10.送迎
次の日の朝、朗はきちんと時間通りに迎えにきた。玄関先のインターフォンが到着を知らせる。急いで玄関に向かった。
千尋は既に出たあと。
急いで仕上げねばならない仕事があって、朗の送迎を気にしつつも、慌ただしく家を出ていった。
仕事だけならそこまで忙しくないのだが、他にもやることが増え、そのおかげで今持っている仕事を早めに片付ける必要があるのだとか。
他にやること──それはオーナー沢木の後継ぎの指導だ。芸術大学四年生。実習も兼ねて仕事を手伝っているらしい。
が、手伝うと言っても、誰かが傍についていなければ、右も左も分からない。その指導を一番下っ端となる千尋が任されたのだ。
それで、いつにも増して忙しい。
沢木には当分住み込みでどうかとと言われたが、それは断ったと言う。理由は俺といる時間を大切にしたいからだ。
確かに住み込んでしまえば、仕事には都合がいいが、俺とは顔を合わせる機会がぐんと減ってしまう。
ただでさえ、ジムに近寄ることができないのに、そのうえ、沢木の所へ行ってしまえば、千尋のあるかないかの休みに、顔を合わせるくらいになってしまうだろう。
それに、今の状況では、千尋が傍にいてくれた方が安心できる。千尋の選択が素直に嬉しかった。
けれど──とため息を漏らす。
なんでこんなに色々重なるんだろう。
重なる時は、いっきに重なるものなのか。
「今、開けるね」
引き戸の玄関を開けると、そこに朗が立っていた。
「おはよ」
朗がニコリと笑う。
このやりとりが、いつかの千尋とのやり取りを思い起こさせ、思わず笑みがこぼれた。
あの時は、千尋が本当に来るのか半信半疑で。来たら来たで、緊張したし何が起こるのかとおっかなびっくりで。
懐かしい思い出だった。
✢
「おはよう、朗。ありがとうな。早速」
「いいって。拓人さんとほぼ毎日、一緒に往復できるってけっこう役得だし。なんなら、手、繋ぐ?」
大きな手をひらひら振って見せた。
朗はプロになって、それ一本で生きている。勿論、それだけで生活費が賄えるはずもなく、強力なスポンサーあってこそらしい。
そのスポンサーは、祖父なのだとか。
かなりの資産家で、自身の息子には厳しいが、孫には激アマなのだという。
おかげでキックボクシングに集中できているのだとか。普通なら、バイトの掛け持ちでもしないと生活できないだろう。
「もう…。ふざけない。ほら、これ。お腹すいたら食べて。お礼にもならないけど…」
「何?」
拓人は小ぶりな紙袋を渡す。
昨晩焼いたマドレーヌだ。糖質制限もしているだろうからと、アーモンドプードルを使ったもの。
千尋が好きでよくリクエストされる。千尋のおやつにと作った分のおすそ分けでもあるのだけど。
「わ! すげー。彼女からももらったことないって。ありがとう、拓人さん」
紙袋の中身をのぞき込んで歓声を上げた。ぱっと表情が明るくなると、年相応に見える。
「やっぱりさ、千尋と別れて俺にすればいいのに。面倒な女だっていなくなるしさ」
長身な体躯を折り曲げて、顔をのぞき込んでくるが。
「…そんなの、朗の方だって女の子に恨まれるって。冗談はいいから。ほら、さっさと行こう」
朗は黙って立っていれば、かなり目を引く。際立った容姿、と言うわけではないが、雰囲気があって目を引くのだ。
おかげでいつも女の子を切らした事がない。人徳なのか上手いのか、その女の子同士が諍いを起こす事もなかった。
「本気で考えてよ。拓人さんがその気なら幾らでも善処するし」
「まったく…。女の子で不自由していないくせに…。俺だって、千尋だからいいんだよ? 同性が全部、オーケーってわけじゃないよ」
「じゃ、試しにキスしてみる? いけたならオーケー?」
「──そう言うの、好きじゃない。前見て歩かないと踏むよ」
「何を?」
俺はニッと笑み。
「わんこの落とし物。たまに始末しない飼い主がいるんだ。──ほらそこ」
それは道の端にちんまりと鎮座している。気をつけないと踏むだろう。
「げっ! あっぶねー」
「ふざけてると、ね? まっすぐ前を見て歩きましょう」
「んだよー。雰囲気ないなー」
「元からないよ。そう言えば、朗はこのまま、プロでやってくの?」
「そ。大学とか、そのあとでもなんとかなるかなって。やりたいことあるなら、その時目指せばいいから。道は色々。今はキックボクシングが楽しいから。厳しい世界ではあるけどさ…」
「凄いなぁ。確かに進学なら、やる気さえあれば、どうにでもなるか…」
「──ま、普通なら生活も厳しくなるんだけど、俺には孫に甘い爺ちゃんって言う、強い後ろ盾がいるからね。爺ちゃんが元気なうちは頑張ろうかと」
「そっか。それは大きな後ろ盾だよな? そうやってまっすぐ進むの、朗らしい。かっこいいね」
「そう? 好きな人にも一直線、だけど──」
こちらに手を伸ばしてくるが。
「ほら! またあった」
「うわっ!」
俺が腕を引いて何とか避けることができた。
「気を抜くと一日、人が遠ざかる羽目になるよ?」
「…わかった。真面目にする」
「いい子だ」
そうして、賑やかに朗と共に大学までの道のりを歩いた。
朗は時間に自由が利くから本当にありがたかった。千尋とはそうはいかない。
千尋の仕事はお客さま相手で。自分の都合でどうにかなるものではないのだ。
本音を言えば、千尋とまた出会った頃のようにあちこち歩いてみたかった。あれは本当に楽しかったのだ。
今は忙しくなってそんなことはしていられないけれど。
朗に気づかれないほどの、小さなため息をひとつ漏らした。
✢
「あいつ…。大丈夫だったか?」
工房から帰って早々、千尋が尋ねてくる。
俺は玄関を上がり廊下を行く、千尋の背を押すようにしながら、
「大丈夫だって。ほら、先にお風呂使って。疲れたでしょ」
「…心配だ」
「無事に送り迎えだけしてくれたよ。なんだかんだ言っても、朗は俺になんかちょっかい出さないって。ふざけてるだけなんだからさ」
そう言っても、千尋は納得しない。
「何かあったら言えよ」
「ウンウン。わかってる」
「妙な連中もいなかったか?」
「いなかった。昨日の今日だし…。朗がいれば何かしてくることはないかもしれないね」
何か行動を起こすにしても、ひと目につけば通報される。簡単に手はだしてこないだろう。
「…ならいい。けど、十分注意してくれ」
「うん」
「本当は…俺が守りたかった」
立ち止まって振り返ると、頬に触れてくる。大きな手は心地よい温もりを伝えてきた。
「…ありがとう。千尋」
その思いが嬉しかった。




