4.再び
次の練習日。
講義が遅れたせいで、ジムへの到着が遅れた。
千尋、怒ってるかな?
一応、連絡は入れてある。
授業の関係でたまに遅れることがあって、伝えておくのだけれど、それでも機嫌が悪くなる。
勿論、本気で怒っているわけじゃない。拗ねているのだ。
かわいいよな。ほんと。
ひとつ年上の千尋は、ともすると子どもの様になることがある。それは自分に対して、心を許しているからに他ならない。
一緒に暮らすようになって、千尋の様々な面が見えてきた。きっと、俺もそうなのだろう。
良いところもちょっとクセのあるところも。お互いを理解して、歩み寄って行くのが共同生活だと思っている。
もちろん、そこに愛情がないと続かないけれど。
一方的に自分の思いを押しつける事はできない。そんな事をすれば、いつか関係が壊れるだろう。
ジムの練習場へと続くガラス戸を押し開くと、ムッとした熱気とスパーリングの音、その他トレーニングの音や声が響いていた。
千尋は──。
この時間だと確かスパーリング中のはずだった。見回すとリング上にいる千尋を見つける。
Tシャツにボクサーパンツ姿の千尋が、トレーナ相手に鍛錬中だった。
「千──」
『尋』と言いかけて、言葉を飲み込む。
リングのすぐ傍に立って、千尋のスパーリングを食い入る様に見つめる、メガネ姿の女性を認めたからだ。
背中の中ほどまである、綺麗なミルクティー色にカラーリングされた髪をひとまとめにし、腰のくびれが分かる程、身体のラインを強調する黒のニット素材のトップスを身に着けている。
下はジーンズ素材の丈の短いタイトなスカート。そこからのぞく、長くすらりとした足が印象的だった。
蒼衣だ。
そのスタイルの良さに、顔を見なくとも分かった。と、彼女が振り返る前に、千尋がこちらに気が付き、スパーリングを中断すると声をかけてくる。
「拓人! …遅い」
ムスッとした顔で睨んでくる。かなりご機嫌斜めだ。
「ごめん! 道も混んでてバスが遅れちゃって──」
「タオル…。水も」
「了解──」
急いで用意してきたタオルをバッグから出そうとすれば、横で見ていた蒼衣が肩に掛けていたバッグからピンク色のタオルを取り出し、千尋に差し出した。おろしたてのフカフカだ。
「良かったら使ってよ。水も買ってきてるし」
ニコリと微笑む。こうして見るとかなりの美人だ。たいていの男性なら目尻が下がるだろう。けれど、千尋はチラともそれを見ず。
「──拓人、早く…」
「あ…、う、うん」
なんとなく、千尋の機嫌の悪さの原因を見た気がした。
一旦、止めた手を動かし、持ってきたバッグからタオルを取り出す。濃いブルーのそれは千尋のお気に入りだ。草臥れてきているが、次を下ろせずにいる。
蒼衣の差し出したそれと比べると、かなり差があるが。
俺はリングに上がって千尋の汗を拭き、水を飲ませる。グローブをしたままでは自分で飲めないからだ。
千尋の世話を焼いている間中、横から刺すような視線を感じた。
うーん。やり辛い…。
「あと少しやったらこれ終わるから。それで今日はおしまいだ」
「そう?」
いつもならその後、軽くマシーンで鍛えていくのだが。千尋は視線だけ横へとちらと動かし。
「──落ち付いてできない」
彼女はずっとこちらを睨みつ続けている。
「そうだね…」
俺も相づちを返した。
千尋はその後、暫くスパーリングしたのち、言った通り帰り支度を始めた。
その間、蒼衣のことはまっく無視したまま。蒼衣の方もしつこくして千尋を怒らせたくないのか、ムスッとはしていたが、それ以上、関わってこようとはしなかった。
「帰ろう」
「うん…」
俺と千尋はジムを出る。
帰る直前、千尋はオーナーのいる事務所へ寄った。話があるらしい。千尋はオーナーと二人で話したいと、更に奥の部屋へと入って行った。
俺はその手前の部屋で待っていたため、何の用だったのは分からずじまいだった。
外に出た千尋は、俺の手を握ると駅までの道のりを歩き出した。
街灯の白い光が夜道を照らし出す。時折、店から揚げ物のいい香りが漂って来た。開いた戸口からは、賑やかな歓声が上がる。
蒼衣は追って来なかった。
「オーナーに、蒼衣を練習場の中に入れないで欲しいって頼んできた。まともに練習できない。次からはいないはずだ」
「そっか…」
帰り際、事務所に寄ったのはそれだったのだ。
今日の様子を見れば、素直に言うことを聞くか不安にはなるが、取り敢えずこれで千尋も、落ち着いてトレーニングに向かうことができるだろう。
それに──。
俺自身もホッとしていた。
今日のようにずっと張り付かれて、険しい眼差しで睨まれていては、落ち着かないし、手伝いにも集中できない。それは千尋も同じなのだ。
「拓人」
「ん?」
「拓人はなにも心配しなくていい」
俺の手を口元まで引き寄せ、キスをする。真摯な眼差し。俺は笑みを浮かべると、
「…俺のことは大丈夫。千尋はトレーニング集中して。なにかあったとしても、対処できるくらいは大人になったし。何とかなるって」
「ん…」
千尋はそれでも、どこか心配そうな顔で頷いて見せた。
✢
それからしばらく、蒼衣はジムに姿を見せなかった。もう来ないものと安心していたのだが──。
その夜、いつものようにトレーニングを終え、千尋と共にジムを出た所で。
壁に背をあずけ、蒼衣が待っていたのだ。
端末の明かりに顔が照らし出されている。以前の様にメガネはかけていなかった。
間近で見ると、かなりの美人だと分かる。目は大きく黒目勝ち、化粧をしているのを割り引いても、綺麗だと思えた。
けれど、どこか作られた綺麗さにも見える。それが何故かは分からなかった。
端末を握る指先にもネイルがきっちり施されていて、以前よりかなり派手な印象だ。
千尋と俺が出てきたのに気づき、それまで熱心にいじっていた端末から顔を上げると、
「千尋! 話があるんだけど…」
「俺はない」
きっぱり言い切ると、俺の腕を取り歩き出すが。
「こっちはあるの! 千尋と話したいの…。──ねぇ。あんた、先に帰ってくんない?」
蒼衣の視線がこちらに向けられる。あんた、とは俺のことらしい。
さて、どうしようか。
言われて帰るつもりはない。
けれど、そのまま言えば逆上するのが目に見えている。なんと言うべきか。
が、口を開く前に、千尋が俺と蒼衣の間に立って。
「話す事は何もない。お前とは終わってる。これ以上、関わろうとしても無駄だ」
「──なに、それ…。私が会いに来たのに、それ? おかしくない? 結婚までしようとしてたくせに?」
その言葉に思わず息をのんだ。
結婚。
それは人生をともに歩もうとした証拠だ。
しかし、千尋は俺にチラと視線を向けたあと、繋いでいた手をきゅっと握り。
「…何度も言う。終わった話だ。今は拓人しかいらない」
「──!」
「行こう。拓人」
そう言って、俺の手を引いた千尋はそのまま歩き出し、二度と振り返ろうとしなかった。
結婚か。
なかなか重いテーマだ。当時の千尋は、彼女相手にそこまで考えていたのだ。
俺と千尋には、今のところ、こないだろう未来。外国に出ればあるのだろうけれど。
けれど、今のところそこまで必要とは思っていない。この状態でも十分、同じ状態だと思うからだ。
それは千尋も同じだと、思っている。
家に帰ってからも、千尋は蒼衣のことを口にはしない。ただ、夕食後、寝室で布団を敷いていれば、
「拓人…」
「なに? 千尋──」
千尋が抱きついてきたのだ。勢いでそのまま敷いたばかりの布団の上に、ふたりともども転がる。
「千尋っ、ちょっとまって──」
「またない」
「うぷっ…」
抱きついてキスの雨を降らせてくる。もう、こうなると止めようがない。
──まあ、止めるつもりもないけれど。
甘えているのだ。嫌な事があると、いつもこうなる。
それは──そうなるよな。
あんな風に何度も付きまとわれ、一向にこちらの言う事を聞かない。いい加減疲れるし、ウンザリもする。
俺は抱きついてくる千尋を、なだめるように、癒すように、背中をなで頭をなで。
そうするうちに、千尋も少し落ち着いたようで。
「…拓人」
「なに?」
「なんで、そんなに落ち着いてるんだよ…。俺だけ興奮してる…」
胸の上で千尋がじとりと睨んでくる。思わず、かわいいと思ってしまった。
「…千尋だけじゃないよ。俺だって──千尋にぎゅっとされたいし──したいよ…?」
恥ずかしくて、千尋の顔をまともに見られず目を反らす。
ここの所、中々機会に恵まれずにいたのだ。俺だって欲求不満になる。そこに、蒼衣が絡み。千尋ではないが、落ち込む嫌な気分を払拭したくもなる。
視界の端には、ニヤニヤした千尋の顔が見えた。
「良かった…。俺だけじゃない」
「当たり前だろ? 好きなんだから…」
それを皮切りに、千尋は更に抱きしめてくる。
「…好きだ。好きなのは、拓人だけだ──」
そう耳元で囁いて、唇に今度はちゃんとしたキスが落ちてくる。甘い時間が始まるの合図だった。
幸せで平和な日々。
けれど彼女の出現は、嵐を予感させた。