌で、親のことも隠して、俺との縁も切った」
「切ったって…どうして?」
「俺は前歴があったからな。バレれば仕事に影響する。──それで、俺の告白のあとくらいから音信不通になった。仕事があるからって、高校変えて引っ越しして、電話番号も変えて…」
「そんな…」
「それで、俺は終わりだってようやく気がついた。ガキで周りが見えてなかったんだ」
千尋はひたとこちらを見つめると。
「──でも、おかげで拓人と出会えた」
千尋は手をのばし、頬に触れてくる。温かい手だった。
「拓人のことは、律を通じて知ってはいたけど…。拓人とこうなれて、俺はよかったって、心から思ってる。今思えば、あいつへの思いは同情と使命感だけだった。拓人を好きになって気がついた」
「千尋…」
「蒼衣とは終わってる。信じて欲しい」
「わかってる…。俺には今が大事だよ。千尋とのこれからの方が──」
そう言って笑むと、千尋が抱きしめてきた。しっかりと筋肉のついた肩に頬を預けながら。
「彼女には近付かないように気をつける…」
前のように、向こうから近づいてくるのは防ぎようがないけれど。
「拓人は俺が守る」
「ありがとう…」
強く抱きしめてくる腕は、心底ホッとさせる。
ザアッと風が吹き、街灯が微かに点滅した。その風を避けるように、千尋の腕の中に身を埋める。
ここが、俺の安心できる場所だった。
✢
その日、いつもより少しだけ遅れてジムに向かった。
講義の最後に質問した生徒がいて、長引いたせいだ。講義が終わるとダッシュでバスに飛び乗った。バスを降りた後も、駆け足で向かい。
お陰であと少しで到着できた。遅れは連絡するほどでもない。
と、その途中、視界の先に人影が見えた。
人通りの少ない道。電信柱とマンションのゴミ置き場の間辺りに、男二人がタバコをふかしながら、何をするでもなく立っている。
なんだろう。
誰か人待ちをしているようにも見えた。
近づくにつれ、それがただの一般人ではないことに気がつく。
黒のスウェット上下に派手なアクセサリーが目立つ。色の抜けた髪を横だけ短く刈り上げたヘアスタイルは、会社勤めをするもののそれではなかった。
柄が悪い。
着ている服や容姿からそれがうかがえる。ふと、蒼衣の影がチラついた。
今更、避けるのは意識しているようでわざとらしい。なんでもなければ、失礼な態度だ。とにかく、気にせず通り過ぎるのが一番に思える。
気のせいだ。
そう思いこんで進むが、だんだんと近づくにつれ緊張してきた。道の端に立つ男達の視線が、こちら向けられた気がする。
気のせい──。
足早にその前を通り過ぎようとしたその矢先。男のうちのひとりが行く手を遮るように歩み出た。
はっとしたが、立ち止まるより、通り抜けた方が早い。なるべく見ない様にして、避けるように足早に通り過ぎようとすれば。
「拓人さん!」
背後からかけられた声にビクリと肩を震わせた。振り返ると、朗が大きく手を振っている。
「朗…」
思わずホッと肩の力を抜いた。そのまま歩み寄ってきた朗は、ニコニコと人懐こい笑顔で隣に立つ。
「驚き過ぎだって」
「今、帰り?」
「そ。うるさい奴いなくてラッキー。一緒に行こう」
朗はガッシリと腕を組んで歩き出す。そうして、朗に伴われジムへと向かった。
チラと背後を振りかえると、男らはそのまま脇へ退き、何か話している様子だった。
やっぱり、気のせいだったのかな?
朗と歩きながら、胸に湧いた不安を打ち消した。