5.忠告
「ちゃーんとお前らが続いて、兄ちゃんはほんっと嬉しいよ」
一旦客足が落ち着いた所で、兄律はしみじみとそう口にした。律の経営する居酒屋でバイト中のことだ。俺は洗物を片しながら、
「なんだよ、急に…」
「だって…。あのお前がさ、いつの間にかちゃっかり恋人つくって、一緒に住みだして…。俺の隣でオムツしてハイハイしてたのに、だぞ?」
「…何年前の話だよ。それ。律だって似たようなもんだろ? 歳、そんな変わらないんだから」
「そんな印象ってことだって。急に大人になって、兄ちゃんは嬉しいやら寂しいやら…」
「はいはい。ほら、焼き鳥、焦げるよ?」
「おっと」
そう言って串を器用に回していく。じゅっと鶏肉から溢れた油が炭を焦がした。煙と同時にいいにおいが漂う。
ワイワイガヤガヤとした店内だから、こんな兄弟の会話も他人の耳に入ることはない。
入ったとしても、調理場に近いカウンターを占めるのは常連のみ。それを聞いて驚くような手合いではなかった。
だいたい、既に周知のことで。
「そうかぁ。拓人くんは立派に独り立ちしたのかぁ」
常連の客がしたたかに酔いながらそう口にした。兄は焼き鳥を皿に乗せつつ。
「ま、親元を離れたってだけで。まだまだですけどね? 大学生だしな。立派なんてとてもとても」
「…さっきと違わない?」
拓人の突っ込みに、律はそ知らぬ顔をする。
大学に関わる資金は母親からのものだ。子供らの進学の為にと母奏子がコツコツ貯めていたもので。
兄が大学に進学しなかった為、その分も含め使える事になったのだ。せっかく貯めたのだから進学しろと母に背中を押され、自身も進学を希望した為、ありがたく使わせてもらった。
この四年でなんとか知識を得て、さらに進む方向を見極めたいと思っている。
確かにまだまだ独り立ちとは言えないけれど、生活に関しては千尋と二人でなんとか乗り切っていた。そこは自立できたと思っている。
「そう言えば、貼ってあるポスター、キックボクシング?」
常連客が背後を見るような素振りを見せながら尋ねて来た。店内にも千尋の所属するジムの試合を告知するポスターを貼らせてもらっていたのだ。律は頷くと。
「拓人もでますよ?」
「ええ? やってるの?」
常連は驚くが、俺は苦笑して手を振って見せると。
「違います。出ているのはセコンドで、ちょっとだけその手伝いをするってだけで…」
「ここだけの話、こいつの恋人がでるんですよ」
律はにやにやと笑みを浮かべて口にする。まるで、娘の結婚を自慢する親の顔だ。
「へぇ。すごいじゃない。かっこいいの? やっぱり」
「ええっとまあ…」
すると横から、
「俺の友人でもあるんで。かっこいいし、強いですよ? 興味あればぜひ。橘千尋って言うんです」
鼻息荒く自慢してみせる。
「へぇ、土曜日の夕方ね。行ってみようかなぁ…」
常連らは店内に貼られたポスターに目をむけた。
確かリングに近い席は有料だが、そのほかは無料だった。それに、有料と言っても、千円程度だった気がする。
とにかく、興味を持ってほしいからと企画されたのだ。ポスターに書かれた出場者には、千尋の他に朗の名もある。
練習試合とは言え、やはり緊張もする。プロに成り立ての者や、それを目指すものも多く、かなり本格的になるだとオーナーも言っていた。
ほんとう、怪我だけはして欲しくないな。
千尋が殴られたり蹴られたりするのを見るのは、やはり気分のいいものではない。
傍らで自慢する律を横目にそう思った。
✢
その日、大学での授業を終え、ジムへと向かった。今日は千尋の練習日だ。
いつもより早い時間だったため、まだ千尋は来ていないはず。少し仕事が長引いて遅れるかも、と連絡もあったばかり。
どうしようかな? あんまりうろうろしても邪魔になるし──。
オーナーに言って、隅っこで待たせてもらおうか、そう思いながら、ジムの入口を入ろうとした所で呼び止められた。
「──ねぇ、あんた。ちょっと、話しがあるんだけど…」
建物の影から蒼衣が現れる。
黒いキャップを破り、色の濃いサングラスをかけ、黒いトップとパンツと言うスタイルだ。ヒールの高いパンプスを履いているため、身長は幾分、拓人より高くなっている。
以前とは異なり、まるで目立つのを避けるかのような出で立ち。──逆に目立つのでは、とも思えるが。
聞いてはいないが、年齢は拓人と同じくらいなのだろう。
しかし、幾ら話があるにしても、『あんた』とは。態度は高慢でこちらを見下している風がある。
無視したほうがいいのは充分わかるが、ここで無視してもずっと付きまとうだろう。
俺は用心しつつも腹を括って。
「──どんな話し?」
「いいから。こっち」
言うと、人気のない脇の路地へと向かう。俺は仕方なく後をついて行った。
✢
裏口近く、雑多な道具が置かれている所まで来て、蒼衣は立ち止まる。
そこには灰皿スタンドが置かれていて、時折、ジムを見に訪れる関係者が煙草をふかしていた。辺りには水にぬれた煙草の吸い殻の、酸っぱいつんとした香りが漂っている。
蒼衣は振り返ると、サングラスを外し胸元へかけた。
「あんた…。千尋とまじで付き合ってんの?」
そう口にして、腕を組むと凄んで見せる。こうなるとただのヤンキーだ。おしとやかな容姿が台無しになる。
「…本当だよ。真剣につきあってる。──確かに『男』だけどね」
昨日の彼女の言い様をまねる。
今更そこを突かれても、気にしなくなった自分がいた。だって、こればかりは仕方ない。
性別を変えることはできないし、千尋を好きなのは事実だから変えられない。男のくせに、男なのに、とそこを突かれても、仕方ないと言うしかないのだ。
マジ信じられない、と蒼衣はつぶやいたあと。
「あいつ…。私の前にも男と付き合ってたことあったけど、年上だったし遊びだった。女も何人かいたけど、みんな遊び。…でも、千尋は私とは結婚するつもりだった。──告白されたんだから」
「告白?」
「そう。ずっと、ひとりだったから、結婚して自分の家族が欲しいって。それって、私との子どもが欲しいってことなの」
子ども──。
「だから、将来結婚して欲しいって…。ちょっとぐらっと来たけど、その時は若かったから先のことなんて考えられなかったし、モデルの仕事もあったし…。──でも、今ならいいかなって」
蒼衣は意地の悪い笑みを浮かべると。
「あんた、子供産める? 産めないよね?」
「それは─…」
どうやっても無理だ。蒼衣は勝ち誇った様に。
「あんたは千尋が本当に欲しいものをあげられないってこと。あんたと付き合っていればずっとね。──別れるべきだよ。千尋が好きなら」
「……」
「千尋はああ見えて優しいし。男のあんたに面と向かっては言えないんだろうけど。今もそう思ってるはずだよ。──言いたかったのはそれだけ。…じゃあね」
そうして、蒼衣は前回同様、甘ったるい香水の香りだけ残して、去っていった。俺はそこに立ち尽くす。
子どもが欲しい。
少なからず、その言葉にショックを受けた。
確かに家族が欲しい、イコール、子どもを持ちたい、だろう。
言われてみれば、幼い頃から千尋はひとりでいることが多かったはず。両親の離婚に放任主義の父親に。
でも、俺と付き合いだした。
子どもが欲しいと言う思いよりも、俺への思いが勝ったからだろう。けれど、いつかその思いが湧くのではないのだろうか。
産めない、もんな。
子どもを幾ら望んでも。
けれど、だからと言って、千尋と別れるなんてあり得ない。
でも千尋は?
これは自分の思いで。千尋が心の内で、何を思っているのかは分からない。
千尋の思いを無視して、自分を優先させるべきなのだろうか。俺は唇を噛んだ。