1.それぞれの日々
【登場人物】
・篠宮拓人…千尋のパートナー。十九歳。大学生。
・橘千尋…拓人のパートナー。二十歳。家具職人として働く。
・高阪朗…プロのキックボクサー。十八歳。千尋と同じジムに通う。
・宮前達生…拓人の大学での友人。
・木下蒼衣…千尋の元彼女。二十歳。
・沢木紡…千尋の勤める家具工房のオーナー沢木の娘。大学四年生。
※その他登場人物は、前作をご確認ください。
「千尋! おまえの作った椅子、賞を取ったぞ!」
夏季の日の出は早い。早朝の工房へ、朝日が差し込みだす頃、事務室にいたはずのオーナー兼職人の沢木が、にこにこと満面の笑みを浮かべて訪れた。
千尋は作業の手を止めて顔を上げる。朝早いため、他の職人はまだ来ていない。
「…賞?」
千尋は首をかしげた。思い当る節がない。
「ああ。このまえ新人作家だけの作品展に応募したろ? 椅子二脚。今、審査員している知り合いから連絡があってな。奨励賞だ。そのうち通知も届くって言ってたぞ」
確かに沢木に言われて出品した記憶はある。が、そう言われても、ピンとこない。
「…そうですか」
気のない返事を返せば。
「おいおい。なんだ? 嬉しそうじゃないな?」
「そんなこと、ないですけど…」
奨励賞がどういうものかわからない。一番上でないことは確かだ。そんな千尋の胸のうちを察した沢木は苦笑しつつ。
「たいした賞じゃないと思ってるんだろ? 確かに最優秀賞はほかにいる。…けど、なだたる新人作家を差し置いて、無名のお前が名のつく賞をとったんだ。──お前、注目されるぞ?」
「そんなもん、なんですか?」
「おう。そんなもんだ。良かったな!」
そう言って千尋の背をばんばん叩いた沢木は、嬉しそうに鼻歌を歌いながら戻って行った。
残された千尋は憮然としていた。
どういうものなのか、なにが変わるのか、千尋にはわからない世界だ。とりあえず、少しは認めて貰えた、と言う事なのだろう。
千尋は沢木の報告をその程度と決め、また目の前の作業にとりかかった。
大口の仕事が入り、その手伝いをしている千尋はやることが多く気も抜けない。そこに、沢木の跡取りの面倒をみるよう頼まれていて。
千尋は息をつく。
開け放たれた窓から、蝉の鳴き声が聞こえてくる。工房内はすっかり朝の光に満たされていた。
やることが多すぎて、自身の事に気を回す余裕がないのが正直なところだった。
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「拓人。今日帰り、皆でカラオケ行くけど、どうする?」
達生が少し吊り上がり気味の目をくりくりさせながら尋ねてくる。
大学に入ってから、講義で席が隣りあったのがきっかけで知り合った友人だ。短くカットした髪が、クセ毛なのかピョンピョンと跳ねている。
その向こうの窓の外に、緑の葉が影を作っているのが見えた。夏真っ盛りではないため、冷房はついていない。この時期なら、窓を開け放つことで何とかしのげている。
「あー、ごめん。今日、行く所があって…」
「あれ? バイトの日?」
聞かれて一瞬返答に迷ったが。
「ううん。その…友だちの──トレーニングに付き合ってるんだ」
「トレーニング?」
達生は驚いた様に聞き返してくる。
「そう、キックボクシングの。セコンド手伝ったり、いろいろ。部活のマネージャみたいな感じかな?」
例えるならそんな感じだ。
そう。俺は目下恋人であり、パートナーでもある千尋がジムで練習を行う日、そのマネージャ役を買ってでているのだ。
ちなみに『千尋』を友だちと言うくくりにするのには抵抗がある。
でも仕方ない。友人らにも、いずれは話すことがあるかも知れないが、今はまだその時ではないと思っていた。
千尋は金色にカラーリングされた髪が肩先でキラキラと揺れる、ひとつ年上の二十歳。糸目でいつも笑っているように見える。
兄の友人でもあった彼と出会ったのは、高校二年の時。自宅に引きこもっていた俺を、外の世界へと連れ出してくれて以来の付き合いだ。
その時はまだ恋心などなかったけれど、同じ時間を過ごすうち、千尋に好意を持つようになり。
千尋もまた、以前より好意を持っていてくれたため、俺が思いを自覚した時点で付き合いが始まったのだ。
俺の大学入学を機に、一緒に暮らし出している。
俺達の関係は、取り敢えず身近な者たちには周知されていて。
俺の方は、父親が病で亡くなったあと、女手ひとつで育ててくれた母奏子と兄律二十二才は既に承知済みだ。
千尋の方はと言うと。
幼い頃、両親が離婚し、父親と共に暮らしてきた。その父親が海外の山で遭難し死亡。
以来、ひとりで生きてきて。その他親族も付き合いがなく音信不通だ。家族らしい家族はいない。ただ、頼れる大人が何人かいて、彼らはこの関係を知ってる。
お互い親しい者たちには理解を得ていた。
二人ともその点では恵まれている。
千尋は家具職人の見習いとして働く傍ら、趣味のキックボクシングを続けていた。趣味と言うと軽く嗜み程度に聞こえるが、実際は違ってかなり本格的だ。
トレーニングもプロを目指す練習生と変わらないし、スパーリングも力が入っている。一見すれば、千尋もプロを目指しているものと思うだろう。
ジムのオーナーも、なんだかんだ言って千尋のプロ入りを諦めていないようで、ことある毎に勧めてくる。けれど、千尋にその気はないようで、いつも素っ気ない態度でふっていた。
何にせよ、千尋はカッコいい。
そんな千尋の傍にいたくて、俺も練習にマネージャよろしく参加しているのだ。
「へえー、なんか凄いじゃん」
達生は目を丸くしてそう口にする。俺は照れ笑いを浮かべながら。
「って言っても、ほんとに簡単な事しかしてないんだけどね。──って、あ、バスの時間! じゃあ、また明日!」
腕時計に目を落とすと、急いでバス停へと向かった。途中、強い風が吹き付け、濃い緑がザッと葉を揺らす。風が心地いい。
やっていることは、本当に部活のマネージャーと一緒だ。
トレーニングマシーンの隣でタオルを手に待機したり、スパーリング時は水を飲ませたり、タオルで汗を拭ったり。着替えを用意するのも当たり前。
それで楽しいのかと問われれば、楽しい。千尋の役に立てていることが嬉しいのだ。
千尋が生き生きと動く姿は惚れ惚れするし、パンチやキックが決まると格好良さが倍増する。
そんな千尋は、俺にとってヒーローだ。