23.ふたり
「ほんと、驚かせるよなぁ。急に帰ってきてさ。びっくりしたのなんの…」
兄律の経営する居酒屋に、久しぶりに千尋と一緒に訪れた。二人きりで千尋の祝勝会だ。
そうしていれば、お客の波も一段落して、ひと息つける頃を見計らって、律が声をかけてきた。
どうやら、俺が実家に帰って来たのに、かなり驚いていたようで。
「ごめんって。色々あったんだ。あの時は追い詰められてたって言うか、なんて言うか…。周りが見えてなくて。とにかく、距離を置こうって…」
言いながら、チラと傍らの千尋を見る。千尋は口角を僅かに吊り上げて、笑んでみせた。仕方なかっただろ? と言った具合だ。
律は腕組みすると。
「まあ、相手が千尋だからな。気持ちは分かるけど──」
「分かるって、どう言うことだよ…」
ムッとした表情の千尋が割って入る。
酔って絡んでいる訳では無い。したたかにお酒を飲んではいるが、この程度で酔う様な千尋ではなかった。
けれど、万が一がないとも限らない。俺は睨み合った二人の間に入って。
「とにかく。もう終わったんだって。──今はもう大丈夫。今日は千尋の優勝祝いなんだから、律は余計なこと言わないでよ」
「なんだよ。こっちは心配したんだってのに。──千尋」
「なんだ…」
不機嫌に答えた千尋に、律は急にかしこまって。
「不肖の弟だけど。──拓人のこと、これからもよろしくな」
「──わかってる。拓人は不肖なんかじゃないけどな」
律は破顔したあと、千尋のグラスに、酒を縁が盛り上がるほど、なみなみと注いだ。
千尋が飲むのは日本酒、純米吟醸。溢れたそれを、コースター代わりの枡が受ける。
千尋に日本酒は意外な気もしたが、存外似合っていて。格好いいのが羨ましくて、飲んでいるのを一口もらったけれど──俺には少しばかり強かった。
「これはおごりだ。──おめでとう、千尋」
「ありがとう…。てか、なんか。くすぐったい。律に言われるのは」
「おまえの苦労も、ちょっとは知ってるからな。二人とも、幸せになってくれると、兄ちゃんは嬉しいのさ」
「兄ちゃん──。そっか。アニキだもんな」
俺たちの同棲は、いわゆる事実婚と同義語で。俺の兄、イコール、千尋の兄でもある事になる。
しみじみと口にした後、千尋は俺と律を見比べて。
「拓人はアニキに似なくて良かった」
そう言ってニッと笑んだ。
律がカウンターの向こうで憤慨していたが、お構い無しで。
二人だけの祝勝会だったはずが、気がつけば常連も加わり、皆に祝福され、和やかに過ぎていった。
✢
帰り道、薄っすら黄色味を帯びた満月が、夜空にぽっかり浮かんでいた。コロコロと鳴く虫の音が、耳に涼やかに響く。
「大きいねぇ…。月。空、見上げるの久しぶりだ」
千尋のがっしりとした手を握り、それをぶらぶらさせながら夜空を見上げる。千尋は俺に引かれるように、少し後を歩いていたが。
「…拓人」
「なに?」
「賞のこと、言わなくてごめん」
その言葉に立ち止まると、千尋を振り返る。
「…謝らなくていいよ。千尋がわざとそうしたわけじゃないってわかってる。──けど、次、もし同じ様な事があったら、直接、千尋から聞きたいな。一緒に喜びたいんだ」
「……」
「だって…嬉しいだろ? 千尋が評価されるのって。皆に認められて、俺の千尋は凄いんだって、カッコいいんだって言いふらしたくなる…」
「…分かった。次から一番に知らせる。それと、これは俺からのお願いだ──」
「なに?」
千尋は俺の手をしっかりと握り直すと、真っすぐこちらを見つめ。
「今後、なにか不安に思うことがあったら、まず俺に話して欲しい」
「千尋…」
「何でもいい。バカみたいに些細なことだってかまわない。──俺は絶対、拓人を裏切らない。──信じて欲しいんだ」
裏切らない。
その言葉に涙が出そうになった。
どんな思いをぶつけても、きっと千尋は変わらない。自分を好きだと言い続けてくれるのだろう。
「…うん。信じる…」
俺は千尋の手を強く握り返した。
次はきっと、間違えない。真っ先に、千尋に尋ねよう。
フワリと笑んだ千尋は、俺を引き寄せ抱きしめると、耳元に口を寄せ。
「拓人が、一番だ…」
虫の音と共に、しっかりと記憶に刻まれた。
✢
その日。
千尋と二人、海に出た。揃っての休日。
誰にも邪魔されたくないと、今だけ端末の電源を落としていた。
だってここは二人だけの世界なのだ。俺たち以外、すべて幻。作り物。
浜辺をそぞろ歩く恋人達も、波打ち際で遊ぶ子どもとその親も、笑いあう制服姿の高校生達も。
すべてコンピューターが創り出した幻想の世界だ。
「…そう言う設定、な?」
千尋はこちらを見て笑む。
「SFっぽいね」
俺は、ニッと笑んでそれに返した。
しばらく波打ちぎわを歩いたあと、浜辺につながる石階段に二人並んで座る。俺は千尋の肩に頭を預けた。もちろん、手はしっかりと繋いでいる。
千尋の世界はいつも楽しい。すべて塗り替えていく。
「皆、作り物。ここには俺と拓人しかいない。──拓人」
そう言って、繋いでいた手を口元へ持って行く。
「キスしたい…。して欲しい」
「──ここは、俺と千尋しかいない世界、だから?」
「ん」
千尋のキラキラの髪は日を受けて更に透けて見える。俺にとって、千尋はその輝き以上に光って見えた。
とても、大切な──存在。
俺はその手を握ったまま、背筋を伸ばし千尋の唇にキスをした。
あの試合の件以降、千尋はして欲しいとよくせがむ。俺が拒まなくなったからだ。
間近でその瞳を覗き込み。
「…千尋、好きだよ」
周りは気にしない。
千尋と俺の間には、誰も入ってこられないのだから──。
千尋はそんな俺を、ぎゅっと抱きしめると、
「…うん。ありがとう、拓人」
千尋の瞳がキラリと光って見えた気がした。
千尋と見る景色が、俺の景色。
どんな景色かは──俺と千尋だけの秘密だ。
引いては打ち寄せる波音は、いつまでも穏やかに耳朶に響いていた。
ー了ー




