2.ジムにて
「あー、疲れた…」
スパーリングを終えて、リングから降りた千尋は、近くに置かれたパイプ椅子にどっかと座ると天を仰いで目を閉じた。
その肩にタオルを羽織らせ、同じく傍らの椅子に座った俺は、千尋の膝の上に投げ出されたグローブの紐を解きながら。
「今日、仕事も忙しかったんじゃないの? 急ぎの仕事入ってるんでしょ? 無理してない?」
「ん―…、拓人がキスしてくれたら復活する」
チラリとねだる様な目でこちらを見てくるが。
「…千尋。ここ、みんないるから…」
やらないと分かっていても、そう言ってくるのだ。本気じゃないと分かっているけれど。グローブの下に巻かれたバンテージも外しながら。
だいたい、そんなことできないよ。
キスなんてすれば、はたから見れば、飛んだバカップルだ。こんな所でいちゃつく奴なんていないだろう。
それでも、恨めしそうにジトリと睨んできた千尋に、彼だけにしか聞こえない小さな声で。
「…後で、ね?」
言いながら頬が熱くなるのを感じる。言った傍から恥ずかしくなって、千尋の手元しかみていなかった。
「ん…。了解」
千尋は笑むと、俺の肩に頭をこつりと預けてきた。
✢
千尋との日々は、一応、順調だった。
一応と言うのは、ここ最近、千尋の仕事が忙しくなってきているからだ。
忙しいのはいいことだけど、代わりに一緒に過ごせる時間が少なくなってきている。
勿論、朝晩は顔を合わせていた。けれど以前にはあった、二人揃ってゆっくり過ごす時間が失われているのだ。
俺は土日祝が休講だけれど、千尋の仕事はそうはいかない。一応日曜休みで後は交代で、となっているが、最近その日曜休みも無しとなっているのだ。
大口の仕事が入ったのに加え、オーナー沢木の跡取りの面倒を見ているからだ。
大学四年生、実習も兼ねて仕事を手伝っているのだが、その指導も頼まれているらしい。
休みどころではない。
代わりに振替で平日を休むのだけど、そうなると当然、俺と休みが合わなくなる。
それに、平日は俺もバイトを入れていて。週三日程度、兄の店へ手伝いに行くのだ。
だから気がつくと、一週間、おはようといってらっしゃい、おかえりを言うくらいで、慌ただしく過ぎてしまう。
ちなみに、千尋の仕事が遅くなる日は、オーナー宅で食べて来る。他の職人も当たり前の様に皆そうしているため、ひとり帰る事も出来ない。
そんなこんなで、ジムで過ごす時間が、唯一千尋と過ごせる大切な時間となっている。
が、このジムも最近、雲行きが怪しくなってきた。
通っているジムが、関係のある他のジムと共同で大会を開催することになったのだ。勝ち抜きトーナメント戦。そこに千尋も参加する事になり。
その話を帰り際、千尋といる時にオーナーから聞かされた。トーナメント戦の参加者を募っているという。
傍らの千尋が興味を示す。犬の尾尻と耳がピンと立つ、あの感じだ。
けれど、千尋は俺に遠慮して、やりたいとは言わない。俺が千尋がやられる姿を見たくないと知っているからだ。
でも、千尋は本当はやりたくて仕方ないのだ。尾尻があれば、ブンブンと振っていた事だろう。
それを分かって、嫌だとは言えなかった。それに、やはり闘う千尋はかっこよくもあって。怪我は怖いけれど、千尋の思いを優先したい。
「千尋がやりたいなら…」
それで、千尋はオーナーの誘いをオーケーし、そのための準備を始めたのだ。
いつものトレーニングも、より実践向きのものへと変わり。必然それらに費やす時間も増え。
結果、トレーニング時間は増えたものの、会話する時間は激減してしまった。
見ているだけでも、十分楽しいけどさ…。
すれ違う、までは行かないにしても、ゆっくりした時間を過ごせてはいない。
日々の生活では朝食、夕食で話せればいい方。どちらかの帰りが遅いと先に寝てしまうこともある。
そんな時、俺は二人でひとセットの布団に、遠慮してそっと入るだけにとどめるが、千尋はたいてい抱きついてくる。
それで少し目が覚めて、『おかえり』とか『おやすみ』とか言って。額や頬にキスが落ちてきた所でまた眠りにつく。
こうして、当初とはいささか様子が違ってきているが、幸せであることには変わりなかった。
✢
拓人は肩に乗せられた千尋の頭を、しばらくそのままにさせていた。いちゃつかない分、これくらいなら許されるだろう。
千尋は目を閉じているが、寝ているわけではないらしい。
練習場にはスパーリングその他、トレーニングの音が響いていた。練習生は鍛錬に余念がない。
その中には朗もいた。短髪に少し垂れた、けれど鋭い眼差しを持つ青年だ。
去年、高校を卒業、プロテストに合格し、試合での実績を着々と積み上げている、千尋の──俺が勝手にそう思っている──ライバルだ。
身長が百八十センチ以上あるため、はた目からは実年齢より年上に見えた。俺も初めて見た時、高校生とは思わなかったものだ。
このジムには、物心つく頃から通っていたらしい。通っていた年数で言えば、朗の方が千尋の先輩になるのかも知れない。
「あいかわらず、そいつのおもりしてんの?」
スパーリングの合間、リングのロープに腕を預けると、朗はからかい加減でこちらを見下ろしてそう口にした。千尋はうっすら目を開けると。
「拓人に気安く話しかけんな。ガキはあっちに行ってろ」
朗はその言葉に大仰なため息をはきだすと。
「うざい番犬…。拓人さんもさ。良く付き合うよな。もういい加減、面倒になったんじゃないの?」
俺は笑って。
「ならないよ。ほら、まだ練習中だろ?」
そう言えば、あーあと声を漏らしたあと、大きく伸びをして、またリングへと戻って行った。
千尋は再びスパーリングを開始した朗を睨みつける様にしながら。
「あいつ…。しつこいんだ。拓人のこと、気に入ってる…」
「ふざけてるだけだよ。だって朗は彼女いるでしょ? この前来てたよ。一緒に帰って行ったし」
「日替わりだって。あんなの。何人いるか分からない。毎回連れてくる奴違うんだ。…拓人」
「なに?」
「あいつに誘われても、絶対、二人きりになるなよ? 取り巻きのひとりにされるだけだ」
「あはは。そんなのないって。朗は千尋と絡みたいから俺をネタにしてるだけだもん。見てれば分かる。…案外、千尋のこと好きなんじゃないのかな?」
「──想像しただけで、吐く。それ」
「ふふ。分かんないよ?」
「やめろ…。あいつから好意とか、想像だけでも鳥肌たつ。──それより、本当にふたりきりになるなよ? …拓人は隙だらけだから」
「はいはい。分かってるって。でも朗とは会うのはここでくらいだもん。二人きりになんて、早々ならないって。──さて、休憩済んだ所で軽くストレッチ? とも、もう少し身体動かしてく?」
「あー、もう帰る…」
「そう? まだ早い気もするけど──」
すると、千尋が耳元へ唇を寄せてきて何事かをぼそりと囁いた。それを聞いた途端、顔が赤くなる。
千尋はそんな様を満足気に見やった後、イスから立ち上がって、シャワー室へと向かった。
俺はイスに座ったまま千尋に囁かれた耳を押さえる。直積的な言葉を囁かれたのだ。
ったくもう…。
千尋はそう言うことに照れがない。
ここしばらく、千尋と二人でゆっくり過ごす時間がなかった。俺もどこか物足りなさを感じていたのも事実で。
でもさ。
やっぱり、直接言われると、照れくさい。
そんな風に千尋との日々は忙しく過ぎて行っている。
忙しいのは、お互いの時間が充実している証拠。ありがたい事なのだと思うことにしている。でないと、不平不満となってしまうからだ。
「あ…」
そこで、はたと我に返り、着替えの類がはいったバッグが、足元に置かれたままなのに気がついた。
中に着替え入ってるのに。
慌ててそれを手に後を追った。