7.正体
大学の授業は面白いものもあれば、やや退屈に感じるものもある。
きちんと対話方式で進められるものもあれば、一方的に教授が話し、それを書き取るだけのものもあるからだ。
今日の授業はかなり熱心な教授が担当していて、互いに議論をかわし、課題もかなり難易度の高いものが出された。授業をしっかり聞いた上で、自分なりに考察しなければ及第点は出ないだろう。
ラウンジで友人らとわいわいやりながら、課題の進め方を話し合っていれば、隣の席にいた女性陣が奇声を上げた。ふと目をやれば、端末を覗き込んでいる。
「うそ! これ、あそこじゃない? 商店街の所の──」
「えー? こんな所にどうしていんの?」
「お忍びデート? ってか、マジやばくない?」
「相手だれ?」
「うーん、新人キックボクサーだって…」
聞かれた女子が、端末をのぞき込んで唸る。
「へー! かっこいい。──てか、スポーツマン好きってありがち」
「でも、お金あんのかな? 新人ってお金なさそうなのに…」
「アオイってお金かかりそうだもんねぇ」
どっと笑いが起こった。
アオイ?
その名前にひっかかる。それにキックボクサーとは。つい、そちらに意識を向ければ、気づいた傍らの達生が。
「ああ、あれ。今朝の芸能ニュースでやってたやつだ」
「なにそれ?」
「なんかモデルのアオイが、キックボクサーと熱愛って奴。格闘家ってモテんだな? 俺もやろっかなぁ…」
無理無理と横から声が上がって、笑いが起こる。
「…アオイってモデル。有名なの?」
「どうだろ? 最近ちらっとドラマで見るかな? 売り出し中って奴? もともとは雑誌モデルでって奴だ。ありがちだな? ヤンキーっぽいけどかわいいぞ」
あまり時間もなくドラマは見ていない。テレビもつけたりつけなかったり、それで見かける機会もなかったのだろう。
と、横から他の友人が、
「そうそう。顔だけならいいな。性格は悪そうだけど…」
「ま、俺らに言われたくねーよな?」
互いに顔を見合わせ、ゲラゲラと笑い合う。しかし、ふと達生は真顔になって。
「けど、拓人はいい線行くから。俺らとは別な」
「…いい線?」
「んだよー。気付いてねーのかよー。結構、女子騒いでんぞ? 王子が来た! って。講義が一緒の奴ら。女子ってそう言うの作るのうまいよなぁ」
王子…。なんだ。それは。
初めての称号だった。高校時代、途中から引きこもった俺には与えられたことのない名前。
「拓人ってさ、もっとこう、容姿に金賭ければぜったいモテるって。手伝うか? 兄貴アパレル関係で働いてるからさ」
達生が尋ねてくるが、俺は顔の前でぶんぶんと手を振ると。
「いいって! ていうか、そんなことしてる時間ないし。課題、結構大変だって」
その言葉に皆の表情が一気に暗いものになる。
「…なんだよ。せっかく忘れようとしたのに…」
「忘れられないって。ほら、図書館、寄ってくんだろ?」
「あー、もー、現実きびしー」
そうして、席を立ってぞろぞろと図書館へと皆で向かった。
アオイ。モデル。キックボクサー。
後でネットで検索して見つけた画像は、見覚えのあるジムの前で話す蒼衣と千尋の姿だった。勿論、千尋の顔は隠されている。
ちなみにこの外れに俺が立っていた。ちょうど千尋の陰になって、カメラには映らなかったのだろう。まさか、千尋のことだったとは。
蒼衣も有名な子だったんだ。
別の画像でみた蒼衣は確かにモデル然とした美人だ。
新人キックボクサー、ってのはちょっと違うけど。
どうせ芸能ニュースなのだ。たいして裏付けも取ってはいないのだろう。人の気を引ければそれでいいのだ。
その千尋が実は男の俺と付き合っているとは思わないだろう。
千尋は──知らないんだろうな。
千尋は俺に輪をかけてテレビも、ネットもあまり見ない。必要最低限だ。以前はゲームにはまったこともあったらしいがそれも飽きてしまったらしく。
端末はもっぱら拓人とのやり取りのみに使われているのが現状だ。
ジムに来ている練習生連中は、すぐに気づいて騒いでいるはずだった。
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案の定、練習日にジムに向かえば、顔なじみの練習生が千尋をちらちらと気にしている様子。けれど、皆、千尋が怖くて声をかけられない。
しかし、それをものともしない人物が一人いた。
「なんだ。結局、蒼衣とまだ続いてんの? この前来てたの、変装してたけど蒼衣だろ? あのあと、皆騒いでたんだぜ? 出禁にしたクセになんだかんだ言って、やることやってんじゃん」
スパーリングを終え、ベンチで休憩中の朗は、ニヤニヤ笑いながら千尋に声をかけてきた。一気に周囲の空気が凍りつく。
「…どこみてんだ。とっくに終わってる。この前、突然現れて、外で話したのが撮られただけだ」
千尋はムッとした顔で答える。
その後、それとなく千尋にその件について尋ねると。
「あいつは…。既成事実を作りたいだけだ」
吐き捨てる様にそう口にした。
どうやら蒼衣は外堀から埋めようとしているらしい。周りが騒いで、そちらの方向へ持って行く。
言われて見れば、あの日、いつになく派手に着飾っていた気がする。撮られること前提だったのだ。
千尋はネットニュースになっていることなど知らず、職場で聞かれて初めて知ったのだと言う。
先輩の職人谷から、モデルのアオイと付き合っているのか? と。
ネットに載っていた画像も、知るものが見れば千尋と分かるらしい。谷は千尋がキックボクシングをしているのも知っていたため、直ぐにピンと来たと言う。
拓人くんがいるのに、いいの? いいの? と。千尋いわく、にやけた面で。
それで、千尋の機嫌が悪い。朗が更にそれを煽った。
「な? 拓人さん、そんな奴と別れろって。俺なら大事にするよ? 今付き合ってる子たちと全部別れてもいい。そいつより将来有望だからさ」
「いい加減にしねーと、ぶっとばすぞ…」
千尋が凄むが、朗も負けていない。
「逆にぶっとばすっての」
二人の間の空気が張りつめた。
二人が暴れ出したら、俺には止められない。助けを求めオーナーを探したが、所用で席を外しているのか姿が見えなかった。
周囲の練習生もみな心配そうな顔をしてこちらを見ている。喧嘩などもってのほかだ。
俺は慌てて割って入ると。
「千尋、トレーニング行こう。朗はもうおしまいだろ? さっさとシャワー浴びる。な?」
千尋の腕を無理やり引っ張り歩かせようとするが、朗を睨みつけたまま、なかなか動こうとしない。朗も朗でやめるつもりはないらしく。
「一度、俺とつきあってよ。拓人さん。そしたら気が変わるって──」
言い終わらないうちに、千尋が飛び掛かる様にして、朗の胸倉をつかんだ。慌てて千尋に背後からとびつく。
「千尋!」
「いい加減にしろ…」
「──あんたさ。普段は冷静な癖に、拓人さんのことになると、ほんとおもしろいくらいマジになるよな? 気をつけたほうがいいって。それ。かなり弱点だから」
「……」
千尋はそうしてしばらく胸倉をつかみ上げていたが、唐突に手を放すと。
「──行こう」
そう言って、俺の腕を掴みトレーニングマシーンに向かった。その背中に向けて。
「千尋、蒼衣に利用されんなよ?」
「……」
「これ、俺からの忠告。拓人さん、巻き込みたくないからね。──あいつ、いい噂きかねーから!」
千尋は無言でその場を後にした。