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3.元カノ

 後を追った先で、千尋の話し声が聞こえてきた。

 ちょうど出入口の辺り。その向こうへ行った先にシャワー室があるのだ。声は角を曲がった先から聞こえる。

 けれど、角を曲がろうとして思わずそこに立ち止まった。千尋の声の他に女性の声が聞こえてきたからだ。


「…なんで、ここにいる?」


 千尋のいつになく険しい声。


「なんでって…。久しぶりに顔見たくなって…。それに──ほら、ここの試合のポスター、そこのコンビニに貼ってあったじゃん? あれ見たんだ。…試合、でるんだ?」


 女性の声音は、遠慮を見せながらも媚びる様。


「お前に関係あるのか?」


「あ、冷たいんだー! あの時、連絡しなくなったの根に持ってんの? …あれは仕方なかったじゃん。仕事始めたばっかで、千尋の前歴、知られたらやばかったし…」


「そんな話どうだっていい。根にももってないし、終わった話だ。…二度と俺には声かけるな」


「えー! なにそれ。せっかく顔見せたのに──って、ちょっと、まってって! このあと時間ある? 話そうよ!」


「話すことはない。──拓人」


 突然、名前を呼ばれてそこへ飛び上がるほど驚いた。角のこちら側にいたことに気付いていたらしい。


 どうしよう…。


 呼ばれて出て行かない訳にはいかない。しかたなく、俺は角からおずおずと姿を現すと、手にしていたバッグを千尋へと差し出し。


「…千尋、バッグ忘れてる。着替え入ってるから…」


 こちらを睨みつけてくる女性の視線を頬に感じ、いたたまれなくなる。

 俺はあまりそちらを見ないようにして、背を向けていた千尋の腕を後ろからつついた。

 千尋は厳しい口調のまま、


「シャワールームに持ってきて」

 

 そう口にする。


「え? でも──」


 いつもはそこまで付いては行かない。


「いいから」


 そう言って、バッグを持った俺の手首をつかむと。


蒼衣(あおい)。俺、こいつと真剣に付き合ってる。だから、よりを戻そうと考えても無駄だ」


「はぁ? って、そいつ男じゃん! 男となんか、遊びでしょ? 千尋!」


 蒼衣と呼ばれた女性は声を荒げるが、千尋はおかまいなしで、俺の手をぐいぐい引いてシャワー室へと直行した。



 ドアを閉じてしまえば、もう追ってはこられない。すると、千尋はこちらを振り返って。


「あそこにあのまま残ってたら、あいつにつきまとわれる。だから連れて来た」


「そっか。そうだね…」


 確かにひとりになった所を狙われそうだった。


「しつこいんだ。…あいつ」


 千尋は言いながら、さっさと汗だくとなったTシャツを脱ぎ棄て、シャワーを浴びる準備を始めた。俺は真新しいバスタオルを手に、


「千尋。いいの? 彼女、あのままで──」


「あれでいい。…もう、関係ない奴だ。拓人もかまうな」


「けど…」


 同情ではなく、単に放っておいて大丈夫かという心配だった。彼女からは多分に諦めきれないという強い思いを感じて。

 あの勢いで迫られては、千尋もたまったものではないだろう。千尋は吐き捨てる様に、


「あいつ──蒼衣(あおい)と付き合ってたのは、十六才の時だ。もう、終わってる。なのに今更…」


「彼女はそう思っていないみたいだね…」


「あいつは少しでも甘い顔すれば、すぐにつけあがる。それに──俺には拓人がいる。…他はいらない」


 そう言って、ひたとこちらを見つめて来た。


「……っ」


「拓人も、俺がいればいいだろ?」


 熱い眼差しに、胸が高鳴る。

 金の髪が、程よく筋肉のついた首筋に張り付いていた。鍛え上げられた上半身も、同じく汗で光っている。

 それらが、すべて色気に繋がって見え、ドキリとした。


「あ、当たり前だよ…。千尋が好いてくれるの、嬉しいよ。俺、自分にそんな自信、ある訳じゃないし…。それでもいいって付き合ってくれる千尋は、貴重だなって思ってる…」


「じゃあ、あいつのことはもう気にするな。暫く絡んでくるだろうけど無視していい。何か言ってきても聞くな。俺の言葉だけ信じろ」


 千尋は手を伸ばし、頬に触れてくる。


「──うん」


 そこをなぞるように撫でたあと、唇にキスしてきた。俺もそれをきちんと受けとる。

 キスの仕方は、千尋に教えられたと言ってもいい。きっとこの先も千尋以外とする事はない。到底、こんな風に人を好きになれるとは思えないからだ。


「…拓人。好きだ…。俺のことをちゃんと見て、好きになってくれたのは拓人だけだ。──拓人―…」


 手の平が頬から首すじ、後頭部へと滑っていく。唇がかなり意図を持って重ねられた。

 千尋のさらされた素肌から、直に熱い体温を感じて意識してしまう。


「…だ、めだって。ほかの人、来るから…」


「くそ…。──抱きたい」


 それは、さっき囁かれた言葉だ。カッと頬が熱くなる。俺も名残惜しくて、もう一度、ふれるだけのキスを千尋の唇に落とすと。


「──帰ろ」


「わかった…」


 千尋はぎゅっと俺を抱きしめた後、未練を断ち切る様に離して、シャワールームへと向かった。



 荷物を手に廊下へ出ると、そこに蒼衣の姿はなかった。けれど、まとっていた甘ったるい香水の香りが残されていて。

 それに気付いた千尋の鼻にしわが寄る。嫌そうに顔をしかめると、俺の手を引いてさっさと外に出た。


 夏の空気は湿気を含んでムッとしている。それでも、新鮮な空気にほっと息をついた。

 街明かりに邪魔されながらも、夜空には星が瞬いている。

 千尋は俺の手を引いたまま歩く。

 普段なら照れ臭いし、ひと目もある。つなぐのをためらってしまうが、今は夜で辺りに行き交う人はいない。遠慮なく千尋のガッシリとした手を握り返した。

 駅に着いたら電車に乗って最寄り駅まで。そこから少し歩くと家に着く。

 古い平屋の一軒家。リノベーションは幾らでもしていいと大家から言われていて、かなり手も入れている。

 居間と隣り合っていた部屋は、続きにして床板を貼って、片側は千尋の作業空間となっていた。

 千尋との生活。他愛ない日々のやり取りのひとつひとつが楽しい。ふと気がつくと、幸せなのだと感じる。


 こうして歩いているだけでも──。


 ギュッと強く手を握り返すと、


「拓人?」


 気づいた千尋が振り返る。揺れる金色の髪。こちらに向けられる柔らかい眼差し。

 ああ、幸せだなと思う。


「…ううん。何でもない」


 そう言って、更に強く握り直して肩を並べた。その肩に寄り添うように歩きながら。


 千尋が好きだ。



 心からそう思った。


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