22.歓声
「千尋!」
狭い会場が揺れるほどの大歓声の中、レフェリーが千尋の腕をとって掲げて見せた。天井のライトが目に眩しい。
二ラウンド目、相手は千尋のパンチでノックアウトされ、立ち上がれなくなった。それで、勝敗が決する。千尋の勝ちだ。
試合は勝ち抜き戦となっている。千尋は最終戦、決勝は朗とだ。因縁の対決。
俺は半ば崩れるようにしてロープによりかかった千尋の身体にタオルをかけ包み込む。
「お疲れ様。次の試合まで時間があるから、休もう」
「──ん」
ロープの間を抜け、リングを降りる千尋に手を貸す。
触れる腕や身体はかなり熱い。汗も滝のようだ。唇の端に血が滲むのは切ったせいで。相手のパンチが入った証拠でもある。
けれど、致命的なそれではなかったようで。疲れてはいるようだが、足取りはしっかりとしていた。
「朗に勝つ…」
絞り出すように、それでもはっきりとそう口にした。
「うん。大丈夫。──今の千尋ならいける」
俺は笑みを浮かべ答える。今日の千尋は絶好調で。俺の中でやられる姿は想像つかなかった。
椅子に座らせ、水を飲ませる。
試合は十五分後。殴られた頬や顎に氷嚢をあてて冷やした。冷たい雫が頬を滑り落ちていく。
リングの反対側では先に試合を終えていた朗が休んでいた。
イスにどっかりと座り背もたれに寄りかかっている。あちらもかなり体力は削られているようだった。
体重や体格からも、朗に分がある。けれど、機敏さは千尋が上だ。相手の攻撃を避けた隙を突けば行ける気がする。
とにかく、まともに攻撃を受けないことが大事だ。
こんなこと、言わなくとも千尋は分かっている。それに、セコンドで指示役のオーナーが、もっと的確に同様の内容を伝えていた。
だから、俺は別のやり方でそっと千尋を応援する。
オーナーが席を外したあと、見計らったようにバサリと頭の上からタオルをかけ、千尋の頭を覆う。まるでテントの中の様に、二人だけの空間となったわずかな間。
「千尋…」
「拓人…?」
千尋は何ごとかと僅かに視線を上げる。
俺はえいやとばかり、意を決して血の滲む唇に、そっと触れるだけのキスをした。本当に一瞬だ。
千尋が、ピクリと身体の動きを止めて反応する。
「…応援してる。頑張って」
「……」
俺は直ぐにタオルを外して、汗ばむ千尋の身体を拭きだした。それで、二人きりの空間は終わったが。
千尋はしばらく黙っていたけれど。
「…拓人」
「うん?」
目を伏せ答える俺の頬は真っ赤だろう。
「絶対に勝つ。勝ったら──また拓人からして欲しい」
こちらを見つめてそう口にした千尋の目はかなり熱い。俺はしどろもどろになりつつ。
「うん…」
そう答えた。
それから。
朗との対戦が始まる。三ラウンド経たのち。
レフェリーが、満身創痍の二人の間に立って、千尋と朗の手首を取る。
「勝者─…!」
天井のライトが眩しく目に映った。
✢
「拓人さん!」
ジムに向かう途中、弾む様な声に振り返れば、朗が軽くかけるようにしてこちらに向かって来るところ。
「あれ、朗。早いね」
「そ。今日はバイト入れてないし。拓人さん、ジム行くなら一緒に行こう」
追いついた朗は、そう言ってするりと俺の二の腕に腕を絡めて来る。
「こら。くっつかない」
俺はすかさず、ツッコミを入れるが。
「いいじゃん。千尋、どうせ遅れるんだろ? 見られないって」
朗は悪びれない。
「そう言う事をいってるんじゃないよ。ほら、離して──」
言いかけたところへ、二人の間に割って入るように人が現れた。
「…離れろ」
キラキラした金髪が目の前を掠める。千尋だ。どうやらいつもより早めに上がれたらしい。朗は嫌そうに顔をしかめ。
「せっかくの拓人さんとの時間、邪魔すんなよ。だいたい、いっつも独占してんだろ? 少しは譲れっての」
「そう言う問題じゃない。譲るものでもない…。拓人は俺だけのだ。誰かと共有なんてしない。──特にお前とはな」
千尋はきっちり、俺と朗の間に割って入るとそう口にした。
「あー、ヤダヤダ。独占欲丸出し。拓人さん、面倒くさいでしょ? だから俺が勝って千尋から乗り換えて欲しかったのに…」
「千尋が勝っても負けても、それはない。だいたい、それ含めて一緒にいるから。ほら、前見て歩かないと、また──」
ビクッと朗は肩を揺らして立ち止まり、足元をキョロキョロと見回した。俺は思わず吹き出す。
「あ! 引っ掛けたんすか?」
朗はムスッとして睨んでくるが。そんな様子に千尋は首をかしげる。
「んだ?」
「条件反射なんだ。手をださないように、躾した」
「…拓人さん。意地悪いっす」
俺は声をあげて笑った。
そう。千尋は朗との決勝戦を制し、ジム主催のトーナメント戦でみごと優勝を果たした。しかも階級無視のトーナメントだ。
朗との身長差は十センチ以上。体重も違う。
それなのに勝ち抜けたのは、千尋の持ち前のセンスが発揮されたからに他ならない。
改めて千尋の能力を再確認したオーナーは、何とか千尋をプロにしたいらしいが、やはり千尋に頑なに断られ。
ふとこちらに顔を向けて、拓人くん、アマチュアから初めて見ない? と言われた。
勿論冗談と分かっているけれど。
俺がやれば、千尋も本気でやり出す──とでも言うのだろう。
どう転んでも、俺がキックボクシング選手を目指すことはないため、千尋が考えを変えない限り、プロを目指すことはないのだろう。
そうして、賑やかに三人でジムへと向かった。
夏にしては涼しい風が、抜けるような青空のもと、吹き抜けていった。




